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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第三十五夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(3)

神戸港に今年もサバがやってきました。

缶詰にしたら当分の食料になるだろうに、それでも食料問題が解決しないのは何故?

その黒い影は、間違いなく魚だった。

影の異様な丸さ。こんな形の魚が日本にいたのか。それが僕の最初の驚きだった。

少年はそのことに、全く驚いている素振りがない。

そう、この少年は知っていたのだ。この丸い巨大な影を作る魚が、こんな小さなため池に人知れず生息していたことを。


この土砂降りと言える天候の中、ぬかるんだため池の辺に、傘一つを持って何をするでもなく立っている。少年の奇妙なその行動が、その巨大な魚の存在と関係がない訳がない。直感的に僕はそう考えた。


悠々と、本当に(悠々と)という表現しか、相応しい表現が見当たらない緩やかな動きで、この巨大な黒い影は沖合方向に向きを変え、雨が作った酷いミルクコーヒーの様な濁りの中にゆっくりと消えていった。


何故だか口にしていいかどうか迷ってしまった純粋な感動を、やっとの思いで僕は言葉にする。


「でっかい魚だったねぇ、50センチくらいあったんじゃない?」


これまで動物や植物になど全く興味が無かった僕が、覚えず興奮していた。


「50センチどころか、最低でも60、もしかしたら65」


相変らず涼しく落ち着いた様子で少年は答える。


「あれ、なんていう魚なの?」


「ラージマウスバス。でもブラックバスと呼ぶ方が、一般的には通りはいいかな」


(あっ!)


その名を聞いてピンとくる。確かアメリカかどこかから持って来られた外来種で、他の魚を根こそぎ食べてしまうという、そんな悪者の魚という印象がある。ずいぶん昔、中学生の頃だったか、クラスメートの誰かが、その魚を釣っただとか釣らないだとか、そんな話もあったような記憶が確かにある。

駆除すべきだとかどうとか、そんな機論もそれ程遠くない過去にあったと記憶している。

確か、場所は滋賀県の琵琶湖だったように思う。

でもどうして駆除するって話になったのか、その理由を僕は思い出せない。

いや、そもそも知らない。でもきっと他の魚を食べてしまうからなのだろう。そうなのだろう。


「ブラックバスって、あの~ほら、他の魚を食べてしまう奴でしょ?」


深く思慮した訳ではないそんなセリフ。口にしてから僕の背中に、強烈な悪寒が走った。それは襟首や袖口から入ってきた雨の冷たさだけが原因ではなかった。

そう、僕は見逃さなかったのだ。僕がその言葉を発した時、涼しかった少年の端正な顔が、憎々し気な嫌悪を、ほんの一瞬発したことを。


少年は、何か言葉を出そうとして、踏みとどまる。そして視線を下げる。

次の言葉を慎重に選択しているのだろうか。何かを決めたように顔を上げる。


「食べてしまうってどういう意味でしょう?」


(えっ?)


少年の問いかけの意味が全く理解できない。少なくとも僕の発した言葉への同意ではなさそうだ。なんだろう、そう、敵意、そんな感情が、やはり含まれている。初めは取っつき難く、小生意気だと思っていた少年が、少しだけ態度を軟化してくれたため、話やすくなったと感じた矢先だった。だから余計に僕は戸惑った。


「あの~~」


この(あの~~)は、次に言葉を繋げるための前振りではない。次の言葉なんか出てこない。これは少年の言葉を待つための只の時間稼ぎだ。少年は言う。


「お巡りさん、昨日の晩御飯は、何食べました?」


(えっ?)


いよいよ僕は少年の質問の意図が全く判らなくなる。だから、単純に、正直に、表からこの質問に答えるしかできることはなかった。


「昨日の晩は…確かコンビニの唐揚げ弁当だったと思う」


言ってしまってから、自分が独身であることや、もしかしたら女友達の一人もいないことすら、利発であろうこの少年にはバレてしまったかも知れない。

それはしょうがないとして、自分が職場で少し浮いた存在であることを、この少年に悟られるのが、何だかとても嫌な気がした。さすがにそこまでは、このやり取りだけでは判らないだろうが。


それにしても、少年がどうしてこれほどあからさまな敵意を示すのか、僕にはよく判らない。何だか不条理なものを感じる。


(どうしてそんなことを聞くの?)とでも問えば良かったのかも知れない。

でも僕はひたすら話を聞く側に回る。少年の真意を、ただ僕は知りたくなったのだ。


「そうですか、唐揚げを食べてしまった訳ですか。なるほど、僕も今日お昼に、牛丼を、(食べてしまった)んですがね」


(食べた)と(食べてしまった)。このニュアンスの違い。

微妙なようで限りなく大きな乖離が、少年の中にはあるようで、それは、どうも僕が理解できる類のものではなさそうだ。でもそれを知らなければ、今少年がその眼に宿す、小さくされど強い嫌悪の本質が判らないだろう。


僕は考える。少年の気を損ねる意図など、全く僕にはなかった。

ならば短刀の切っ先のように尖った少年の視線は一体・・・


「あの、僕、何か気に障ること言ったかな?ごめん、そんな気は全くなかったんだけど」


僕は意外にすんなりと、この自分より遥かに年下の少年に対して素直になれた。だって本当に判らないのだから。駆け引きなどできようはずもない。


「いいですよ、別に・・・気は悪くしましたけど、その理由を説明したところで、きっとお巡りさんには判らない。そしてお巡りさんだけでなく、世の中の大多数の人達にもね」

そう吐き捨てるように言うと、


(じゃあ)


とでも言うように、少年は僕に背を向けて歩き出した。がっ、すぐに振り返り、


「さっきも言いましたけど、今日見たこと、できれは内緒にして下さいね。ああ、それから・・・」


僕は相槌すら返すことができない。この少年の眼には何だか奇妙な威圧感があり、僕はただ圧倒されている。


「もし、他の命を喰らわず、生きていける生物がこの世にもし在るなら、教えて欲しい」


そう言った少年の顔は、数舜前の険しさが潜まり、端正でそして爽やかだった。


(あの~~~)


遠ざかっていく少年の背中に声を掛けようとした。

僅かに空気の流れを作ったのみの、声にならなかった僕の声は、今も降り続く雨の音にかき消され、消えてなくなった。


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