第八十八夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(10)
この章が一番難しい。
「いや~、一昨日は厳しかったなぁ」
「ああ、あれだけ水が濁れば、まあバスだって餌を捕らないさ。全く視界も効かないだろうしな」
そんな内容の会話を西川と原田が交わしている。巡査部長不在の月曜日の朝。
会話に加わることはしないが、いま2人がバス釣りについて話していることは理解できた。2人はバス釣りをするらしいのだ。どの程度の釣行頻度で、どの程度の腕前なのかは、僕には知る由もない。
「一昨日って、けっこう雨が降った土曜日?あの雨の中釣りに行ったの?どうかしてんじゃない、2人とも・・・」
署内で唯一の女性である木戸さんが、パソコンのキーを打っていた手を止めて2人にそう声かけた。
「いや、むしろカンカンの晴れの日よりも、多少雨が降った方が、バスって魚は釣れるんだって。一昨日の雨がちょっと酷過ぎただけだよ」
一昨日の朝。加藤君が蛙を餌に、彼がゴン太と呼んでいる巨大なバスを釣り上げようとした正にその日だ。朝の8時を回った頃に、彼は釣り道具を仕舞いこんだ。もうチャンスがないという訳ではないが、この場所で釣りをしている姿を、他人に見られることに問題があるのだと彼は説明した。
結局この日は、ほぼ夜明けと同時に釣り上げたライギョという名の大きな魚が、彼の唯一の釣果だった。次の彼の作戦決行の日がいつなのか、そのことについて彼は語らなかった。
「そのバスって魚、悪者なんでしょ?どっかで聞いたことある。なんか他の魚を全部食べちゃうって」
ああ、加藤君が言っていた(バスという魚が特性外来生物に指定された)というのは、こんなところが理由なのだろうと、僕はそのとき思った。
木戸さんが椅子ごと動いて2人に向き合う。西川と原田の2人も、机に向かおうとする気配がない。今日も大した仕事は、この署内の人間には存在しないようだ。いつぞや誰かが言ったように、警察官なんて暇な方がいいに決まっている。それは確かに事実なのだ。
「ああ、バスは悪者だよ。だから俺たち釣り人がちゃんと成敗してやっているのさ」
原田が鼻を鳴らし、胸を張って言う。その横で、長い足を組んで座している西川は何も口を開かない。
「成敗って?持って帰って食べるの?なんだか池の魚って泥臭くて不味そう」
「いや、リリースするよ。とても食べられないよ、あんな魚」
ますます分からないという顔をして、木戸さんが続ける。
「食べずに放しちゃうの?それで成敗したことになるの?なに、その矛盾。全く意味分からない」
「だから悪者を痛めつけてやってるのさ、俺たちはね」
原田と木戸さんの間で行き交っているそんな言葉に、なぜだか僕の神経は妙にささくれ立った。
「まあ、木戸が言う事ももっともだ。今度から釣ったバスは、池に戻さずそこら辺の草むらにでも捨てるようにするよ」
この原田のセリフに僕はついに反応してしまった。自分でも理由が分からない過剰と言っていい反応だった。カッと胃の辺りが熱くなる感覚があって、その熱が一気に喉元まで吹き上がり、そして口から洩れてしまったのだ。
「釣った魚を草むらに捨てるって、それって立派な犯罪行為じゃないですか。それが警察官の言うセリフですか」
自分の放った一言が、一瞬にして場の空気を変えてしまった。そのことに僕自身も、少なからず動揺した。西川は僕を見てきょとんとした顔で動きを止め、木戸さんはくるりとパソコンの画面に向き直ってしまった。
原田が顔を紅潮させている。彼が感情の起伏の激しい人間であることは、よく知っているし、もともと僕たちはあまり仲が良くない。さぞ攻撃的な言葉の反撃が返ってくるのだろうと、僕は相当の覚悟をした。でも原田は、数秒の沈黙の後、ふっと微かな息を漏らし、若干の不貞腐れ感を含んだまま言った。
「はいはい、私の失言です。警察官にあるまじき発言でした。はい、どうもすいません」
この原田の謝罪もどきの一言により、形だけはこの一分に満たない署内に満ちた緊張はなかったことになった。行き場を失った気まずい雰囲気だけが署内にどんよりと取り残されていた。
「おい、水谷、たまには一緒に巡回に出ないか」
西川のそんな僕への誘いは、僕だけでなく他の同僚達にとっても意外だったらしい。
この日の昼休みは、やはり朝に起こった原田と僕のちょっとした衝突が尾を引いていたのだろう。昼食後の雑談には、いつもの賑やかさはなかった。
そして昼休み終了のチャイムが鳴ると同時に、西川が僕に、そう声かけてきたのである。
声がした方向に顔を向けるという、たったそれだけの行為にも、僕には小さくない勇気が必要だった。同時に、それが決して断ることにできない誘いであることも分かっていた。
先輩からの誘いだからというだけではない。今日というタイミングでそんな誘いを西川がするってことは、僕と原田の今朝の悶着に理由があることは明らかだからだ。
実のところ、朝のあれは、僕的にもなかった事にして欲しいというのが本音だった。
なんであんな感情的になってしまったのか、全く自分でも理解できていない。
自分が理解できないということは、原田にとっても、それは理不尽だったということになる。
すでに半日たった今でも、どこか署内の空気が、どこがどうと言うのは難しいが、やはりいつもとは違っていた。そして間違いなくそんな空気を作ってしまった最初の原因は、僕にあるのだ。
ふと、原田の席の方にさりげなく視線を向けると、まるで興味がないとでも主張するように、彼はパソコンと静かに向き合っていた。
「あの朝の原田とのやり取りな・・・」
西川がやっとその話題に触れた時には、並んで歩き始めて10分以上の時間が経っていた。ついに来たかと、少し僕の脈打ちが早くなった。僕はすぐには言葉を返さない。返す言葉が見つからないのだ。それはほんの数秒ではあったのだろうけれど、僕にとってはとてもとても長い沈黙の時間だった。
「すいません。ご迷惑を掛けました」
やっとのこと絞りだしたのが、そんな反省の意思表示だった。本音である。
「ああ、お陰で今日一日、職場の空気がとっても気不味い」
思わず僕は視線を落としてしまった。もう一度謝罪の言葉を繰り返そうとした僕に、意外にも、(はは)という笑い声が、頭一つ僕より背の高い西川の口から降りてきた。
思わず僕は、西川の笑い声の真意を確かめたくて、視線を上げた。
間違いなく西川は、あまり署内では見せることのない穏やかな笑みを浮かべていた。
こんな優しそうな顔ができる人だったのかと、僕は思ってしまった。
「俺、高校時代、バンドを組んでた時期があってな・・・」
全く脈略が理解できないそんな前置きから、西川の言葉は始まった。




