第六十五夜:とにかく不便な釣行は、ちょっとした感傷旅行となった(1)
運転免許を返却しても、それでも釣りは止めないだろうと思った。
それは本当に不便な二週間だった。
入院していた二週間のことである。
介護用電動ベッドの恩恵を受けなければ、自分ひとりで起き上がることもできない。
尿意を催しても、立ち上がってトイレまで歩く苦労に、心底疲れてしまう。
夜の9時には病院内の電灯が消えてしまって、できることは寝るだけだが、横になって休むことすら、骨折した体には結構なストレスであった。
日に日に痛みに対する免疫が落ちてきて、鎮痛剤を服用する周期が短くなっていく。
その都度ナースコールを掛ける訳なのだが、だんだんと申し訳ない気持ちが強くなり、それでも痛みに負けてしまう自分が情けなくなる。
きっちり定時刻に運ばれてくる病院食の味付けは、噂には聞いていたが本当に薄い。
利き腕の右手が全く役に立たず、口元にやっと運んだ食べ物が、寸前でポトリと落ちてやるせなくなる。
(こんな苦労するなら、もう食べなくていいや)、なんて投げやりな気分にもなったものだ。
親切心に加えて、多少のジョークも含まれていたのだろう。僕とそれほど年の変わらない男性の担当医が、女房の同席している病室で僕に言う。
「年齢も年齢だから、もうバイクは卒業した方がいいですね」
余計なことを・・・と思う。
いま、この医者の世話になっていることは事実だし、医者の意見に患者が耳を傾けるのは当然のことだ。今回の事故で、公私両面でたくさんの人達に迷惑をかけた。それも認める。
しかし、それでも他人が、僕の生き様にブレーキを掛ける権利がどこにある?
今年春の事、50才にして僕はキックボクシングのリングに立った。もちろんアマチュアの試合だ。相手は30才以上も年下の名門ジム所属の選手だった。
2ラウンドに突入するや、スタミナ切れを起こした僕は、手数足数で圧倒され、後で動画を見ても、自分が可哀想に思う程のタコ殴りに遭った。
観ていた観衆の大多数が、(いい年こいて馬鹿な奴)と、僕のことを思っただろう。
そしてそれは、一般的には正当な意見だろう。
それでもたった数人であったが、(観ていて心が熱くなった)、(同世代として勇気をもらった)との労いの言葉をもらったことも、また事実なのだ。同世代のおじさん達に・・・というのが何とも嬉しいじゃないか。例え話半分としても。
そのことに価値がなかったとでもいうのか?
いや、周りの人達の意見は別にどうでもいい。
価値があるか無いかなんて、自分自身が決めることなのだ。自分の中で価値が見出せれば、それで十分なのだ。
「自らの意思で挑戦しようとしている人間を、止める権利が誰にある」
大好きな映画の1フレーズ。
(誰も俺を止めるんじゃない!)
そんな不服そうな様子から、僕の単純な思考を読み取ったのだろう。
医師が退出してから、女房が携帯を取り出し、留守電メモリに残っていたその通話を、僕に聞かせる。
(○○緊急病院の□□と言います。いま、ご主人が救急車でこちらに運び込まれまして・・・意識不明の状態で、これから精密検査を行って・・・その後・・・緊急手術となります・・・ついては・・・)
「こんな思いをまたさせる気?」
一気にテンションが下がってしまう。
身内に限らず、人様に迷惑を掛けることとは、すなわちこう言うことなのだろう。
「退院おめでとうございます。二週間は固定具を装着して下さい。寝る時もです。寝ているときも人間は動きますから。普段の生活ではできるだけ右手を使うのは控えて下さい。車の運転は・・・早くて2カ月後ですね。それも仕事で致し方なくと言う場合に限ったほうが賢明です」
またもや他人にブレーキペダルを踏まれる。横で女房が、(うんうん)と満足そうに頷いている。
自業自得という言葉しか、僕には思い浮かばない。できるだけ不服そうな顔にならないように努力したが、さて僕の演技力はどれほどだったろうか。
退院後、最初に迎えた週末は、幸か不幸か仕事が入った。
二週間以上もサボっていた訳だから、まあ当然のことだ。
翌週のウィークデーも、やっぱり忙しかった。
別に休んだ期間分を取り返そうなんて気負いは全く無かったが、それでもたっぷりと残業もした。負傷した右腕は多少痛んだが、10日間分処方されていた痛み止めで何とか切り抜けた。
ふっと波が収まったように、積極的に何もする必要がなく、この体ではできることも限られる週末がやってきた。
空が白み始めた5時過ぎには目が覚めた。
女房は、僕の横で今も静かな寝息を立てている。
むくりと起き上がり、特に何をという訳でもなくリビングへと向かう。
ゆっくり椅子に腰かける。煙草が吸いたくなったが、それは我慢した。
なんだかため息が出る。
近所の公園から届くクマゼミの合唱も、心なしか盛夏の勢いがない。
秋が近づいてきたことを実感する。
季節は入院していた僕を待ってくれはせず、時間が止まっていたのは僕だけのようだ。
(二カ月後か~)
心に中で、そんなため息交じりの言葉が漏れる。
夏の盛りの早朝野池トップウォーターゲーム。毎年楽しみにしている僕の夏の行事。
クールビズスタイルで出勤するようになった頃から心が疼きだし、折を見ては仕事帰りに中古釣具店に立ち寄っては集めたトッププラグの数々。こやつらの出番は来年ということになりそうだ。
そう諦めかけて、ふと思い直す。
僕が初めてバスとバス釣りに出会ったのは中学生の頃。
当然車など持っていなかった。
バス用タックルを釣り道具屋で見かけることすら稀。
ルアーの入手も困難を極めた。
「ルアー?何それ?」
釣り道具屋のおっちゃんの反応は、大抵そんな感じな時代だった。
それでも、当時は全く世間に知られていなかった(ブラックバス)なるアメリカ生まれの、デカくて、強くて、そして獰猛この上ないという未知の魚に、抑えきれない強烈な憧れを抱いたのがこの頃だ。
そこにブラックバスが生息しているらしいという、全く信用に足らない情報を得るや、貯めていたおこずかいのほとんど全てを注ぎ込み、乗り慣れない電車を乗り継いで、10キロメートルを超える徒歩も全く厭わず、泥濘で靴を汚し、衣服を蜘蛛の巣まみれにして、この憧れの魚を探し求めたのだ。
そして遂に出会った一匹のブラックバスは、その後の僕の人生を変えた。
あの頃は皆、竿一本でバス釣りをしていた。
ある友人はチヌ釣り用筏竿を流用していた。また他のものは、短めの投げ釣り竿を使っていた。
僕たちがベイトタックルを手に入れたのは、それから数年の時が経ってからのこと。
トリガーの形状から、“ベイトロッド”ではなく、“ピストルハンドルの竿”と皆が呼んでいた。
ベイトタックルの特徴なんかも知らぬまま、3グラムくらいのスピナーを投げようとして、一投目にしてバックラッシュ。修復不能。その日の釣りはこれにて終了。
(糸が悪かったんじゃないの?)なんて言い訳をして、一度もルアーを沖に投げることなく、釣り場を後にしたこともあった。
思い起こすと笑っちゃうような、あの不便で無知な時代。それでも僕達の釣行は、いつも楽しく、そして幸せだった。
自宅の最寄り駅からフィールド付近の駅までの乗り継ぎ方をググってみる。
乗り換え3回。所要時間は2時間弱。
意外と早いじゃん、と思ってみたが、これは通勤時間帯に飽くまで新快速電車を利用した場合の時間。
週末の早朝ならどうなのかと再検索する。
5時3分発の各駅停車に乗ることから、その経路は始まる。
表示された到着予定時刻。夏の朝マズメには間に合わない。
ならば狙えるのは夕マズメということになる。到着時刻を変更してまた検索。
公共機関の利用、そして長距離の徒歩。
そんな理由で、携帯する竿は一本。1ピースロッドは問題外。
保有するバスロッドで唯一の2ピースロッドは6フィート6インチのスピニング。
この竿ではできる釣りは限られるので、使用可能な最小限のルアーを選ぶ。
小物はワーム3袋とマス針のみ。
小さなウエストポーチに、こいつらを入れてみると、携帯電話を便乗させてすら中はスカスカ、動くと携帯が暴れる。そこで普段は胸ポケットに入れている煙草のボックスを放り込んでみると、これが丁度なあんばい。
色々な不便がある。様々な制限がある。
これは人が社会の一員として生きているなら当たり前。
これから年を重ねるごとに、益々の不便と制限を、僕は受け入れていくことになるのだろう。
じゃあ、魚釣りは楽しめなくなってしまうのか?そうではあるまい。
親の扶養下にある子供の頃は、権利や金銭面と言った観点で、今とは比較にならない不便さと制限があった。
それでも、とにかく楽しかった、あの時のような釣行に出掛けてみようと、ついに僕は決心したのである。8月第一週、土曜日の早朝だった。




