第七十六夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(9)
悲しいお話です。書いてて辛くなります。
(ギャリリン!)という、竹の節が強大な力で捩じ切られるような音がして、僕はすごく驚いた。加藤君が釣り竿を大きく煽ったために起こった音だ。たぶん釣り竿が空気を切り裂いた音と、急激に強い力が加わり、竿がひん曲がった音とが重なって、そんな感じに聞こえたのだろうと思った。
思わず彼の方を振り向いた直後、今度は水面の方で、(ドパ~~ン)という何か重たいものが水に落ちた音が響いた。この音も大きかった。また驚いて僕の視線はすぐに水面に戻される。
この水面で起こった破裂音の正体を、僕はすぐに確認することができた。
まるで潜水艦のラジコンが急浮上したように、黒くて太い物体が水面を割り、飛び出して、そして落下したのだ。そのとき起こった音が、さっき耳にしたのと全く同じだったからだ。
びっくりする程に大きな魚だった。50センチなんかではまるできかない。
その巨体がまた空に飛び上がり、横腹から水面に落ちる。また太く大きな水柱を立てる。
落下したその勢いを利用するように、今度は池の底へ斜めに潜りこむような動きをした。
また僕の耳の横で、加藤君の持つ釣り竿が締め付けられて、(ギャリギャリ)という何かが潰れるような異音を発して横方向に曲がる。巨大な力が竿を丸く変形させている。これほど釣り竿とは満月のように曲がるものであることを、全く釣りについては無知な僕は、このとき初めて知った。
(ダッパ~~ン)
ずっと釣り竿は歪に曲がったままだ。このままでは折れてしまうのではないかと気を取られた時、思いのほか近いところで、また水の爆発する音が聞こえた。もうそれはすぐ目の前だ。いつの間にか竿の力が、魚を岸近くまで引っ張ってきたらしい。
水面から頭部を露わにした巨大な魚が、猛々しく首を左右に振っている。
朝からの静寂がかき消されて、どれくらいの時間が経っているだろうか。3分はとうに過ぎているだろうか。僕も加藤君も、その間一切の言葉は発していない。
やや魚の勢いが収まった頃、やっとその頭部の色や形状が明らかになる。
黒いと思ったその色合いは、実は濃い茶色と呼ぶべき色をしていた。所々は紫がかってもいる。
丸く太い頭部の形状は大砲の砲弾のようだ。
その頭部の太さから水面下に隠れている体の部分の長さを僕は推測する。60センチか、あるいはそれ以上か。これまで僕は、こんなに大きな生きた魚を実際に見たことがなかった。
ぬかるんだ土と草の斜面を上手く滑って、するすると加藤君が水際まで腰を沈めた態勢で降りていく。
「気を付けて・・・」
僕はやっとのこと、そんな言葉を彼に掛けることができた。
その巨大な頭部と加藤君との距離は、もう竿一本半くらいの距離しかない。
近づいてくる加藤君の影に怯えたのか、一度は動きを止めたように思えた巨大な頭部が、また水面下に力強く潜りこんだ。
大きな丸い尾ひれが掻いた水柱のしぶきが、僕の足元まで飛んでくる。
一時はずぶ濡れだった僕の合羽は、もう乾き始めている。雨はすっかり止んでいたのだ。
(ギュン、ギュ~~ン)と、またも竿が水中方向に締め込まれる。
相当に強い力だが、それでも加藤君の表情は落ち着いている。
一度魚が水中に突っ込むに任せ、タイミングを見計らって竿を、ぐいっと高く立ち上げる。数舜遅れて魚の頭部が再び浮いてきた。そんな強引な操作をしても、釣り竿とは折れないものらしいことが、もう僕は理解できている。
魚の動きが少し緩慢になっていて、このとき僕はやっとこの巨大な頭部の模様を認識できた。
何とも形容の難しいまだら模様。太いニシキヘビのような模様だと一度は思ってみて、実際のニシキヘビの模様がどんななのか、僕は正確には知らないことに気付く。飽くまでイメージでそう思っただけだ。
さらに竿を高く持ち上げた加藤君が、水面上の頭部に手を伸ばしていく。
釣りのことはよく判らないが、この迫力に溢れた戦いもどうやら決着の時が近いようだ。
一つ僕には判らないことがあった。魚を足元まで寄せてきたのはいいとして、この大きな魚をどうやって岸まで彼は持ち上げるつもりなのか。
たまたま放映されていたテレビの釣り番組なんかを、見るとは無しに見ることがある。そんな時、足元まで寄せた魚を釣り人が網で掬っている場面を見かける。でもそんな網のような類のものを加藤君は、いま持ってはいない。
(どうするつもりなのだろうか?)
そんなことを思った時、加藤君の右手が、魚のエラの部分にするりと滑り込んだ。
ガチッと頭部を彼の手が固定した。一気に水面から持ち上げられた巨大な魚。加藤君は魚のエラに手を掛けて、魚を持ち上げたのだ。水上に現れた魚の全長は、彼の身長の半分はありそうだった。
激しく体をくねらせると、小さな滝が幾筋も流れるように、魚の表面から水が地面に向けて滴っていた。
「ライギョです」
一度土手まで移動し、濡れた草の上にそのまだら模様の魚を横たえた後で、加藤君が教えてくれた。
ライギョ・・・聞いたことのなる名だ。確か・・・
「ライギョって、確か昔から日本にいた魚じゃないよね。すごく獰猛で、ヘビとかアヒルとかも襲って食べちゃう奴って・・・」
幼い頃読んだ記憶のある釣り漫画の一場面を、微かに僕は思い出し、そう言ったのだ。
「アヒルを食べるかどうかは知らないけど・・・まあ、半分は当たってると言うべきでしょうね。そう、そのライギョです」
「こんなに大きくなるんだね。獰猛で大食漢なんでしょ?だからこんなに大きくなるんだ」
巨大な魚を目の当たりにして興奮していた僕は、このとき決して加藤君の機嫌を損ねるつもりで、そのことを口にした訳ではない。むしろ大きな魚を釣った彼を讃えたい気持ちから出た言葉なのだ。
でも、なぜか彼の表情は、僕のその一言に曇ってしまった。
その表情を見て、僕の心が少し波立った。
ふぅと、一息ついて彼が言葉を紡ぐ。
「このライギョもね、特定外来種の指定を受けています。つまり、ここ日本では生態系を壊す悪者、存在していてはいけない動物・・・とされてます。というか最近・・・されました」
(そんな悪い奴を捉えたんだから、お手柄じゃないの?しかもこんな大物)
そんなセリフを口にしようとして、僕は口ごもってしまった。
柔らかい草の上に魚体を横たえ、不気味と言ってよい風貌のこの魚から、労わるように優しく針を外す彼の仕草。その所作全てが、この魚への愛情に溢れていたからだ。
両手で優しく抱きかかえて、再び土の斜面を降り、魚をゆっくり頭から水へと帰す。
胴の部分を支えている手を、すぐには放さない。意味はよく判らないが、数回水の中で魚を前後させる動きを彼は見せた。その間、まるで魚が彼に対して全幅の信頼を置いているかのように大人しくしている。
ゆらりと慌てる様子もなく、濁った水の中を沖に向けて泳ぎ出したのを確認した後も、彼はしばらくその魚を見守っていた。
濁った水中に魚が姿を消すや、(バチャバチャ)と池の水で手をひとしきり洗ったあと、土手を上がってきた彼の顔は、僕の想像と反して、あまり晴れやかではなかった。
「これだけ騒がしちゃあ、しばらく釣りにはならないですね。ちょっとポイントを休ませましょう」
僕にもそうしろとばかりに、草の土手の上に、加藤君は腰を下ろした。
つられる格好で僕も加藤君の隣に座る。安物の雨合羽では、濡れた地面から水が染み込んでこないか心配だったが、加藤君もそうしているからという理由だけで、僕も直接地面にお尻を付いた。さっきまでとは、僕と加藤君の位置関係が逆になっている。
「今のライギョですけどね・・・」
2人並んで腰を下ろすと同時に、そう加藤君が言葉を発した。
すっかり雨は上がっていて、雨音が会話の邪魔になるようなことはない。
「今のライギョ、さっきお巡りさんが言った通り、外国から持ってこられた魚で、生態系に影響を及ぼすということで、駆除の対象になっているんですけど・・・まあ、はっきり言えば悪者扱いです」
生態系に影響を及ぼす・・・だから駆除する。その論理自体に、僕は少しも違和感を覚えない。そのまま僕は聞き側の立場を変えない。
そんな僕の思いを察したのか、ちらりとこちらに視線を向けて、すぐまた水面方向に目を移し、彼が続ける。
「いつ頃日本に持ち込まれたか・・・知ってます?ライギョ」
いや、知らない。知っている訳がない。想像すらもできない。
僕が子供の頃にはその存在を知っていたし、今の時代はどうだか知らないが、海外から動物が持ち込まれるのは大抵の場合、それは食用としてだろう。だったら・・・
「全くの想像だけど、戦後すぐ位かな?食料として輸入されたんじゃない?」
僕のそんな言葉に対して、加藤君はどのような反応も返してこない。今も静かに水面を見つめている。そんな無反応が、僕の答えが不正解であることを、たぶん示している。
決して長くはない沈黙なのだが、何だか居心地が良くない。
「室町時代だそうですよ」
ぼそりと加藤君が呟く。
室町時代?1400年代?1500年くらいだったろうか?
僕の知識はその程度である。いずれにせよ大昔という感覚だ。
「そんな昔に持ち込まれた魚が2000年を超えた今になって、生態系を壊す魚だから駆除されるべき。なんだかおかしな論理だと思いません?」
(いや、僕に言われても・・・)というのが本音である。
そんな僕の困惑なんてまるで頓着せずといった感じで、加藤君が続ける。
「金魚なんかが鮒の交配によって生み出されたのが江戸時代。じゃあ金魚はどうなるんでしょう?日本人が主食にしている米だって、実は海外から持ち込まれたものですよ、元はといえば・・・」
金魚が鮒から作り出されたものだということを、初めて聞いた。そんな知識一つとっても、
加藤君が聡明な少年であることは認める。それば認めるが、彼のこの論理は、無学な僕が聞いても少し変だと思う。金魚が駆除の対象にならないのは、きっと生態系に害がないからだ。米に関しては、害を受けるどころか、言葉で表せない程の恩恵を、僕達日本人は受けているのだ。
そのことを僕は口にしようとするが、生来口下手な僕は、うまい言葉が思い浮かばない。
そうこうしているうちに、加藤君が言葉をさらに紡いだ。
「ライギョと肉牛の違いって何ですか?」
会話の方向が一気に変わったような気がして、僕はまた戸惑った。
「えっ、ニクギュウ?」
「ライギョも牛の、時代こそ違えども、どちらも食用として日本に持ち込まれた」
なるほど、そういう脈略なのかと理解はしたが、でも彼の言いたいことが、ここに至っても僕にはよく判らない。でも一つ言えることは、さっき間近でみた紫色の巨体は、少なくとも僕には美味しそうには見えなかった。食欲を刺激しない色というか、はっきり言えばグロテスクだった。
「かたや食卓に定着したからそのままでいい。一方は日本人の口に合わないから駆除するべき。身勝手な言い分だと思いません?」
身勝手といえば、正しくそうかも知れない。しかしそれは日本人に限ったことではない。
生態系だろうが自然環境だろうが、人間は自らの都合のいいように、多くのものを変化させていた生き物なのだ。
そしてこの加藤君の言い分には欠落している部分がある。生態系への影響だ。牛は日本でも家畜として扱われていて、そのことが外部の生態系に影響を与えるとは考えにくい。その一方でライギョの方は・・・
「うん、確かに身勝手だとは思うけど。でも生態系に悪影響があるのなら、駆除の対象にされるのも仕方がないかも・・・」
このとき僕は、もしかしたら加藤君が気分を害するかも知れないと、そのことを多少覚悟して口を開いた。
「いつの生態系と比較して・・・ですか?」
「えっ、いつ?」
「室町時代の生態系と比べてですか?室町時代のどこの湖の生態系ですか?それは沼ですか?それは誰がいつ調べたデータなんでしょう?」
声音自体は穏やかだったが、矢継ぎ早に繋がってくる加藤君の言葉には、彼の抱いている憤りのようなものが感じられる。こうなってはもう僕には返す言葉がない。
「そこらのところが、まるでテイリョウテキでないし客観的でもないんですよ」
(テイリョウテキ?)
どんな字を当てるのかすら、僕には分からなかった。
「その外来種がいつ持ち込まれて、その時の生態系の実態がどんなで、今はこんな状態・・・じゃあ、他に生態系を変化させる外的要因は無かったのか。人の行為なんかに因って、何らかの影響を受けてはいないのか・・・護岸工事だとか植物の伐採だとか、あるいは埋め立て工事だとか・・・」
よく分からないが、きっと影響はあるのだろう。
地球が生まれて以来、一番生態系に大きな影響を与えているのは、たぶん人間の存在だ。絶滅していった多くの生物は、きっと人の営みの結果に因って、この地上から抹殺されたのだろう。
学の無い僕でも、そのくらいのことは分かる。でも、それをいま言ってみて何が変わるというんだ。口にはしなかったが、僕は素直にそんなことを考えていた。
考えはしたが、なかなか僕は言葉に悩む。
別に僕が加藤君に対して何かしゃべらなければいけないルールはないのだが、それでも彼の口にする論理が、少し暴走を始めているような気がしてならない。
「さっき言ってたテイリョウテキっていうのは?」
深い思慮あっての問いではない。ただの時間稼ぎのための質問もどきだ。
この時、加藤君は僕の方を振り返り、少し笑顔を見せた。
その笑顔の意味を、僕はどう捉えるべきなのだろう。よく理解できない。
「お巡りさん、お巡りさんなんでしょ?」
おかしな日本語だが、実に頭のいい子のウィットに富んだ言い回しだと、ここでも僕は感心してしまう。
「うん、まあそうだけど」
「3年前くらいかな。父がスピード違反で捕まりましてね、車の。それは怒ってました」
「え~っと・・・申し訳ない」
何故か僕は謝ってしまう。しかし頓着せず加藤君が続ける。
「父が言ってました。あいつらはいつもそうだ。交通安全週間になるとノルマ達成のために取り締まりを厳しくするって。普段は適当なのに・・・」
警官としては、(そんなことはない)と言うべきなのだろう。そして実際にそんなノルマがある訳ではない。でも、彼がいうように年に数度の安全週間では、取り締まりを少し厳しくしているのも、また事実だ。
(ノルマなんてないよ。検挙数“0”っていうのが本当は理想だから)
そんな答えを返すのが、一番警官として最適な答えなんだろう思う。
でも、僕はこの言葉を飲み込んでしまった。
(今日もさっさと捕まえて税金を稼いで来い)
たまに巡査はそんなことを確かに口にする。それは決まって交通安全週間の期間内だ。
言葉のあやなのだろうけれど、全面的に加藤君のいうことを否定できない。
「まあ何事にも目標やノルマ、そして評価すべき基準があるべきだと言いたかっただけです。バスの話をしましょうか」
「バス?」
たった今までスピード違反の話だったものだから、僕は街中を走るあの(バス)を連想してしまい、彼の言う(バス)が、ブラックバスのことだと気付くのに、しばらくの時間がかかってしまった。
「ライギョは室町時代だけど、バスの方は比較的新しくて、日本に持ち込まれたのは1925年です。東京大学の人が研究用に持ち込んだんですけど」
いよいよ僕には話の脈略が判らなくなってきたが、これまで通り、僕には彼の言葉を静かに聞くことしかできない。
そして遂にバスという外来種に対しての彼の思いと、彼の抱く憤りの正体をぼんやりとではあるが、僕は知ることとなるのである。




