第三十九夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(4)
終わりません。
僕の報告に対して、巡査は無愛想な表情をそのままに、(分った)とだけ短く言った。
四ツ池に出没する不審者との通報のあった少年を見つけ、名前と住所、そして連絡先まで聞き取ってきたのだから、その僕の成果に文句のつけようが、残念ながらなかったのだろう。
彼がN中学の生徒であることが判明したことで、(大きな問題に進展することはないだろう)との思いも働いただろうか。
今の時代、いわゆるエリートと呼ばれていた人達が、異質な犯罪事件を引き起こし、世を驚かせることは少なくないが、巡査のような年代の輩には、学歴に対してある種の崇拝が今も存在するのかも知れない。
席に戻る僕に、(お疲れさん)との同僚の声が小さく届く。どこか安堵の色が滲んでいる。
彼らにとっても、この狭い署内で、巡査の怒号が唸るのは、決して気分のよいものでは無かったのかも知れない。
僕のこの報告だが、彼の目的については、(池の周辺に咲いている植物の観察らしい)という説明をした。それが本当の目的ではないことは、僕自身も勘づいている訳だが、こう説明するのが一番納得しやすいだろうという打算による報告である。
しかし、結局彼の目的が何であるのか、その答えには、僕自身至ってはいない。
その事を知りたいという思いも無くはないが、それを知ることに意味があるのかと自問すると、結局は(ない)という結論に達する。
なぜなら彼が決して罪を犯すような人物でないことに、僕は確信を持っているからだ。
犯罪を起こす可能性がない人間の行動は、例えどんなに興味があろうと、それは飽くまで個人的興味の範疇にあり、警察官の干渉の外であるべきなのだ。
ふと、あの巨大な黒い魚の事が頭に浮かんだが、だからどうしたという感覚で、暫しの間に、僕の脳裏から消えてなくなった。
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「40センチオーバー3本よ。やっぱ秋は巻物だよな~」
「その池なら、ここから車でほんの30分じゃない?今度俺も行こうかな」
そんな同僚2人の如何にも楽し気な会話が聞こえてきた。
西川と原田の釣り好きは署内でも周知のことだが、あまり2人と、まあ2人に限らずだが、他と会話することが少ない僕は、今の今までてっきり彼らは海釣りに行っているのだろうと考えていた。この署から、ものの3キロメートルも南下すれば、そこは瀬戸内海の漁港なのである。2人の話を聞いていた女子社員が2人に声を掛ける。
「池なんかに何を釣りに行くの?フナとか?」
たっぷりと日焼けした背の高い西川の方が答える。
「バスだよ、バス。ルアーフィッシングさ。今度木戸も来るかい?餌とか使わないから女の子でも抵抗がないよ。釣りしてる女の子も最近はよく見かけるし」
「いわゆる釣りガールってやつ?全く興味ない~」
巡査のいない署内では、いつも若い警官達の会話がひときわ弾む。
もうとっくに昼休みは終わっているのだが、巡査のいないこの日は、昼休みの流れそのままの雰囲気で、1時をたっぷりと過ぎても、こんな会話が今も続いている。
中堅警察官の一人が、そのことを指摘すると、
「警察官なんて暇な方がいいに決まってるじゃないですか」
そう原田が言ったのである。言い得て妙、確かにその通りではある。
滅多に人に話しかけることをせず、止む無き場合のみ、必要最小限の言葉を発するという立ち位置が、この署内での僕のありさまだ。そんな僕が、西川と原田に声を掛けるのには、多少の勇気が必要だった。しかしこの時、僕の抱いていた好奇心はそのちょっとした障害を、いとも簡単に乗り越えた。
「そのバスっていうのはブラックバスのこと?」
話しかけられた2人が、(えっ?)という怪訝な顔をする。
2人は、(何か起こっている?)という様な表情で、一瞬見つめ合った。
決して好かれてはいないだろう。それは理解している。しかし、僕を無視する積極的な理由も彼らにはないはずだ。彼らにとって、僕という存在は、毒にも薬にもならない、そんなところのものだろうから。仕方なくという感じで西川が答える。
「ああ、そうだよ。ブラックバスのことだよ」
「その40センチっていうのは、ブラックバスとしては大きいの?」
いよいよ西川も原田も、(水谷、一体どうした?)という顔になる。
「まあデカい奴は50センチを超えるのもいるけど・・・ここらじゃあ、マックス45センチってとこかな。何だよ、水谷もバス釣りに興味があるのか?」
「いや、そう言うわけじゃないけど・・・」
ここで僕の言葉は打ち止めである。
必然というか当然というか、(何だよ、こいつ)みたいな白々しい空気が漂ったが、僕の意識はもうそんな些事に向く状態ではなかった。
45センチでマックス?僕の見たあの黒い影はそれどころの大きさじゃなかった。
中学生のあの彼、確か、そう加藤君は、間違いなくブラックバスだと言い切った。聡明な彼が、こんなことを間違うとは思えない。
嘘をついたのか?いや、彼にとってそんな嘘をつく理由がない。いや、待て。彼は確かに言ったはずだ。今日みたことは内緒にして欲しいと。隠し事、いや隠したい事はあるのだろう。でも、もし彼の言ったことが本当なら・・・最低でも60センチ・・・確か、そう言ったはずだ。でも西川の話なら60センチを超えるブラックバスなんて考えられないことになる。それならあの魚は一体・・・
僕の質問がきっかけとなって発生した白けた空気が、何やら皆の昼休み気分を萎ませたようで、いつの間にか各々自分の席につき、事務仕事に取り掛かっていた。電話一つない静けさが所内に戻っていた。
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1週間前、初めて彼と会ったあの日とは対照的な秋晴れの夕暮れ時。
空には痩せ細った三日月が、ぼんやりと白く浮いていた。
固い藪を掻き分け、四ツ池の辺に歩を進める。
付近の巡回を口実に、こうして僕はまたこの池に来てしまったのだ。
理由は、そう、あの巨大な影をもう一度見るためだ。それを見てどうしようという考えがある訳ではない。只々その異形の巨体を単純にもう一度見てみたい、言葉にすればこんなところとなるのだが、それだけとは言えないこの願望の意味を、自分でも測りかねていた。
高くはない土手を、靴を汚しながら這い上り、辿り着いた水面に目をやると、あの日と同じ様に、護岸で休んでいたアカミミガメが数匹、慌てて池に飛び込んだ。
辺りに人気はまるでない。水の色は深い緑色。雨にかき混ぜられていたあの時の色とは、本当に同じ池なのかと思ってしまうほど、その様相は風情を異にしていた。
西から吹き付ける風が、水面に等間隔の縞模様を作り出す。小さな波が護岸に届き、白い泡となっては次の波を誘っている。
名も知らぬ小さな花々を、あの少年は(綺麗でしょ、それなりに)、そんな言葉で愛でた。何か含みのあった彼の言葉ではあるが、なるほど確かに綺麗だ。
頬を撫でるひんやりとした風も心地よく、いつ以来だろうと思える程に心が静まる。
本当に彼は、ここでこの様に、この街中にあって奇跡のように存在する小さなオアシスに身を委ねるだけのために、ここに居たのかも知れない。そう考えることが、今は不思議でも何でもない。
西の空に沈みつつある夕日を見ながら、そのことが少しずつ確信に変わっていく。
急激に、この池を訪れた意味が、自分でも曖昧になってきた。
(そうか)
やっぱり僕は、彼がこの池で佇む本当の目的を、心のどこかで知りたいと願っていたのだ。
ふっと思わず自嘲的な笑みが浮かぶ。本来警察官としては持ってはならない感情であるべきなのだ。何かを諦めようと決心したときに起こる独特の喪失感に僕は包まれる。
(そろそろ帰るか)
そう思った時だった。
(ガサッ)
自分の左手側の藪が動く音がそのように聞こえた。音の方向に視線を向ける。
「おや~、奇遇ですね。お巡りさん」
N中学の彼、学生服姿の加藤君が、爽やかな笑顔を湛えてすらりと立っていた。




