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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第四十八夜:オイカワとベラ(了)

その後、彼女とですか?

いえ、一度も会っていません。

彼女が高校生活を東京で始めたその夏に、たった一枚だけ暑中見舞いの葉書を貰いました。


(元気でやっている。釣りはしているか?)


そんなシンプルな、それでも丁寧に書かれたいかにも彼女らしい文字と文面でした。


7月の後半、学生が夏休みに入る直前に、私の方が急な長期出張に出ることになりましてね。期間は約2カ月です。もちろん合間に休みはあったので、自宅に帰ってこようと思えば、何度かは帰れたのでしょうが、何故か私はそうしなかった。

だから夏休みに帰省していた彼女とも会うこともなかった。


さあ、どうしてでしょうかねぇ。自分でもよく分かりません。


その出張から帰ってきたのが9月も後半になってです。

出張から戻るなり、今度は東京の本社に呼び出されました。


久しぶりに東京駅に降り立った時、懐かしさよりもこの近くでレナさんが高校生活を送っている、そのことが何か私をどきどきさせました。

まあ東京といっても広いのですけどね。


いえいえ、会いになんて行きませんよ。一人で勝手にどきどきしていただけです。


でっ、本社に呼ばれた理由が転勤の辞令です。転勤先は、正反対の大都会でした。それも遠い、遠い。その時、本能的に確信しましたね。もう彼女と会うことはきっとないのだろうと。


そう、10月1日付け。結局、この北国での勤務は16カ月という短い期間でした。

今にして思えば、本当に私を成長させてくれた16カ月だったと思います。


九州での勤務地は、ああ、九州って言ってしまいましたね。

まあ伏せる理由もないですが。その勤務地というのが大変に海の近くでしてね。


そう、最初に買ったあの竿で釣り糸を垂れたんですよ。

今にして思えば恥ずかしい限りですね。リールも持っていないし、小さな川で釣りをしていた道具そのままなんですから。仕掛けはもちろん浮き釣りです。


私と彼女しか居なかったあの川と違って、周りにたくさんの釣り人がいましてね、皆リールの付いた竿で、(えいっ)て感じで遠くに仕掛けを運んでいる。

これは絶対何かが違うとは感じました。

釣り人同士、会話はしているのですが、私に話しかけてくれる人はいない。

なにか私だけのけ者の感じです。

まあ素人丸出しですからね。きっと冷ややかな目で見られていたんだと思います。


釣りを始めて数時間経ったころかなぁ、一人の年配の釣り人が、そんな私に声を掛けてくれたんですよ。


(こんなところで浮き釣りして何を狙っているの?)って。

何か憐れむような声音でしたね。それは私の被害妄想かも知れませんが。

そしてもちろん、その問いに私は答えようがない。


(いやぁ、何かが釣れれば・・・)


そんな曖昧な答えを返したような気がします。


朝から釣り始めて、お昼をとうに過ぎた。

全く釣れない。まあ当たり前ですが。

周りで沖に仕掛けを投げている人達は、たまに何かを釣っている。


さぁ、魚の種類までは判らなかった。だってオイカワとハヤしか知らないんですから。

まあ鯛とかなら、自分が釣ったことがなくても判ったでしょうが。


少しお腹が空いてきた。でもお昼ご飯なんて準備していない。

そう、持参してきたのは小型クーラに入れているコーラだけです。

ポテチですか?いや、持っていかなかったです。それどころか、レナさんと離れ離れになってからというもの、ポテチを食べることがなくなったんですよ、何故か。


さらに時が進んで、それは夕方前でしょうか、多くの釣り人がもう帰ってしまっている時間です。ある釣り人が声を掛けてくれました。

もちろんそれまで私は何も魚を釣っていません。


「浮き釣りで何を狙っているの?」


その時どう答えたのか忘れてしまいましたが、(いやぁ~)なんて曖昧は応答をしたのでしょうね。そして魚を釣りたいなら、もう少し深いタナを狙ったほうがいいですよってアドバイスを頂戴しました。


お礼の言葉を述べて、私は浮き下を長く取りました。

そのアドバイスをくれた釣り人は、それから程なくしていなくなったのですが、いよいよ日が西の空に沈み始め、朱色のインクを刷毛一振りで描いたような夕焼けが眩しく思えた時のことです。

先ほどまで目の前に浮いていた浮きが、海中に消えているんですよ。

暗くなって見えなくなったというのではありません。


ゆっくりと竿を立てると、小さな小さな生命感が糸の先に存在します。

大した抵抗もせず上がってきたのは、夕焼け空にも負けない朱色の綺麗な魚。

でもその魚種までは私には判らない。

しばし私は、その美しい魚に見入っていました。


「へぇ、ベラですか。塩焼きにして食べるにはちょうどのサイズですね」


いつの間にか私の後ろに立っていた、また別の釣り人がそう教えてくれました。


「この魚はベラっていうんですか。生まれて初めて海の魚を釣ったんですが、こんなに綺麗な魚がいるんですね」


見ず知らずの人と、こんな会話が私にできるようになるとは、以前は想像もできなかった。


「この時期のベラは婚姻色が出ますからね、それはメスですね。オスもなかなか綺麗ですよ」


そんな説明を受けた時、私の胸が締め付けられました。

もちろん思い出したのは、レナさんとのあの日の出会い。

今からだと30年、いや20・・・、まあ大昔のことですよ。


その後、九州、名古屋、最後に大阪。結局、東京に戻ることもなかったですね。

でも楽しかったです。釣りも仕事も。どこの釣り場でもどこの勤務地でも。


まあ、そんな理由でね、私は海の魚の中では、ベラが一番好きなんですよ。

初めて海で釣った記念の魚でもありますしね。


そのベラですか?もちろんすぐに針を外して海に返しました。


(塩焼きにしたら美味しいのに勿体ない)


その釣り人はそう言いましたが、当時は料理も自分ではできませんでしたしね。

今でもできませんが。


すいませんね、下らない話を長々と。


ああ、有難うございます。そう言って頂けると、お話した甲斐もあったというものです。

私も忘れかけていた昔のことを思い出すことができて、なんだかとても嬉しかった。


えっ、今もし彼女に会ったらどんな言葉を口にするか?

そうですね。ずっと続けてるよ、釣り・・・くらいの言葉ですかね。


そうですね。もう朝マズメのチャンスも終了ですね。

まあ、のんびりと昼過ぎ頃までやろうかと思っています。


飲み物ですか?いえ、コーラじゃないです。はい、お酒です。

浮きを見つめながら、ゆっくりと一日かけて日本酒を1合だけ飲む。

魚が掛かること以上に、そのことが好きなんです。釣果はあまり気にしませんね。


そうですか、もう今日は上がるんですか。お疲れ様でした。

そうですね、またお会いできればいいですね。


では、また。



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