第九十二夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(12)
ちょっと今回自信があります。
「少し態勢は崩れたが、それでもあの内股透かしは、少なくとも“有効”以上の判定が妥当だった。まして相手側にポイントが入るなんて、どう考えてもおかしいジャッジだった」
オリンピックの柔道競技で起こったと言う(世紀の誤審)について、西川が語っている。
「もちろん日本選手団も抗議した。オリンピックが終わった後も、なんちゃら抗議書をIOCに提出したらしい。それでも結局、判定は覆らなかった」
僕は不思議に思った。オリンピックのしかも決勝で、誤審なんてことが果たして起こるものなのだろうか。その判定は、僕の常識に照らせば極めて厳正であるはずだ。なにせ世界中で何億人もの目が見ているのだ。オリンピックとはそういうものだというのが僕の認識だ。
「柔道に関して言えば、あらゆる国際大会で、一番レベルの低いのがオリンピックと言える」
また意外なことを西川が話し出した。(オリンピックが最高峰)と言われれば納得できるが、その真逆の意見だ。そんなことはないだろうと考える僕に、西川が続ける。
「その大会のレベルってのは、まあいくつか判断基準がある。世間の注目度、選手の技量、観客の質、そして審判のレベル」
「・・・はあ・・・」
この段階に至っても、僕の反応は曖昧なままだ。納得できかねる。そんな僕の反応を確認するような気遣いは、今のところ西川には見えない。続ける。
「オリンピックが他の国際大会と比較して、レベルが高いのは世間の注目度だけだ。選手の技量は、トップ選手は変わらないが、出場選手枠を色んな国に与えなきゃならんから、柔道先進国と比べて相当実力的に劣る国の選手も出場する。結果、選手の平均レベルは全体として落ちるということになる。そして、それは・・・」
ここで西川が微妙な間を置いた。
「審判に関しては、もっともっとその傾向が顕著だ」
つまり、オリンピックの柔道競技を裁く審判は、はっきり言って質が悪いと、西川は言っているのだろうか。
「柔道の国際審判員になる資格だけどな、どのくらいの柔道経験があれば、なれると思う?」
さあ、全く見当も付かない。三段くらいの段位を持っていればいいのか、意外に初段程度でもなれるのか。でも初段でいいとなると、中学校の柔道部員でも、その資格がある人間がいるということになる。それはいくら何でも荒っぽ過ぎるだろう。全く分からない。
僕は当てずっぽうの答えを返すことを諦めた。
僕の回答が期待できないと判断するや、すぐに西川は正解を口にした。
「段位なんか要らない。というより、そもそも柔道の選手経験すら必要ない・・・らしい」
それが本当のことなら、確かに少なからず違和感を覚える。
「まあ、判り易く言えば、柔道を知らない審判が柔道を裁いた。だから誤審が起きた。それがたまたまオリンピックの決勝という舞台だった。そして、たまたま一方の選手が日本人にとっては自国の代表だった。それが、あの(世紀の誤審)の正体だよ。たったそれだけの事だ」
西川の言う事が本当なら、そんな審判に裁かれたってことになる日本選手は、本当に気の毒だと思うが、しかし・・・
「でも、ちゃんと抗議したんでしょ?それでもダメだったんですか?」
「うん、でもこれも世の常だろう。一度ジャッジが下ってしまえば、その後の議論ってのは、大抵は最初のジャッジを如何に正当化するか、そのことに大半のエネルギーが注がれるものさ。俺達の仕事だってそうだろう。一旦こいつが怪しいと感じてしまえば、その後判明したあらゆる事象も、全てその容疑者が悪者だって証拠に見えてしまう。先入観ってのを覆すのは、容易なことじゃない。多分、そうやって冤罪ってのは起こるんだろう。警察官である俺達が、いつ何時も肝に銘じなきゃいけないところだな」
警察官としての心構えにまで話が飛躍したことに僕は戸惑うが、それでも含蓄のある言葉だと思った。ほとんど西川の言葉に、僕は聞き入っているという状態だ。
「で、バスの話だ。バスアングラーの抵抗空しく、バスという魚は、特定外来種の指定を、来年間違いなく受ける。そしてアングラー側として悔しいのは、指定推進派にバス釣り愛好家がいなかったことだ。バスの指定リスト入りを、ただヒステリックに反対するアングラーと、バス釣りという娯楽を全く理解していない指定推進派。これじゃあ、そもそも喧嘩にならない。柔道の経験がない審判がジャッジする柔道の試合と、その本質は全く一緒さ」
自分がバス釣り愛好家ではないことを言い出すタイミングを完全に失ってしまった僕は、弱りながらも西川に、素直な疑問を投げる。
「もしバスという魚が、特定外来何とかに指定されたら、どうなるんでしょう?」
「ああ、まず、止水域から止水域への移動が完全に禁止される。厳密に言えば今でも法律違反には違いないが。まあ、罰則がより厳しくなるだろうな。これは仕方がない。そんなことよりも、生態系に害を及ぼす生物だという認定がお墨付きになる訳だから、世間の風潮が一気に高まって、全国の至る所で、これを駆除する活動が盛んになるだろう」
冷静な口調で西川が言う。バス釣りを取り巻く状況を客観的に判断しての言葉なのだろう。
「そうなると日本ではバス釣りができなくなるということですか?」
この時、加藤君のあどけなく、それでも端正な顔が、僕の頭に浮かんだ。
「う~ん、どうかな。バス釣り道具のマーケットってのは、日本全体で1千億円近くあるって言うからな。そうなれば釣り業界が黙ってはいないとは思う。それでも、バス釣りが日本で衰退していくことは、もうすでに起こってしまった未来だ」
(起こってしまった未来)とは、何とも矛盾した表現だとは思うが、西川が言わんとすることは、残酷なほどはっきりと伝わった。僕は黙り込む。暫しの沈黙が発生した。ここで僕はやっと告白するタイミングを得る。
「西川さん、ごめんなさい。僕、バス釣りをやるわけじゃあないんです」
(それじゃあ、何だったんだ。今までの会話は!)
そんな怒りの反応が西川から返ってくるものと思ったが、その僕の言葉を聞いた後も、西川の穏やかな表情は、少しも変わらなかった。代わりに、(じゃあ、なぜ?)と問いかけるような表情だけを彼は作った。飽くまで穏やかな表情のままだ。
「知り合いにバス釣りをする人がいるんです。だから・・・」
この知り合いとは、もちろん加藤君のことを指している。知り合いと呼ぶ間柄かどうかは微妙なところなのだが。
「好きなのかい、その人・・・バス釣り」
加藤君が、バス釣りが好きなのかどうかは、実際のところよく分からない。それは分からないが、彼が(ゴン太)と呼んでいる大きなバスという魚に、僕の語彙力では表しようのない深い愛情を持っていること、これは疑いない。確信が持てる。だから僕は答えることができた。
「その人は、バスという魚が本当に好きなんだと思います」
にこりと西川がほほ笑んだ。何とも、いい笑顔だと僕は思った。
「ぜひ、そのバスが好きだという人に伝えて欲しいね」
「何をですか?」
「バスアングラーがやらなきゃいけない事は、バスを指定外来種から外すことじゃない。まして、バスという魚よりも人間の方が生態系に悪影響を与えている生物だ、なんてことを主張するのは、百害あって一利なしだ。そんな喧嘩の売り方をしても、絶対に勝てない。(世紀の誤審)がひっくり返らなかったのと同じでね。そうじゃなくて、決してアングラーが忘れちゃならない目的は、バス釣りっていう素晴らしく楽しい遊びを、世の人々に理解してもらうことだよ。そして自ずと抱くことになるバスという魚に対しての愛情と敬意だ。手段と目的を決して混同しちゃいけない。このことを伝えて欲しい」
糸を引いたように西川の目は細くなった。
「バス釣りってのは、本当に楽しい」
ぽつりと西川がささやいた。




