第九十八夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(13)
100夜では終わらないことが判明しました。よく書いたものだ。
加藤君の持つ黒く太い竿が、若い柳の幹のように、湿った空に半円を描いている。
三日月の輪郭を思わせる優雅なカーブは露に濡れて輝いている。
糸が水面を走る度、含んだ水分を霧に変えて巻き上げる。巻き上がった霧に、朝の光が虹色に反射する。
それはとても綺麗だった。その美しさに、僕の心は優しく癒された。
(釣りとはこんなにも美しい遊びなのか)
それは緊迫の時間であるはずなのに、確かに僕は癒されているのだ。
竿の先端から水面下に一直線に延びている太く白い糸が、限界の緊張でギリギリと音を立てている。濡れた土手の上で加藤君が腰を落とし、その水面下からの強烈な力に両手で抗っている。たった一本の糸を介しての陸と水中の引っ張り合い。力と力が均衡してから、もう3分もの時間が経過しているだろうか。でもそれは、実は1分ほどなのかも分からない。
掛けてあげられる言葉も、貸してあげられる手も、僕には何一つない。
ただただ興奮し、己の無力を感じ、そして何故か、とても美しいと思った。
その日の釣りも、いつもの如く早朝で、それは風のない濡れた緑色の静かな朝だった。
またも空は雨模様だ。ここ数年ではめずらしく、しっとりとした梅雨らしい梅雨が続いている。
土砂降りではないが、小降りでもない。そんな天候は日の出から今に至るまで、全く変わっていない。もうすっかり見慣れてしまった黄色く丸い大きめの浮きは、変わらず水面に佇んでいて、ピクとも動く気配がない。雨粒が水を叩く小さな音も変わらない。まるで刻が動いていないかのような錯覚すら起こしそうになる。そんな静寂は、たっぷりと一時間以上は続いただろうか。その静寂に、水面に投げられた小石が作る波紋のような、微かな変化を与えたのは、ふいに呟いた加藤君の声だった。
(来た・・・)
僕は加藤君の表情を伺う。彼の視線は・・・右方向。その方向に視線を向ける。
(あっ)
僕が気付いたのは、そのさざ波だ。小さな三角形の波が移動しているのだ。右から左に。
速い移動ではない。水に生息する生物の動きとしては、かなりゆっくりだ。
真っすぐだ。真っすぐでゆっくりだ。その向かう先は、今も黄色く丸い浮きが浮いているその水面。浮きとの距離が詰まる。少しずつ、少しずつ。
(ふっ)
水面にある浮きまで、あと1メートル。雨音の中でも聞こえるほど僕の鼓動は高まっていたが、その高まりを巧妙にいなすように、三角形の先端がすぅと水中に消えてなくなった。
1秒、5秒、沈黙の時間。
(消えちゃったね)
そんな一声を僕の左手に座っている加藤君に掛けようと、視線を左に向けた瞬間だった。
(ダパンッ)とも聞こえたし(ドバンッ)だったような気もする。
思わず水面に再度目をやると、土色に濁った高い水柱は、まだ完全には収まっていなかった。茶色い飛沫が巻き上がっている。
同時に僕の左耳が、(ギャリンッ!)という、釣り竿が湿った空を切って立ち上がる音を聞き取っていた。
加藤君が実際に魚を釣り上げる場面に、僕は何度か立ち会っている。
一番初めは50センチくらいのライギョ。40センチあるなしの、バスという魚を釣り上げるシーンは都合4度も見ている。同じ位の大きさのナマズは2匹ほどだったか。どの魚も僕的にはとてつもない大物に思えたのだが、釣り竿を捌く加藤君の所作は、いつも至って落ち着いたものだった。
(大きくないですね。まあ40センチくらいのバスかな)
そんな言葉を、魚が掛かったあと、まるで独り言のように、決まって彼は小さく語る。
そしておおよそ彼が言った通りの大きさの、言った通りの魚種が、程なくして糸の先に現れるのだ。釣れる魚の大きさについては、竿を引っ張る力の強さなんかから予想できるのだろうけど、見えもしない段階で魚の種類までも正確に当てることができるのが、釣りをしない僕には少し不思議だった。
僕が非番である毎土曜日の早朝に、夜明け前からその池の辺で彼を待つのが週末の行事になった。毎土曜日に彼を待つ僕のことを、加藤君は一体どう思っているのだろう。
いつも小さく(おはようございます)と挨拶する声色は、別段に親しげではないが、迷惑だとあからさまに訴える様子でもない。だから僕には、彼の真意が、今もよく分からないのだ。
何度か、(迷惑だったらもう来ないけど)と問おうとして、結局はそんな問い掛けを一度も僕はしていない。
この日も、加藤君より少し早く池に到着していた僕を自転車の上から確認した彼は、(おはようございます)と小さく口にしたのだろうが、その小さな声は雨音にかき消されて、僕の耳には届かなかった。自転車の荷台に括り付けられている大きな青いクーラーボックスを下す。釣り竿は一本。いつもの黒いやつだ。すぐに加藤君は池の周辺を歩み始める。黙って僕は彼に付いていく。瞬く間に濡れた草が、僕のズボンの裾を濡らす。
一定の歩調で、周囲を3分の1周程したころ、加藤君は足を止めた。
岬状と呼ぶには少し小さい土の張り出しが、水の方向に突き出ている。今日、彼はこの小さな変化のある場所で、釣りを始めるらしい。これまで一度も釣りをしたことのない場所だ。そのことにどんな理由があるのか、釣りをしない僕には皆目分からない。そのことを問うようなことはせず、いつものように少し距離を取って僕は腰を下ろす。彼が釣りをしている間、努めて僕は、彼に声をかけることをしない。
二人の間で会話が交わされる時は、決まって加藤君の方から口を開く。
二人無言のまま、彼が仕掛けを水面に投入したのが、1時間と少し前なのだ。
陸上の釣り人と水中の魚との引っ張り合いが均等して、2分も3分も、全くリールが巻かれることなく、釣り竿がギリギリと悲鳴を上げている。こんな釣りは見たことがない。見たことがないと言うほど、僕は釣りを知っている訳じゃない。でも尋常ならざる事が起こっていると確信できるのは、加藤君の顔が理由だ。初めて見る彼の紅潮した顔。静かだが、それでも激しい息づかい。
水中に伸びている糸が、向かって右方向に走る。少し遅れて釣り竿が右方向に曲がる。
沖に向かって方向を変える。釣り竿がさらに丸く変形する。ぐいっと加藤君が竿先を持ち上げると、(ぎゃりりっ)と言う奇妙な声で竿が鳴く。
す~っと水面に糸が浮上してくる。加藤君は竿先を水面下に浸す。その所作の意味は、僕にはまるで分らない。水面を割るかと思っていた糸の先の物体が、浮上することを止めて、また下方向に向きを変える。糸の先に存在する生命が見えているのではない。糸の動きで、そうと推測しているだけだ。
3分、5分。時間感覚が完全にマヒしている。少し呼吸が苦しくなっている事を自覚して、大きく湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。少しすっきりした頭で加藤君の表情を横見ると、逆に彼は、(ふぅ~~)と大きく息を吐き出していた。(シャクシャクシャク)と、3回小さく彼の手元から音がした。横目で見ていた僕には、それが何の音かが分かった。
彼がリールを3回巻いたのだ。黒くて丸い、大きなリールだ。5分以上前に、本当に5分かどうかは分からないが、それでも僕の感覚としては5分以上前に、彼が竿を空に突き上げてから、初めての糸を巻き取る動作だったはずだ。水に入っている糸が、ぐいっとこちら側に寄ってきた。同時に、(しゃくしゃくしゃくしゃく)と、今度は4回、同じ音が鳴った。
またも糸が岸際に寄ってきた。(す~っ)と、静かに糸が浮上してくる。
また加藤君がリールを数回、力強く巻き込んだ。いつしか力の均衡が崩れていた。
(ドパ~~ン!)
思った以上に近い位置で、これも思った以上に大きな音を立てて、高く茶色い水柱が立った。水が飛沫となって舞い散る。それは僕の足元にまで飛んできた。空を飛んだのは、あの黒く、デカく、そして途方もなく丸い魚だった。
巣の姿を確認するや、加藤君が肩を強張らせたのが、僕には分かった。
(うわっ!)、そんな声が出そうになったが、辛うじてそれを喉の奥に僕は飲み込んだ。
気が遠くなるほど地道で、忍耐を重ね続けた彼の作戦が、成就に向かってまさに今、クライマックスに差し掛かっていることを、僕は確信していた。




