第四十七夜:オイカワとベラ(11)
今年もメバルの季節がやってきました。
一発目はホゲました。
3月・・・晴天
数日前には、うすく路肩に残っていた雪が、すっかり溶けて消えた早春の川原に、私は一人立っています。
私の足元には、底から5センチほど水を張った四角い水槽。その水は少し緑に色づき、濁っています。
ついさっきまで暖房の効いた部屋に置かれていた水槽は、外気に冷やされていくらかその水温を下げたことでしょうか。
久しぶりに浴びる太陽の光にやや戸惑ったのか、水槽の中のオイカワ2匹は、少し落ち着きがありません。私はしゃがみ込んで目線を低くし、彼らに話しかけます。
「せまい所に長いあいだ閉じ込めて、申し訳なかったね。ありがとうね」
魚に話しかけている自分の姿が、自分でも少し可笑しくなり、思わず苦笑いします。
おやっ、それは気のせいでしょうか?
2匹のオイカワが、また少し大きく成長したように感じます。形も心なしか釣り上げた頃と比べて、なんだか丸みを帯びたようにも思えます。
オスの方は、私にとって、釣りを始めて2匹目に釣り上げた魚。
メスのオイカワは、レナさんにねだられ、苦労してやっと11月に釣り上げたものです。
感慨深く、この2匹のオイカワを、私は眺めています。
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それは2週間前の夕方の事です。
静まり返っていた私の部屋に、ドアをノックする音が届きます。
小さく4回ノックされた音が、レナさんの訪問を告げる音であることが、すぐに私には判りました。きまって4回叩かれるこの音が聞こえる度、私の鼓動はいつも高鳴ります。少しだけ間をおいて、小さく(は~い)と返事します。ずっと変わらない私の在宅の伝え方です。
「いたいた、お兄さん、私」
「ああ、レナちゃん、開いてるよ、鍵」
「ごめん、ドア開けて。両手が今ふさがってる」
両手がふさがってる?彼女は一体何を持っているのでしょう。
やや慌てて立ち上がり、玄関に向かいます。
ゆっくりと外側へ開くドアを押します。
ドアのすぐ前ではなく、少し離れた位置に立っていたレナさんが手にしていたのは、小さめの四角い水槽。その中には忙しなく泳いでいる2匹のオイカワ。
比較的小さな水槽に入れ替えて、自宅からここまで、彼女が運んできたのでしょう。
彼女の家からここまで、徒歩で15分か20分。
水の入ったその水槽を運ぶことは、女の子には大変な労力だったと思われます。水槽の底を支えているレナさんの指先が、赤く変色しています。
「うわ、重たそう。早く、置いて置いて」
彼女を玄関に招き入れ、床に水槽を置かせます。
「言ってくれれば取りに行ったのに。重たかったでしょ?もし俺がいなかったらどうする気だったの?また持って帰らないといけなかったよ」
「あっ、そこまで考えてなかった。そうだね、レナ、やっぱり馬鹿だね。でもお兄さん、きっといると思ってたし。そういう勘は働くんだな、レナ」
(全国的に有名な名門高校に推薦合格するレナちゃんが、馬鹿な訳ないじゃない)
そんな言葉を口にしようとして、私は黙り込んでしまいました。
もうすぐそこまで近づいているレナさんとの別れ。
それに関する全てのことに、私はできるだけ触れたくなかったのです。
ドアが閉まるや、先ほどまで一人でいた時と同じ静寂が、私の部屋に戻ります。
「上がっていいかな」
「もちろん、どうぞ」
たっぷりと暖房の効いた部屋にレナさんが入ってきます。
「お邪魔しま~~す。おおっ、温かい」
レナさんは、厚手のグレー色のコートを脱いで、それを自分の左脇に置きます。
そして、この部屋では彼女の定位置となっている丸テーブルの、入り口から見て手前側に座ります。
ベージュ色のセーターを着込んだ後ろ姿に、彼女を抱きしめたあの日のことを思い出します。私もテーブルを回り込むように、彼女の前に腰を下ろします。
目が合うや、真正面から浴びるレナさんの微笑。
その微笑につられて、無意識に足を踏み出してしまったように、触れたくない話題への呼び水を、私は零してしまいました。
「向こうに出発するのは・・・再来週かな」
自分で口にしておいて、そして一気に切なさが押し寄せます。
改めて問うまでもなく知っていることなのです。
4月から東京の高校に通うこととなるレナさんは、再来週の週末、下宿先となる八王子のおばあさんの所に、もう向かってしまうのです。
(できるだけ早く東京に慣れたいし・・・)
彼女は以前そういう言い方をしました。
「うん、再来週の土曜日。それで、このオイカワ夫婦なんだけど・・・」
「あっ、うん」
「どうしようかぁ~って思って。お兄さんが飼ってくれるとお魚さんも喜ぶと思うけど、結構出張とか多いんでしょ」
彼女の言う通り、私のこの先2カ月のスケジュールは、飛び飛びの出張で、ほとんど埋まってしまっている状況でした。確かに、魚の世話ができるとは到底思えない多忙さです。
「それでレナ、考えたんだけど、少し暖かくなったら、この子達、やっぱり川に返してあげるのがいいのかなって」
「うん」
たったそれだけの相槌を返すにも、私の声は寂しさで少し震えそうになりました。
「さっき、金魚の水槽から移そうとして網で追っかけたんだけど、この子達、逃げ回ってさ。なかなか捕まってくれなかったんだよ。やっぱり別れるのが嫌なのかなとか思っちゃった」
「・・・うん」
先ほどから私は、(うん)という言葉しか口にすることができません。
それ以外の言葉を発しようとすると、思わず感情が零れ落ちそうになってしまうのです。
「お兄さん、どう思う?ずっとこの子達、水槽の中でのんびり過ごしてきた訳だから、自然に返しちゃうことが、本当にこの子達にとっていいことなのかなって、少し悩んでるんだ」
私は言葉に詰まります。
そういうレナさんだって、4月からは住み慣れたこの街を離れるのです。
私も9カ月前、人生で初めての転勤を経験した身ですが、15才の彼女にとっては、例え親類の家での下宿とはいえ、私の転勤どころではない環境の変化なのです。
多くの友人との別れも、彼女にとっては大きな悲しみだろうと想像できます。
でも、それは彼女にとって、これからの人生を豊かにするための、飛躍への第一歩であるはずです。聡明な彼女のこと、覚悟はとうにできているのでしょう。
私は決めました。
「うん、放してあげよう。生き物にとって、自然の中っていうのが、どれほど厳しいものなのかは、俺には想像もつかないけど・・・でも、放してやるべきだと思う」
その私の言葉に、レナさんは、にこりと微笑みます。
「天気予報だと、来週はもっと暖かくなるって。来週、一緒に川に放しにいかない?」
「あっ、ごめん、俺、来週も出張なんだ」
11月のあの日、レナさんの背中を抱きしめて以来、それほど長くの時間を彼女と過ごした訳ではありません。
電気主任技術者の資格を持っている私は、年末完了予定の公共工事現場代理人として、今では県外にまで引っ張りだこの状態だったのです。
どうにか都合のつく出張は、少し無理をしてでも、私は積極的に現場代理人になることを快諾してきました。
(できるだけ多くの現場を経験して、早く一人前にならないといけない)
そんな思いが、これほどまで私の中で大きくなったことは、過去にありませんでした。
自分を多忙に追い込むことが、レナさんとの別れを一時忘れるための、一種の鎮痛剤になるのだろうと、私は無意識にそう考えたのかもしれません。
「でも再来週は、もう私、東京に向かうし」
少し不服そうなレナさんの表情。じくりと心に何かが染み入ります。
「じゃあ、再来週の週末、俺が川に放しとくよ。それまで2週間、水槽ごと預かっとこうかな。この魚には、俺も思い入れがあるし」
「え~~、それじゃあ私の見送りは?」
彼女が東京に向かうその日、彼女のクラスメートが、駅まで見送ることになっていることを、私は彼女から聞いて知っていました。何故だか分からないのですが、その場に私はいないほうがいいと、そう私は考えているのです。
「お友達がたくさん来てくれるんでしょ?俺がそこにいるのも、何か場違いかな~って」
「ぜんぜん場違いじゃないし。一応レナの彼氏ってことになってるよ、お兄さん」
そんな彼女のセリフに、ちょっと照れ臭い感じになりますが、同時に鼻の奥の方が、なんだかまた湿っぽくなってきます。一度彼女に涙を見せている私です。もうそんな姿は見せられないと、私は精一杯に強がって、そして少し背伸びしてみました。
「友達がいっぱいいたら、お別れのキスができないじゃない」
僅かばかりの間を置いて、レナさんが少し驚いたような表情になります。
(しまった)という思いが一瞬過りましたが、すぐにレナさんがいつもの悪戯っ子のような顔に変わったので、私は安心することができました。
それでも少し図に乗ってしまったことを後悔します。
(冗談、冗談)
そう私が口にする前に、レナさんが言います。
「来週はお兄さんだめでしょ、再来週は私のほうが友達いっぱいでしょ。じゃあ、お別れのキスは・・・今日しかないじゃない」
今度は完全に私の方が固まりました。
しばらくレナさんと見つめ合います。
ゆっくりと丸テーブルの向こう側でレナさんが立ち上がります。
私はその高くなったレナさんの顔を、座ったままの姿勢で見上げます。
直径1メートル足らずのテーブルを、レナさんが回ってくる時間が、とてもとても永く、私には感じられました。
私の目を見つめたまま、レナさんが横に座ります。
レナさんの顔が少しずつ近づいてくる間、私の時間は完全に停止してしまっていました。
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暫くの間、川の流れを私は見るともなく見ています。
流れは向かって右から左。
上流からの雪解け水の影響でしょうか。秋口に見た水の色より、少し白く濁っていて、流れもやや速いように思います。長く水槽で飼っていたオイカワ達は、この流れの中で、果たして生きていけるのかと不安になります。
その時、ふと私の左後方の方角となる駅の方を、私は無意識に振り向きました。
そしてレナさんからのプレゼントであるダイバーズウォッチに視線を落とします。
きゅっと心臓が締め付けられます。そろそろレナさんが列車に乗る時間です。多くの友達が、彼女の旅立ちを見送っているのでしょうか。
足元の水槽に目を向けると、少し光に慣れたのか、二匹のオイカワが水槽の端っこのほうで寄り添うように留まっています。
(えっ?)
私は驚きました。
ほんの数分前には気付かなかったのですが、メスのオイカワのお腹の部分が、何だか少し赤く色づいています。オスの側面の青色が、これも明らかに鮮やかに変化しています。
こんなことがあるのでしょうか?春の息吹を瞬く間に感じ取り、2匹のオイカワに婚姻色が表れたのです。
そして私は思いました。
やはり自然の生物は、自然に返すのが一番、彼らにとって幸せなことなのだろうと。
水槽の中には存在しなかった様々な脅威が、自然界にはあるのでしょう。
でも自然界で淘汰されていくものに対して、可哀想だなどと感じるのは、人間側の押し付けがましい感傷なのだろうと。
私はゆっくり水槽を持ち上げます。
二匹のオイカワは、全く怯える素振りを見せません。
少し流れが淀んでいる場所を選び、足元の水面にゆっくり、ゆっくり水槽を傾けていきます。
白い川の水と水槽の緑かかった水が混じり合い、僅かに色調を変えて下流に運ばれていきます。
いよいよ水槽の水がなくっていくその時、ぽろりとメスが、川の水面に落ちました。
それを追うように、すぐにオスが飛び込みます。
メスが下流、オスが上流。2匹が別れるかと思ったその時、オスが急に向きを変え、メスに寄り添います。申し合わせたように、慌てる風でもなく、ゆっくりと2匹は一定の距離を保ったまま、同時に本流に帰っていきます。
その時、私の遠く左後方から、微かに声が聞こえた気がしました。
(行ってきます)
水槽の水がなくなったかわりに、いつの間にか私の目から、やけに暖かく感じるものが流れ出ていました。眼前の川のせせらぎのように、永劫に続くかのような止め処ない流れでした。




