第三十六夜:岩魚の紡ぐ(了)
娘の未来に幸あれ
以下、述べることはあまりない。
ヘッドライトが照射する狭い範囲の灯り以外、完全な闇が支配するテントの中、2匹ずつのイワナをメインディッシュとした夕食を、僕達二人は取った。
夕暮れと共に、一気に室温が下がったテントの中での、暖かい食事の美味さが、僕達の言葉を奪ったのか、それとも深過ぎる闇が2人を無口にさせるのか。この上なく静かな、しかし満ち足りた夕食だった。
清流の水が海に向かって歩む、永劫に続く営みの音の中、テントを出て並んで歯を磨いた。
頭上高くから押し付けてくる星々の光を見上げながら、僕は煙草に火を点ける。冷たい空気が、煙を真横に運んでいく。
この間も2人はただただ無口。言葉を発することで、大切な何かを取り逃しそうな気がするのである。
することも出来ることも見当たらず、そろそろ毛布に包まろうかと、腕時計のバックライトを点灯させる。時間はまだ20時を回っていなかった。そのことを娘に告げると、日頃の生活時間とのギャップに、彼女も思わず苦笑する。
それでも朝も早かった事だしと、2人毛布に潜り込むことに決める。
ヘッドライトを同時に消すや、一瞬にして僕達を覆ったのは、闇すらを超えて、それは正に無。時間という概念も、天地の感覚も、そこには存在しない。
五感を手放してしまったように、闇の虚空に身を委ねる。
娘との会話は、それほど長く続かなかった。
僕が時計のアラームを3時にセットしたこと。
学校の成績があまり良くないことを、意外にも娘は気にしていたこと。
ボーイフレンドはいないが、気になるクラスメートはいること。
その娘の告白に、それほど興味無さげに、(ああ、そう)と、僕が返事したこと。
(煙草、止めた方がいいよ)と、女房の口癖と同じことを、娘が言ったこと。
残った2匹のイワナは、女房が返ってくる明後日の夕食にと、娘が考えている事。
きめの細かいウールのような、黒い無数の粒子の中に、全身がゆっくりと底まで沈んでいく。そんな虚脱感は、僕達の会話が途切れるや否や、瞬く間にやってきた。ひんやりと冷たく、同時にとても暖かい。
「お父さん」
「んっ?」
また(ありがとう)と言ってくれるのかと暫し待った。
(何でもない)と娘。
「ぴ~」
「なに?」
(大人になったね)
そう言おうとして、僕は何故か、違うニュアンスと取られかねない言葉を口にした。
「きれいになったね」
僅かな沈黙。
僕と反対側に寝返りを打ちながら、娘が言った。
「スケベ」
本気とも冗談ともつかないその娘の言葉が、僕達親子の、この日最後の会話となった。
静々と聞こえる川のせせらぎを子守歌に、抗うすべもなく、僕は意識をゆっくりと手放した。




