表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百夜釣友  作者: 柳キョウ
36/101

第三十六夜:岩魚の紡ぐ(了)

娘の未来に幸あれ

以下、述べることはあまりない。


ヘッドライトが照射する狭い範囲の灯り以外、完全な闇が支配するテントの中、2匹ずつのイワナをメインディッシュとした夕食を、僕達二人は取った。

夕暮れと共に、一気に室温が下がったテントの中での、暖かい食事の美味さが、僕達の言葉を奪ったのか、それとも深過ぎる闇が2人を無口にさせるのか。この上なく静かな、しかし満ち足りた夕食だった。


清流の水が海に向かって歩む、永劫に続く営みの音の中、テントを出て並んで歯を磨いた。

頭上高くから押し付けてくる星々の光を見上げながら、僕は煙草に火を点ける。冷たい空気が、煙を真横に運んでいく。

この間も2人はただただ無口。言葉を発することで、大切な何かを取り逃しそうな気がするのである。


することも出来ることも見当たらず、そろそろ毛布に包まろうかと、腕時計のバックライトを点灯させる。時間はまだ20時を回っていなかった。そのことを娘に告げると、日頃の生活時間とのギャップに、彼女も思わず苦笑する。


それでも朝も早かった事だしと、2人毛布に潜り込むことに決める。

ヘッドライトを同時に消すや、一瞬にして僕達を覆ったのは、闇すらを超えて、それは正に無。時間という概念も、天地の感覚も、そこには存在しない。

五感を手放してしまったように、闇の虚空に身を委ねる。


娘との会話は、それほど長く続かなかった。


僕が時計のアラームを3時にセットしたこと。


学校の成績があまり良くないことを、意外にも娘は気にしていたこと。


ボーイフレンドはいないが、気になるクラスメートはいること。


その娘の告白に、それほど興味無さげに、(ああ、そう)と、僕が返事したこと。


(煙草、止めた方がいいよ)と、女房の口癖と同じことを、娘が言ったこと。


残った2匹のイワナは、女房が返ってくる明後日の夕食にと、娘が考えている事。


きめの細かいウールのような、黒い無数の粒子の中に、全身がゆっくりと底まで沈んでいく。そんな虚脱感は、僕達の会話が途切れるや否や、瞬く間にやってきた。ひんやりと冷たく、同時にとても暖かい。


「お父さん」


「んっ?」


また(ありがとう)と言ってくれるのかと暫し待った。


(何でもない)と娘。


「ぴ~」


「なに?」


(大人になったね)


そう言おうとして、僕は何故か、違うニュアンスと取られかねない言葉を口にした。


「きれいになったね」


僅かな沈黙。


僕と反対側に寝返りを打ちながら、娘が言った。


「スケベ」


本気とも冗談ともつかないその娘の言葉が、僕達親子の、この日最後の会話となった。

静々と聞こえる川のせせらぎを子守歌に、抗うすべもなく、僕は意識をゆっくりと手放した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ