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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第四十一夜:オイカワとベラ10

レナさんの強張りが溶けていくと同時に、私がまず感じたのは、自分自身の鼓動でした。

まるでレナさんの背中に反射して増幅されたように、それはそれは大きな心臓の高鳴りでした。

次に感じたのはレナさんの背中の温もり。雪国の秋らしい厚手の生地を通して、穏やかな春の陽光の輻射熱のように、柔らかく、ゆっくりとその温もりが伝わってきます。


とっ、急にレナさんが、大きく笑いだしました。私の胸に密着した背中が大きく上下します。


「そっかそっか、そんなに寂しいか」


その朗らかな笑い声とは裏腹に、その響きには僅かな彼女の戸惑いが感じられます。

そしてまた沈黙。それは1分以上の時間だったかも知れませんし、ものの10秒程度の時間だったかも知れません。完全に時間が停止してしまっている私には、それを認識する術がありませんでした。


少し強く、それでも優しい動作で、私の両腕をレナさんがゆっくりと振り解きます。

そして体ごと振り返ったレナさんの表情。まるで幼い弟を見るかのような慈愛溢れる顔。


「もしね・・・」


レナさんの優しい声音と表情に、思わず私の眼は潤みます。


「もし、私がやっぱり東京行くの辞めるっていったら・・・お兄さん、どうする?」


この時、やっと私は我に返りました。何ということをしてしまったのかという強い後悔の念。その全てを知る由もありませんが、彼女が難関校合格のために、これまでどれだけの努力をしてきたか、彼女の成績が、それを雄弁に語っています。そんな彼女に、このようなセリフを言わせるとは・・・それは在ってはならないことなのです。


「あっ、ごめん、あまりに後姿が可愛かったものだから」


精一杯の演技でそう取り繕ってみたものの、もう声は震え、眼から溢れ出てくる熱いものを、私は御することができませんでした。その熱い水滴が、私の心の真実を語るに任せ、私は言葉を発することを諦めました。そんな私の眼をしっかりと見て、レナさんが言います。


「男の子が泣くな」


そう言ったレナさんも、いつの間にかその大きな両の瞳を、たっぷりと潤わせていました。

ずるいです。レナさんは眼が大きいので、きっと涙を貯める容量が、私より大きいのでしょう。私はそのことを伝えたくて、一言、(ずるい)と小さく呟きました。その囁きはレナさんに届いたようです。


「ずるい?何が?」


私には上手く言葉が紡ぎません。

勇気、諦観、告白、様々なものを振り絞り、様々なものを乗り越え、そして私は言いました。


「頑張って、東京で」


すでに涙が零れ落ちている私の眼と、その大きな瞳一杯に涙を貯めているレナさんの眼が、見つめ合います。とてもとても静かな時間でした。


「うん」


そう頷いたレナさんの内部で何かが膨らんだのでしょうか。その内圧に押されるように、遂に一滴、レナさんの眼から水滴が零れました。それはたった一滴だけでしたが、その一粒が、私にとってどれ程価値のあるものだったでしょう。悲しく、そしてとても嬉しかった。


右手で涙を拭ったレナさんが再び私に背を向け、炒めた野菜と二袋の即席ラーメンを、鍋に放り込み、ガスを点けます。ガスコンロの発する僅かなはずの音が、やけに大きく静まり返ったキッチンに響きました。


私は立ち尽くしたままです。大きな箸でラーメンをほぐすレナさんの背中が、微かに震えています。しかしそれは一瞬で、すぐに大きく深呼吸し息を整えたとき、私にはその背中が少し膨らんだように思えました。


「一日幸せになりたければ、なんじ酒を飲みなさい・・・」


(あっ)


初めてレナさんと出会った、初夏の一日に聞いたあのセリフです。


「一生幸せになりたければ、なんじ釣りをしなさい・・・お兄さん・・・釣り、続けなよ。レナがいなくなっても。ついでに・・・」



「ついでに?」


「たまにはレナのことも思い出せ」


ゆっくりと、されど力強く、きっぱりと、しかし寂し気に、その言葉が私の胸に染み入ります。


レナさんはこちらに背を向けたままです。

鍋がぐつぐつと低いくぐもりを立て始め、あっと言う間にその音が大きくなりました。


静寂が消えてなくなったキッチンに負けない様、そして決して声が震えない様、精一杯の感謝を込めて、私はレナさんの背中に向かって言いました。


「忘れるものか、絶対に」


魂の一部を吐き出したかのように、少し小さくなった背中でレナさんが、無言で優しく微笑んでくれた。そんな気が、私にはしました。



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