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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第四十夜:オイカワとベラ(9)

秋は別れの季節ですね。

私が玄関の扉を開けたのは、二回目の(お兄さん、いる?)の声が届いた時でした。

私は如何にも今まで眠っていたという表情を、無理やり作り、一回目のノックで出なかったことの言い訳工作を施しました。


ドアの向こうには、先々週に一度だけ見たスカート姿のレナさんが立っていました。

たったそれだけで一気に大人びて見えるレナさんですが、私は見逃せませんでした。彼女の笑顔の中に佇む僅かばかりのうら寂しさを。


「上がってもいいかな?」


心なしかいつもよりレナさんの声が小さく聞こえるのは気のせいでしょうか。


「あっ、うん。散らかってるけど」


その時、私は(しまった)と思いました。敷布団が部屋の隅で畳まれていたのです。

今まで眠っていたという口実が嘘とばれてしまいます。慌てて私は言葉を繋げます。


「ついウトウトと畳の上で寝ちゃってたみたい」


急激に気温が落ちたここ数日、布団も敷かずうたた寝というのは、相当の無理がありましたが、この私の嘘に、レナさんからの特に目立った反応は返ってきませんでした。


小さく、(お邪魔します)と言ったレナさんの声には、やはりいつもの明るさが感じられません。前回この部屋に入った時には、部屋に入るなり、(男臭さ!)という如何にもレナさんらしい憎まれ口に、私は思わず苦笑したのですが。


部屋のど真ん中に居座る円卓の手前側に、レナさんは腰を下します。

以前一緒に即席ラーメンを食べた時の位置関係そのままです。

低くなったレナさんの頭に、蛍光灯の光が反射し、黒髪の下地にきれいな光の環ができました。

こちらに背を向け、円卓の前に座ったレナさんは、こちらを振り返ろうとはしません。

その背中は、明らかに、円卓の向こう側に座る様、私を促しています。

私はレナさんの静けさに、圧倒されるとまでは言いませんが、奇妙な強制力を感じる催促に負け、円卓の周囲をぐるりと回る格好で、レナさんの正面に座りました。


座りはしたものの、私はレナさんの視線を受けることができません。

この数カ月で、少しは自分自身に自信を持てるようになったと思えたのですが、対人所作については、やはり相変らずのようです。今の私の顔は引きつっていないだろうか、その事が、何だかとても気になりました。


「オイカワ・・・」


「んっ?」


反射的ではありますが、やっとレナさんの方に視線を向けることができました。

その眼は、とても落ち着いていて、同時に優しそうで、そして少し寂しそうでした。

この2週間で、一気に彼女が大人びた様に感じるのは、単に服装だけが理由でしょうか。


「オイカワ、女の子の。ありがとうね。わざわざ家に届けてくれたんだね」


「あっ、うん。やっと釣れたから」


にこっとした表情を浮かべたレナさんですが、そのまま言葉を発しません。

思わず私は視線を落としそうになり、踏み止まります。

上手な続く言葉が、私の頭には浮き上がって来てくれません。10秒にも満たない時間なのでしょうが、その静寂がとても長く私には感じました。どうやら私は、初めてレナさんと出会った頃の自分に、逆戻りしてしまったようです。

レナさんの表情も、笑顔を浮かべてはいますが、どこかいつもの突き抜けた様な明るさが感じられません。それでも視線は真っすぐに私に向けられていることが、何ともレナさんらしいとも言えます。


何か意を決したように、大きく息を吸った後、レナさんが遂に言葉を発します。


「お母さんから聞いた?」


どきりと心臓が高鳴ります。


「えっ、何のことかな?」


大根役者以下の、動揺を全く隠せない私の相槌。きっと私の眼は上下左右に泳ぎ回っていることでしょう。

聡明なレナさんのこと、そんな私の動揺を察したのは間違いありません。レナさんは、ふっと穏やかでありながら、どこか寂し気な笑いを浮かべました。次のレナさんの言葉が何だかとても怖い。その時の私の心境がそれでした。


「釣り、今日はしなかったのかな?しばらくいつもの場所で待ってたんだけど」


この寒空の下、川の辺にぽつんと立っていたレナさんの姿を想像し、ずきっと胸が痛みました。でも・・・


「あっ、うん。だいぶん寒くなってきたしね。先週も少しだけやってみたんだけど、全くアタリもなかったし。また来年温かくなってからかな、釣りは」


何と演技が不得手な人間なのでしょうか。微かに語尾がしわがれてしまいました。

そんな私の顔を、それでも真っすぐに見つめていたレナさんが、ふとテーブルに視線を落として呟きます。


「そっか、来年か・・・」


そう、来年の暖かくなる春には、もうレナさんは・・・

そう考えた時、私は急に眼の奥の方が何だか温かくなるような感覚に陥りました。


「お母さんから聞いてるよね」


一度ははぐらかそうとしたレナさんの問い。もう逃げ場はありません。

さっきから少し湿り気を感じている鼻を、気付かれない程度に小さくすすり上げ、そして答えます。


「ああ、東京の高校のことかな、聞いたよ。おめでとう」


ぎこちない事この上ない私の祝福の言葉に対して、口元のごく僅かな動きだけで、レナさんが微笑みます。


「うん、ありがとう」


そして沈黙。

優しそうで、寂しそうで、嬉しそうで、悲しそうで。そんなレナさんの表情に、私は紡ぐ言葉を完全に失いました。10秒?20秒?ただに流れる沈黙の時間。

その静寂が臨界点に達するかと思った時、不意にレナさんが打って変わった元気な声で言います。


「お兄さん、お腹空いてない?レナ、お腹空いちゃった。まだラーメン残ってる?」


正直に言うと昼ごはんが遅かったため、少しも空腹を感じていないというのが本音でした。

しかしその事を私は口にしません。代わりに、


「ラーメンも野菜もまだ残ってると思う」


にこりとレナさんが笑います。

すっと立ち上がったレナさんは、部屋の隅に置かれているダンボールの前まで歩きます。

つられて私も立ち上がりはしましたが、どうしたものか暫し悩みます。

レナさんが、2袋の即席ラーメンを手に取っています。思い出したように私は押し入れから鍋を取り出しました。

あの日二人で食べた即席ラーメンの味が、直接脳に届くように、ありありと思い出されました。思えばあれ程幸福な時間が、私の人生の中で、果たしてあったでしょうか。



キッチンに立ったレナさんは、手慣れた包丁捌きで千切った野菜を、少量の油で炒めています。

彼女がキッチンに立つ姿を見るのはこれで2回目ですが、最初の時、彼女は白い体操服姿でした。スカートを纏った今日の後ろ姿は、とても女性らしく、そのことに私の心臓は高鳴ります。同時に、彼女が何か遠い存在に感じられ、やり切れない程、切なくもあります。

すぐにやかんの笛吹き機能が、沸騰間近であることを告げる高い音を立て始めました。


「お兄さん、いったん火を止めて。まだ野菜のほう、少し時間がかかりそう」


(うん)と言ったか言わないか、私は言われるがままコンロのコックを閉じます。

僅かに野菜を炒める音がするのみで、一気に部屋が静まり返った気がしました。

そしてレナさんが、弱火で野菜を炒りながら、ゆっくりと口を開きます。


「私ね、春から東京なんだ」


私の最も恐れていた言葉を、彼女から直接聞くこととなりました。


「うん、知ってる」


乾いた声で応える私。喉がからからに乾いていました。

そして沈黙。レナさんは振り返りません。その後ろ姿を私はずっと見つめています。

心なしか数週間前に見たものよりも、今日の背中が大きくなったような気がします。

その時、レナさんがガスの火を消しました。野菜が炒り上がったようです。

一層の静寂が、この狭いダイニングキッチンに満ちます。

その静寂に耐え切れず、私はやかんを掛けていたコンロに、再び火を入れようと立ち上がります。近づくレナさんの後姿。レナさんは変わらず振り返ろうとしません。



「ねぇ、お兄さん、少しは寂しい?」


やけに冗談めかした声で、それでも私の方を振り返らずレナさんが言いました。


その言葉を聞くや、私は眩暈を感じる程に、意識が迷走しました。

そしてこれが、どうしてなのか分かりません。

私はコンロの上のやかんの方ではなく、レナさんの真後ろに立っていました。


「んっ、どうしたの?」


背中で私の存在を察したそうレナさんが言い終える前に、私はレナさんの後姿を、ゆっくりと、そしてしっかりと両手で抱き抱えていました。


びくりと、レナさんの背中の筋肉が張りつめたのを、私は心臓付近で感じました。

そして次に感じたのがレナさんの体温。大きく脈打っている私の胸の鼓動は、果たしてレナさんの背中に届いているのでしょうか。

ゆっくりとレナさんのこわばりが溶けていくのを、私は感じました。

その時2人に言葉はありませんでした。


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