第四夜:雨の日に拾ったもの
2016年で一番感傷的になった釣行日誌です。
6月18日。
フィールドに着いた頃には、既に雨は本降りになっていた。
レインウェアは持っていたが、ゴルフ用のそれでしかも安物だ。
この雨の中で釣りをするとなると、充分な防水効果は期待できる訳もなかった。
そういえば今江克隆が、「雨のなか一日釣りをするには、耐水圧10000ミリ水柱のレインウェアでは全く役に立たない」と雑誌で書いていたな。
そんなどうでもいいことを僕は思い出しながら、開いた車のハッチを雨除けにして安物のレインウェアを着込んだ。
実はこの前週にも、僕はこのため池で釣りをしている。
その日も釣りを始めてすぐに、結構な雨に降られたのだ。
今着込んでいるレインウェアの防水性能の悪さはその時に経験済だ。
しかも今日の方が雨の勢いは遥かに強い。
車のトランクには、それよりは少しだけ高価な、釣り用のレインウェアが入っているはずだった。
しかしトランクのどれ程奥の方にそれが潜り込んでいるかを想像すると、わざわざそのレインウェアを探そうという気にもなれなかった。
ここ数年の間で何度か着用し、濡れたまま車のトランクに押込み、メンテナンスらしい事は一切していない。
防水スプレーすら吹いたこともないはずだ。
防雨効果はきっと今着ている安物と似たり寄ったりだろう。
気分的にも、多少雨に濡れてみじめになるほうが、今の自分の心境にあっているような気もしていたのだ。
一昨晩のことだ。5年間在籍している今の職場で、いろんな意味で停滞した僕は、給料も上がらず、また悲惨にも会社からの家賃補助も今年3月で打ち切られた。
転勤後5年で家賃補助が打ち切られる会社のルールは知っていたが、転勤族に分類される僕のこと、どうせ5年も同じ部署にいることはないだろうと気にもしていなかったし、その頃にはちゃんと自分が昇格する未来を思い描けてもいたのだ。
どこで間違えてしまったのだろうと、考えたこともあるにはあったが、今ではそんなことを考える気力がすっかり無くなってしまった。
4月の給与には、たまたま通勤の定期代が振り込まれる月だったこともあり、それほど気にならなかったが、5月の給与明細に、ついに女房が強く反応した。
さらには収入が減った一方で、年だけ無駄に喰ってしまった僕は、お客との接待ゴルフという出費事項を生活に追加するはめになってしまって、翌週がまさにそれだった。
この収支のバランスの崩壊により、こずかいの削減から始まり、ついには車を手放すことまで節約手段の一つとして女房は提案してきたである。
都会の中では、必ずしも必需品でもなかったし、車の運転をしない彼女にとっては、金のかかる、僕の遊び道具という感覚だったのだろう。
提案というよりは強制に近い意志をその言葉に秘めていた。
そんな議論になったのは何もこれが初めてではない。
そんな時、僕も心得たもので、車を手放す代わりに、バイクの購入を条件とした。
表向きは、都会の真ん中に住んでいるとはいえ、足がないと何かと不便との主張だったのだが、自動車と比べて事故を起こした時の危険が高いバイクの運転を、彼女が非常に嫌っていることを僕は知っていたのだ。
いつものパターンと思っていた一昨日のやり取りが、これまでと決定的に違ったのは、バイクの購入を彼女が認めたことだった。
国立大学を卒業し、それなりの企業に勤めて20数余年、挙句車すら持てない生活なのかと、完全に投げやりな感情論に終始する僕とは対照的に、女房の主張は悔しいほど論理的だった。
主婦のデータに基づいた我が家計の収支の実態は、ひたすら僕をみじめにさせる内容だったし、これまで家計には無頓着で、女房に迷惑をかけていたことを反省せずにはいられない心境だった。
この一昨日の晩から僕は、この週末何としても釣りに出かけようと決めていたのである。
先週の釣行結果からも難しい釣りになることは判っていた。
フィールドの状況としては最高に近い水温と天候だったにも関わらず、最後はトーナメンント並みの集中力とライトリグを駆使し、どうにか2本の魚を取ることに成功したのが先週の釣果だった。
今日も魚を捕ることだけを考えればライトリグだろう。
判ってはいたが、僕はライトタックルを選ばなかった。
特に何時までに帰らなければいけないという制約があるわけでもない。
絶対に魚を釣ってやろうという意欲もなかった。
魚を釣ることが目的ではなかった。
ここ最近、全くうまくいかない仕事のことや、嫌味なセリフをさらりと口にする女房のいる空間や、そう言ったものから一時逃れるためだけに、わざわざ雨に濡れて釣りをしようと思い立って家を出たのだ。
釣りをしていることは女房には内緒だ。
彼女は仕事に出かけたと思っている。
「収入は減ったのに休日出勤?」といういちいちイラっとさせる女房のセリフは、逆に僕の行動力を加速させた。
この日の釣りに制限があるとすれば、明らかに仕事に出かけたのではないと判ってしまうまで、雨まみれ泥まみれにならない程度で釣りを切り上げることくらいだった。
家を出てからこのフィールドに付くまで、距離にして約50km。
時間にして1時間半をいくらか超えるドライブだった。
この日も高速道路を使わなかった。
嫌なことをいっときでも忘れる手段が、釣りと車の運転くらいしか僕にはなかった。
2週連続で雨の中運転してきたこの愛車も、遅くとも秋口には手放すことになる。
それは同時に釣りに出かける際の制限が、とても大きくなることを意味する。
これまで通りに釣りに行くことができなくなるのは明らかだ。
そのとき僕には一体何が残るというのか。
その日を迎えた時、一体僕はどうなってしまうのか、僕には想像もできなかった。
いや、したくなかった。
この池を見つけたのは4週間前のことだ。
一昨年から年に何度か釣りをする神戸電鉄押部谷駅からほど近い小さな、本当に小さな池が、その日の本来の目的地だった。
フルキャストすれば、対岸まで楽にルアーが届くほどの小さな池だ。
そんな池なので釣り場としての雰囲気はよいとは言い難かったのだが、なにせこの池は魚影が濃かった。
ライトリグを投げれば必ずと言っていいほど、一投目からアタリがあった。
そうでなければ年に数回とはいえ、車を2時間近く運転して釣りにきたりはしない。
ところが4週間前のその日は、期待に反してこの池が全くの不発だった。
予想もしていなかった事態に、仕方なく僕はカーナビの画面を頼りに釣りができそうな池を付近で探したところ、最初に車を止めたこの池で、小さな流れ出しがつくる水流の淀みとなった場所に、小さなバスが群れで浮いているのを偶然に見つけたのだ。
ナビのメモリに登録すると住所は「神戸市西区美穂が丘」と表示された。
古い記憶が蘇る。
この住所に僕は見覚えがあった。
小学校5年生の時の同級生だった尾下友子さんの家族に不幸があり、これをきっかけに彼女は転校してしまったのだが、その引っ越し先の住所が「西区美穂が丘」だったのだ。
僕は彼女に好意を抱いていた。
彼女のいないクラスルームで、担当教師が彼女の転校をクラスの皆に伝えた。
彼女が母子家庭であったことを僕はそのとき知った。
葬儀には確かクラス委員長と副委員長の二人が出たはずだった。
葬儀の翌日だったと思うが、僕は彼女の家に電話をかけた。
ただ彼女の声が聞きたかったのだ。
彼女が出た。
僕は何を話せばいいか判らず、反射的に「お母さんはいますか?」と言ってしまった。
なぜそんな言葉が口を突いて出たのか今でも判らない。
暫くの沈黙のあと、彼女は小さく「母はいません」と答えた。
彼女の言った「いません」は、「母はもうこの世にいません」という意味であることを僕は知っていた。
僕はそのまま黙って電話を切った。
その日のことを思い出した。
本当に申し訳ないことをした。
高校一年生になった夏、僕は彼女と一度と会っている。
その年、県内でも有数の進学校に入学した僕は、少し自分に自信が持てるようになっていた。
自信が人に与える影響は大きいのだろう。
中学の時、あれほど苦手としていた女子生徒との会話も、いつしか苦にならなくなっていた。
そんな時ある女子生徒から中学校時代、尾下友子さんと同級生だったことを偶然に聞いたのだ。
その女子生徒を通じて、僕は尾下友子さんの現在の連絡先と住所を得たわけだが、訪ねてみようと決心するには少し時間が必要だった。
その作戦を決行した当日は、事前に連絡を入れたわけでもなかったし、もし会えなくても、それはそれで全く構わなかった。
むしろ会える事の方が、都合良すぎると思っていた僕だったので、彼女の自宅を見つけ、少し躊躇したあと、玄関のチャイムを鳴らし、あっさりと彼女が出てきたときにはかなり動揺した。
自分が何者であるかを告げるため持参していた5年生の時の臨海学校の集合写真が功を奏した。
その写真を見せた時、6年ほど昔の自分の姿を見て、「わたし髪ボサボサ」と言って彼女は明るく笑った。
なぜか無性に嬉しかった。
その後2人で喫茶店に入り、何かしらの昔話をし、また会いましょうと言って別れた。
実は彼女とはそれっきりとなった。
30年以上前のことだ。
なぜ彼女に再び連絡を入れることを僕はしなかったのだろう。
会話自体は悪い雰囲気ではなかったし、6年間忘れることのなかった彼女は期待していた通りの彼女になっていた。
思い出した。
彼女の友人が彼氏と別れたという話になった時のことだった。
「車も持っていて優しい彼氏だったのに」という彼女のセリフがじわりと僕のメンタルを揺さぶったのだ。
15才の当時の僕には、自分が車を持っていて女の子を助手席に乗せてドライブするという姿はおろか、カノジョを作るということも、全く想像することができなかった。
そんな友人がいる彼女が、何かとても遠い存在であるかのように急に思えてしまったのだ。
県下有数の進学校の生徒であるという自信のようなものは、どうも所詮その程度のものだったようである。
「西区美穂が丘」という住所で思い出した30年以上前に好きだった同級生のこと、彼女との再会の思い出。
4週間前とは違い、この日の雨がレインウェアに染みるように僕の心臓を切なくさせるのは、今の僕の弱い心がもたらしている片時だけの感傷なのだろうか。
雨の中準備したタックルには4分の1オンスのスピナーベイトが結ばれていた。
魚を釣ることを考えればライトリグがいい。
このルアーを選択したのは、本当に気分としかいいようがなかった。
カラーはコットンキャンディーと言われるピンク色だ。
お気に入りのカラーであるが、意図してそれを選んだのではない。
たまたまタックルボックスを開けると、取り出しやすい場所にそれがあっただけの話だ。
12年前にこのルアーで雨の中たくさんの魚を釣ったことを思い出した。
場所は滋賀県の西の湖だ。
当時所属していたフィッシングクラブの定例会だった。
あの日も今日くらいの雨が降っていた。
その時着用していたのは当時4万円くらいで買ったはずの、赤いシマノのレインウェアだった。
今着ているレインウェアの約10倍の値段だった。
結婚してからも何度か着用して釣りをしたのだが、ある日カビが生えただのなんだのという理由で、女房が勝手に捨ててしまった。
また思い出したくもないことを、僕は思い出してしまっていた。
藪を漕いで水面近くにたった時には、本当の土砂降りになっていた。
辛うじて安物のレインウェアは防水の機能を保っているものの、既に襟のあたりから雨が入り込み、僕の両方の肩は冷たさを含んだ重みを感じていた。
この調子で降り続ければあと一時間もしないうちに僕の上半身はずぶ濡れになるであろう。6月の雨は結構冷たかった。
程なくして全く期待していなかったそのルアーにバイトがあった。
合わせた瞬間、一瞬魚の重みが竿に乗ったが、タックルに比べてあまりに小さかったその魚は、僕の足元近くまですっ飛んできて、同時にその重みもなくなった。
ばれてしまったのだ。
ルアーを回収しようとリールを巻くと、ルアーそのものの抵抗までが軽くなっていた。
見るとスピナーベイトのスカートがなくなっていた。
恐らくはスカートを止めてあったゴムが劣化していて、魚のバイトとフィッキングの衝撃で耐えきれず切れたのだろう。
30年以上釣りをしているが、スカートが無くなったスピナーベイトの巻き抵抗が、こんなに軽くなるものだとは知らなかった。
スカートを失ったスピナーベイトのヘッドを僕はしげしげと眺める。
きれいなふわふわの毛並みだと思っていた子犬が、雨に濡れると驚くほど実は貧相だったと判るように、きらびやかなスカートを失ったスピナーベイトは、随分みすぼらしく印象を変えた。
そのヘッドにはたくさん傷が残っていた。
一カ所明らかに何かにぶつけたと思われる大きな深い傷があって、塗装の下の鉛の色がむき出しになっていた。
それ以外の傷は、細かいヤスリで擦られたような魚の歯形による傷だった。
そのほとんどは2004年についたものだろう。
12年前。僕が一番釣りにのめり込んでいた時期だ。
ふと、このルアーを購入したのは一体いつだったろうと考える。
その年2004年に僕は、一度ローカルトーナメントで優勝している。
そのトーナメントで、メインとして活躍したのがこのスピナーベイトで、ウィニングルアーとなったこのルアーに関してのうん蓄を、偉そうにも記事にして、クラブ誌で紹介したことを思い出した。
自身で「最近手に入りにくくなった」と書いた記憶が蘇った。
従って購入したのはその時点でも随分前であったはずだ。
今からなら20年以上前かも知れなかった。
いっこうに降り止まない雨の中、スカートを失いみすぼらしくなったスピナーベイトのヘッドを僕はしばらく見つめていた。
ふいに僕は得体のしれない不快感というか、怒りのようなものを覚え、スピナーベイトの結ばれているラインを歯で引き千切り、今も強く雨が叩きつけられている水面に向かって、スピナーベイトを放り投げた。
本当に衝動的な行動で、その感情の原因さえよく判らなかった。
全力で投げた訳でもなく、軽く投げた訳でもなかった。
数メートル先に着水したスピナーベイトの着水音は、叩き付ける雨音にかき消された。
これまで僕が大切にしていた何か。
釣り人として、フィールドでごみは出さないとか、道具は大切に扱うだとか、釣り人のモラルのようなもの、いや違う。
僕が僕でいることの理由、僕が僕であるための、その要素みたいなもの。
何かすごく大切ではあるが、うまく言葉にできない僕だけの何か。
そんなものが、雨の水面に消えた。
釣りを続けようとする意欲も消えた。
例えようのないいくつかの大事なものが、消えた。
すでにレインウェアは濡れた紙のようになり、その下に着ていたポロシャツの青色を、はっきりと映し出していた。
重たい足取りだった。
ぬかるみに足を取られるとそれだけで異常にむかつく。
腹立たしさは僕の判断力をも鈍らせ、濡れた木の根を踏んだ時、何度か転倒しそうになった。
もし転んででもいたら、到底自制できない感情の爆発となっていただろう。
神経がささくれ立っていた。
車の止めてある場所まであと十数メートルという距離だった。
ぬかるんだあぜ道をやっと抜け、雨に濡れたアスファルトを踏みしめた時、僕はふいに左足の長靴の中に生じた違和感に気が付いた。
何か固いものが左の長靴の底付近に存在した。
長靴を脱いでそれが何か確認した。
それはなんと僕の車のキーだった。
普段僕は車のキーはズボンの左側のポケットに入れることにしている。
今日は同じポケットにはたばことライターが同居していた。
普段は上着のポケットが、たばことライターの定位置なのだが、大粒の雨の中、いくらかましだろうと、ズボン側のほうに収納していたのだ。
何度かたばこを取り出した際に、キーがポケットから転がり、偶然長靴の中に入ったに違いなかった。
もしそのまま草むらにでも落ちていたら、どれほど悲惨なことになっていただろうか。
JAFを呼ぶ羽目になり、車を自宅に届けることはできても、その費用の請求によって、僕が仕事ではなく、釣りをしていたことが女房の知るところとなるだろう。
ヒステリックに彼女は騒ぎ立て、それに僕は逆切れ、一週間は口を聞かずのいつものパターンとなっただろう。
僕はいつから長靴の中に入っていたか知らない車のキーを、近く手放すことになる愛車のキーを眺めていた。
もしこの時、有り得ないことだが、このキーが、「手放さないで」などと呟いたとしたなら、僕は涙をこぼしたかも知れなかった。
つい数分前、スピナーベイトのヘッドを見つめていた時とは少し違った感情になっていた。
ささくれ立っていた感情が僅かに和らいでいることに気付いた。
空を見上げると、雨もいくらか小降りとなっていた。
もう少し釣りをしてもいい気分になっていた。
どんなに小さくてもいいので、一匹だけ魚を捕って帰ろうという思いになっていた。
そして僕は、今日メインに使用しようと考えていたライトタックルの準備に取り掛かっていた。
6月18日
雨の中、僕が捨てたもの。
12年以上タックルボックスの中に佇み、これまで数十匹の魚と、たった一度のトーナント優勝という思い出を僕に与えてくれたスピナーベイト。
30年以上も昔の、尾下友子さんという好きだった女の子との切ない思い出。
雨の中、僕が捨てる決心をしたもの。
6年間大事に乗り続けた赤い愛車。
自己嫌悪にまみれていた、だらしない昨日までの自分。
雨の中、僕が拾ったもの。
長靴の中に転がった小さな幸運。
ライトリグで釣り上げた30cmくらいの魚。
一匹だけでもいいから魚を釣ろうと思える明日。