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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第五十七夜:エピローグ1(オイカワ)

本作ですが、いよいよ終活を始めました。

有給休暇は上限の48日間が、まるまる残っていた。

後任への引継ぎ業務は、7月末までに全て完了させていた。

サラリーマン生活を振り返っても、これ以上はなかったと言える程、丁寧な仕事を心掛けた。決して愛社精神の強い社員ではなかったと思うが、それなりに思うところがあったのだろう。そして8月、9月の2カ月まるごとを、有給消化に充てたのだ。


8月半ばは、世の中も夏休みで、結局消化できる有給休暇はトータル29日だった。

組合からも無理に消化する必要はないと言われていたので、有給休暇19日を残して、40年間務めた会社を退職することとなった訳である。


9月30日付けの退社。雇用延長の意思はないか、それとなく探られたが、既に2年間延長していた嘱託雇用は、今回で打ち切ってもらうことにした。

東京オリンピック需要が、いよいよ具体性を帯び始め、このタイミングを逃すと、綺麗に退職することが難しくなるだろうとの判断だった。

特に付き合いの深かった有志数名が、個別の送別会を催してくれる計画があったらしいが、2年前に名目上の送別会を開いてもらっていたことを口実に、今回は謹んでこれをお断りした。

従って1週間前の7月31日の出勤が、新卒から勤め上げた会社への、最後の出勤となったはずなのである。


結局は幹部社員に昇格しなかった私は、労働組合から退職祝いとして10万円の慰労金と5万円相当の旅行券、そして5泊のホテル無料宿泊券を受け取っていた。

この旅行券と宿泊券の使い道は、はじめから決めていた。


新卒で東京本社勤務となった。28才の時に、雪深い地方へ転勤した。29才で九州に赴任、37才で今度は名古屋支店勤務。ハイブリッド自動車関連の需要後押しと時期が重なり、私のサラリーマン人生でも、最も繁忙だった時期だ。

そして47才になった年、西日本支社勤務。技師長補佐の立場で、定年に至る今日まで勤め上げた。

それぞれの勤務先で、数え切れぬ思い出がある。しかし・・・

私には、どうしても訪れたかった場所があったのだ。

私の、その後の生き方を決めた場所といってよい、あの場所に。



YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY


お盆休み期間には、毎年乗車率が150%を超える上越新幹線だが、たった一週間ずらしただけで、指定席には十分な空席があった。2時間強の乗車時間の間に、在来線の乗り継ぎ方を、スパートフォンを使って調べたが、ものの5分でこの作業も終わってしまった。

することもなく私は目蓋を閉じる。


ふとした時、よく脳裏によぎるのは、28才の時に経験したあの転勤先での思い出。

先行きの不安と自分に対しての失望、初めての挫折、そして空虚。

気分はまさにどん底。

そんな時、私は釣りと出会った。釣りと出会い、そして彼女と出会った。

私の中の何かが変わった。


あの時、あの小さな川での、あの出会いがなければ、私はこれほどまでに清々しく、悔いのない退職を、果たして迎えることができただろうか。

私は目を開き、足元に置いてある4本継の渓流竿が入っている綿の袋に、すっと手を伸ばす。35年前に2000円で買ったあの竿ではない。

今回、あの小川で竿を出すべく購入した新竿だ。値段は2万円を少し超えた。

あの竿の10倍以上の値段。

退職を迎えた私にとって、最後になるかも知れないささやかな贅沢。


きっとあの川の周辺は、この30余年で大きく様変わりしていることだろう。

もしかしたら、もう釣り竿を出すような場所は、ないのかも知れない。

それでも、あの川の辺で竿を出そうとすることが、サラリーマンを引退する私の、避け得ぬ通過儀式のように思え、今回の一人きりの旅路についたのだ。



YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY



新幹線はダイヤ通りに運行され、予定していた在来線には、スムーズに乗ることができた。

2回目の乗り換えを予定している駅に隣接している大手百貨店は、一度だけ彼女と食事をしたことのある場所。今もあるかどうかは分からない。

その日、私は黒いダイバーズウォッチを、彼女からプレゼントされた。

長く仕事でも、プライベートでも、ずっと着用していたウォッチ。

18年ほど前のある日に、突然時針が動かなくなった。修理に出してみたが、メーカによると、既に部品が手に入らないということだった。

止まってしまったその時針が、再び動き出すことはなかった。

時計としては機能していないダイバーズウォッチだが、それでも今も私の部屋で木製の箱に保管されている。


一時間半ほど乗車した頃だろうか、車窓からみる風景は、いつの間にか都会では目にしない一面の緑だった。

そのとき、車内販売の売り子さんが通りかかったので、私は彼女を呼び止め、一度はコーラを注文し、そしてワンカップの日本酒に注文を変更したのだ。



YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY



幹線道路はほとんど舗装されていた。

目にする建物の多くも、実際には立て替わっているものが、ほとんどなのだろう。

タイムスリップしてあの頃に戻ったと錯覚するのは、単に私の感傷と、その川の水が醸す雰囲気が、全く変わっていなかったことが原因なのだろう。その曲がりくねった形状も、水量も、そして水色も。そのことが、なんだかとても私には嬉しかった。


30余年振りに聴くその川のせせらぎ。

あの時、いつも釣りエサと飲み物を購入していた小さな売店は、やはり建屋すら無くなっていた。おそらくはあの不愛想この上なかった親父さんも、他界しているだろう。

それを予想していた私は、人工の練りエサを事前に購入している。

竿が出せる草木のちょっとした隙間に、私は陣取る。

竿を継ぎ、釣り針を結びつつ、私の仕掛け作りも年季が入ったものだと、そんなことを考える。


あの頃は小さなクーラーボックスを椅子替わりに使っていたが、この旅ではさすがに持参するには大きすぎる荷だった。

土の上に、直接尻を置くことに少し躊躇したが、ホテルに戻ったあと、ランドリーサービスを使って洗濯すればいいと、私は土の地面に座した。

なぜだか少し緊張しながら、浮き釣り仕掛けを、あの頃と同じように岸際の淀みに送り出す。

浮きが水に馴染んだことを確認してから、そっと地面に置き竿する。

私はボストンバッグからコーラと一袋のポテトチップスを取り出した。

ホテルを出た頃には、しっかりと冷えていたコーラの缶が、少しぬるくなっていて、缶の表面にはたっぷりと水泡が浮いていた。

一陣の風が吹く。この方角から吹く風は、おそらく南風。

あの頃ほどの土埃は舞い上がらなかった。



ゆるりゆるりと時間が歩いていく。

一缶目のコーラは、とうに飲み干し、2缶目コーラのタブを私は空けていた。

日本酒だったらどんなに美味いかと思うところだが、この川のせせらぎを聞きつつ、コーラを飲み、そして釣りをすることが、この旅の私の目的である。

ある種のけじめと言ってよいかも知れない。でもそれが、何に対してのけじめであるのか、そのことが私には上手く説明できない。そのことを誰かに上手く説明する必要もない。

淀みに打ち込んだ浮き釣り仕掛けが、30余年前と同じく、右から左にゆったりと流れていた。



YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY



私の後方で、自転車が小さなブレーキのスキール音を発するのを聞いた。

まあそんなこともあるだろうというような感覚だった。振り返ったのは、別に何かを期待した訳でもない。

そこには見知らぬ人が立っていて、(釣れますか?)、(釣り始めたばかりです)、そんな他愛ないやり取りをする、たったそれだけのために、私は振り返ったのだ。

そして、次の瞬間、私が見た笑顔は、神が与えてくれた人生最大の奇跡だった。


笑顔で、笑顔としか表現しようのない笑顔で、ふっくらとしたワンピース姿の彼女が、自転車を降りる。すぅ~と横に引いた様に細まったその瞳は、呆れるほど真っすぐに、私に向けられている。驚きのあまり言葉だとか表情だとか、そんな全てのものを、私は手放してしまっていた。



私の横、左側で、その人は土の上に直接腰を下ろす。

視線を水面に向ける。お互い言葉はない。

水面を眺めたまま、私の左手に置いてあった飲み掛けのコーラの缶に、彼女はそっと右手を伸ばす。躊躇することなく、さわやかに喉を鳴らしてそれを飲む。

私はそれでもまだ、言葉を発することができない。

コーラを元の位置に戻した彼女の右手が、今度は封を開けてあるポテトチップスの袋に向かう。たっぷりと3枚ほどを指に挟んで、口元に運ぶ。乾いた音が、川原に響く。


「やっぱりコーラとポテチは美味しいね」


30年以上も聞くことのなかった声なのに、昨日も聞いたと思える程、私の耳に穏やかに馴染む。

いつの間にか私の目も細くなっていたのは、陽の光が眩しかったことだけが理由ではなかった。


「あっ、そうそう、お兄さんにいいもの見せてあげよう」


(お兄さん)


あの日以来聞くことがなかったその呼び方。じわりと心と目が温かくなる。

彼女は白いスマートフォンを胸ポケットから取り出した。

慣れた手つきでダイヤルし、そして誰かと会話を始めた。



YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY


ゆっくりと川原の向こう側から、その人が歩いてくる。

紺色のワンピース姿の彼女が歩いてくる。

少し踵の高い赤い靴が、川原の土を踏みしめてくる。

あの頃の彼女と、瓜二つの彼女が歩いてくる。

一瞬も私はその人から視線を外すことができない。

柔らかく、そして強い光を宿した視線で、彼女は私の目を直視する。

私の前に彼女は立つ。


「あの頃の私よりだいぶん年上だけど、でもそっくりでしょ」


・・・レナさん・・・


心の中で私が彼女を呼ぶ。


「娘のれいです」


レナさん・・・


もう一度、私は心で呟いた。


れい、この人が、じつはお母さんの初恋の人・・・」


私の勤続40年に対しての、最高の慰労の言葉だった。



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