第六十六夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(8)
二十五年振りに電車で釣りに行きました。悪くないです。
いよいよ東の空が白み始め、鮮やかな黄色に塗られている丸い浮きが、雨天の下でもよく確認できるようになった。
それが浮いているのは、岸からたった1メートルほどの距離の水面。
池の水は濁っている。それは抹茶色のようでもあり、土が溶け込んで、ミルクコーヒーの筋のようなものが、淀んだ水面に描かれている場所もある。
今、浮きの浮いているそこの水深がどのくらいなのか、僕には知る由もない。
こんな岸際で、釣りってするものなのかと、そのことが僕には少し意外な気がした。
糸の先に結ばれている小さな生命が、微かにその存在を、水面の浮きを揺らすことで標している。大きな生命の躍動ではない。そのことを僕は知っているから判るのであって、そうでなければ今も強く水面を叩く大粒の雨に紛れて、その揺らめきには気づかないことだろう。
加藤君が雨合羽のフードを深く被り、高さにして1メートル近くある草むらの中に、小さく膝を抱えて丸まっている。
傘は開かれることなく畳まれたまま、彼の左側に置かれていた。決して弱くないこの雨の中、彼は傘を開くつもりはないようだ。
僕も同じく、傘はささずに、彼から少し距離を置いて、草むらに隠れるようにしゃがみ込んでいる。
加藤君は釣り竿を手にしてはいない。
置き竿だ。草に覆われた地面に直接置いている。
2メートルを少し超えるくらいの長さのその黒い竿は、もうたっぷりと雨粒にまみれていて、ところどころ地面から跳ねたドロが、玉の形の汚れを作っていた。
釣りなどほとんどしたことのない僕であるが、彼が糸の先に結んだ釣り針が、僕の抱いていたそれのイメージと比較して、途方もなく大きかったことは、僕を驚かせた。
黄色い浮きの大きさは直径3センチ程だろうか。ゴルフボールよりも一回り小さいくらいの大きさ。これも僕の思っていた魚釣り用の浮きのイメージより、相当に大きい。
今から時間にして40分ほど前の事、自転車の荷台に括り付けられていた大きなクーラボックスの蓋を、彼はやけに慎重にゆっくりと開いた。
大きく開け放ったのではない。かろうじて彼の手首から先が入るほど、僅かに開いただけだ。まるでボックスの中から、何かが飛び出してくることを警戒したような開け方だと感じた。
直方体の空間内を、右へ左へと探っている彼の手付きは慌ただしかった。
彼は手探りで何かを掴もうとしているのだろう。かなり苦労しているようだ。それでも彼は大きく蓋を開けるつもりらしい。
その大きなボックスの中に、一体何が入っているのか、僕にはとても気になったが、それを問うことすら憚られた。それほど彼の表情は、その時真剣そのものだったのだ。つられてしまった僕も、もうその頃から緊張し始めていた。
とっ、彼の右手の動きがぴたりと止まった。どうやら目的の何かを手にできたようだ。
慌てる様子はなく、ゆっくりとその右手を引き出した。
彼が手にしていたのは、掌にすっぽり収まるほどの大きさの赤茶色い蛙。
人差し指と中指の2本が、その足を捉えていた。
それを見て、やっと僕は、(蛙を餌にするつもりだ)と、以前彼が口にしていたことを思い出した。もちろんその蛙の種類が判るほど、僕は生物に詳しくはない。
とても大きいと思った釣り針を、ちょうど蛙の太ももの位置に、加藤君は引っ掛けた。その時、僕はふと、その行為を残酷だと思ってしまった。しかし・・・
(他の生命を奪うことなく、生きていける生物がいるなら教えて欲しい)
以前、加藤君の言ったそんなセリフを僕は思い出し、その感想を口にすることを憚った。
その言葉を聞いて以来、僕なりに考えてみたのだが、確かに彼の言うように、命ある者はすべからく、他の生命を喰わずには生きていけない。そのことを否定する例外を見つけるには、遂に至らなかったのだ。
足に釣り針を突き刺された蛙が、加藤君の手の中で忙しなく脚を動かして。
そんなことに頓着せず、加藤君は目の前の水面、岸からほんの1メートルほどの水面に、その蛙を送り込んだ。もちろん黄色い浮きも同時に飛んでいく。
水面に落ちた蛙が、慌てたように潜行を始める。すぐにカエルの姿は見えなくなった。
黄色い丸い浮きが、取り残されたように、ただ水面にぽつんと浮いていた。
彼が、餌と浮きを水面に放り込んでから、すでに1時間以上の時間が経っている。頭上から落ちて水面を広く叩く雨水の群は、少しその激しさを控えたようだ。
空を見上げると、灰色の雲のフィルターは今も変わらず濃いが、それでも朝日が東の方角から、控えめに朝がやって来たことを僕達に告げている。
一度だけ、加藤君は餌の蛙を交換していた。それまで針に繋がれていた蛙は、その拘束から放たれると、ピョンピョンと飛び跳ねて、水面の方ではなく草むらの方に逃げていった。その足には大きく太い針がたった今まで刺さっていたはずなのに、そんなことを全く感じさせない元気さだった。野生の動物の強さを垣間見た思いだった。
始めは丸い浮きを引っ張るように、その存在を示していた蛙であるが、ここ20分程は、水面下で浮きを引っ張るような動きは見せていない。
釣りをしない僕には、そのことの意味がよく理解できない。特に何の動きも加藤君は起こさず、そして一言の言葉すら発しない。
風はない。だから水分を含んだ草草の匂いが流れて行くことなく、僕達の周りに立ち籠っている。意識して嗅いだ記憶がないが、何故か肌に絡みついてくるその匂いが、草々の発する匂いであることを僕は知っていた。
小雨になってから程なくして朝靄が発生し始めた。
朝靄の白と木々の緑の2色を基調にした早朝の景色は、どこか幻想的で僕には新鮮だった。
少し息苦しさを覚え、湿った空気を大きく胸いっぱいに吸い込む。
やっぱり緑色の草木の匂いが広がる。雨によって浄化された朝の空気は、心地よいと呼んでいい味だった。
朝から今まで、加藤君と交わした会話は少なく、そして短かった。
「雨、大丈夫ですか?傘、さしてもいいですよ」
「いや、大丈夫」
「少し小降りになってきましたかね」
「そんな感じだね」
僕が傘をさしていない理由は、加藤君がさそうとしないから。それだけの理由である。
きっと傘をさすことで、そこに人間が存在すると、魚が警戒するのだろうと思ってのことなのだが、それは全く僕の推測である。
加藤君はただに眼前数メートルのところに浮いている黄色い浮きを見つめている。
その静かで、どこか涼しさすら感じる視線は、単純に浮きだけを見つめているのではないのではないか。僕はそんな風に感じた。
静々と時間が流れていく。
(チィ、チィッ)と小さく聞こえた鳥の鳴き声を、2度ほど耳にした。
ふと左手の時計に、僕は視線を向ける。
午前6時20分。その時針が示す時間に、僕は違和感を覚える。
起きてから随分な時間が経過しているのに、普段の僕はまだ布団に潜っている時間なのだ。
雨がさらに弱くなっていることに僕は気付いた。雨が水面とぶつかり作り出している波紋を見ないと、小雨が落ちていることを認識することすら、分厚い生地の雨合羽を着込んでいては分からないほどだ。
本降り状態は午前中までだが、ぐずついた天気が一日続くだろうとの、昨晩ニュースで見た天気予報は、どうやら当たりそうだ。
と、その時、今も位置を変えず浮いている浮きの向こう側、沖方向に何か小さな黒い点を見止めた。それは、僅かだが動いている。
(あっ、蛙だ)
僅かな、本当に僅かな波紋を出しながら浮いているのが、きっと今も太ももに針の付いている蛙であることが、僕には分かった。
水面の騒めきが収まった今になって、僕はやっとそれを見止めたのだ。それまでも多少位置を変えながら、その辺りにきっと浮いていたのだろうと、僕は思った。
加藤君は一心に浮きの浮かぶ水面を見詰めている。
それは僕も同じことなのだが、不規則な周期で、ちらりと僕は加藤君の表情に視線をやる。
じっとりと粘度が高まったような時間が流れる。
雨粒が小さくなったこと、少し風が収まってきたこと、そして眼が慣れてきたこと。
いつしか僕は、水面に浮かぶ浮きと、その先でぽかりと佇んでいる蛙の姿を、かなり鮮明に見取ることができるようになっていた。
時刻はまもなく7時を迎える。こんな天気の日でなければ、いよいよ日差しが強く肌を焼き始める時間だ。
多少の蒸し暑さを着込んだ雨合羽の下に感じてはいるものの、その不快さは我慢できない程ではない。絶え間なく降り続いている雨を、2時間以上もこの合羽は受け止めているのだ。決して高価ではない合羽なので、いくぶんか染み込んで、僕のシャツを濡らしているのだろう。
加藤君が餌の蛙を水面に放り込んだ2時間半前から、僕は二度ほど水際を離れ、軽く体を動かした。夏の雨とは言え、濡れるとやはり体温と体力を奪われる。そして草むらにただ座っているという姿勢が長かったため、体全体が凝り固まるような感覚になってしまったのだ。僕は軽く体を動かしてほぐす。
全く釣りのことは分からないが、そんな水際の人間の動きには、僕が考える以上に水中の魚は敏感かも知れない。ここまで距離を取る必要もないだろうと思える程、僕は加藤君が座している場所から十分な距離を置いた。
ひとしきり体を動かすと、血流が巡ったのか、体だけでなく頭まですっきりした気分になった。足音を立てぬよう細心の注意を払い、ゆっくりとさっきまで座っていた草むらに戻る。そんな僕の動きには、まったく加藤君は頓着していないようだ。
今も一心に浮きを眺めている。そんな加藤君の表情を見て、僕もまた浮きを見ていること以外、することもできることも無くなってしまった。
確かに、微弱な電流のようなものがが、頭に流れる感覚があったのだ。
そしてその感覚は、その黒い物体が、右側から悠然と姿を表す直前に起こった。
黒い物体を見止めてから起こった現象ではない。
順序として、頭が感じた違和感が先で、その後に僕は、右手から泳いでくる黒い魚影を
視界に捉えたのだ。
声が出そうになるのを、何とか僕は堪えた。
その異変を伝えようと、加藤君の方を僕は振り向くが、彼のその視線の向きから、とうの先に、その異変を捉えていたことが分かった。それでも変わらず冷静な表情のままだ。
彼の年齢を考えると、その落ち着きようは、少し僕には理解できないと思えるほどだ。
黒い巨体が、ますます浮きの方向に近づいてくる。
その距離約2メートル、1.5メートル、1メートル。それは一定の速度。
決して速くはない。いや、それが魚の泳ぐ速度として速いのか遅いのか、僕にはそもそもよく分からない。あまりにも巨大なその陰が、悠然としているため、そんな印象になるのかも知れない。
ぐいっと、その黒い姿が水面目掛けて浮上してきた。
でかい。50センチ、いや、もっともっとありそうだ。
浮きのやや沖側に留まっていた蛙が、この頃になってやっと異変を感じたのだろう。
慌てて水中に潜りこむ動きを見せた。まさにその方向に、黒い巨体が頭の向きを変える。
飽くまで悠然とだ。
蛙の姿は水中に没して見えなくなったが、今まで浮いていたその場所と、黒い巨大な頭部との距離が、いよいよ数十センチの距離まで縮まった時には、もう僕は自分の鼓動すらはっきりと感じられるほど、普通ではない緊張状態に陥っていた。
意識して呼吸しないと、胸が苦しくなる。
(バフン!!)とも(ドボン!!)ともその音は聞こえた。
水面直下で何かが爆発したような、籠ったような破裂音。
一瞬の間を置いて、水面に丸く太い水柱が立った。




