第三十四夜:岩魚の紡ぐ(8)
あの感動の夜を語れない表現力の無さに呆れています。
「空間把握能力に問題があるのかも・・・」
やたら難解な言葉を使い、遅遅として進まない僕のテント設営を、娘はそのように表現した。言われてみてドキッとする。
確かによく家の柱で、足の小指を強打する。以前はよく車庫入れの時、ミラーを擦ったものだ。今でも方向音痴の酷さは、時に同乗者を驚愕させる。
「だいたい大黒柱になるはずのポールが、他のものより短い訳がないじゃない」
まずは僕だけでフレームの組立に取り掛かったのであるが、それは全く無駄というか、むしろ余計な作業だった訳である。
僕がフレーム組みに取り掛かったその時、娘はこんがりとコンロで焼き上げた2匹のイワナを、漁協事務所の老夫婦のところへ届けに出ていた。このイワナの塩焼きが、今朝方貰った毛鉤に対しての僕達のお礼の印なのだ。
「すごく喜んでくれたよ」
帰ってきた娘は嬉しそうだった。お返しにと4本の缶コーヒーを頂戴したらしい。全て微糖味で、僕の好みにマッチする。テントが組み上がったら、まずは湯を沸かし、この缶コーヒーを温めて飲むのが、いまいまの僕の楽しみなのである。
3月の夜は駆け足でやってきた。
夕暮れまでにと余裕をもって臨んだはずのテント設営であったが、僕がもたもたしている間にも、無慈悲に日は西の山々に姿を隠そうとしている。僅かに空に残っている刷毛一振りで書いたような朱色が、完全に消えてなくなるのも間もなくだ。
「ふう、やっとあとはシート被せるだけだね」
僕の手筈のまずさに呆れ顔だった娘がそう言った時には、僕のレインウェアの下は、袖口から水滴が落ちる程にたっぷりと汗ばんでいた。手伝ってくれたというより、ほぼ主力だった娘の額にも、丸く汗の玉が浮いている。
ようやくシートが張られたテントに2人潜り込み、コンロに火を入れ、お湯を作る作業に取り掛かる。たったこれだけで、狭いテント内の温度がさらに上昇した気がする。それでなくとも2人とも、重労働で体が火照っているのである。
堪えきれず僕はレインウェア上下を脱ぎ、トレーナー姿になる。それでもまだ暑い。
これも脱ぎ捨てTシャツ一枚となると、やっとひんやり心地よい塩梅となった。
その僕の姿と表情を見るや、娘も同じ様にTシャツ一枚の恰好となったが、白いシャツを内側から押し上げている立派な女性らしい膨らみに、もう僕は驚かない。
「一酸化炭素中毒の心配はないかな?」
そういって娘が、テントの入り口を大きく広げる。一気にテント内に割り込んできた夜気が涼しく、とてもいい気分。娘も同じ心持ちだったようで、(お風呂上りの扇風機みたい)という独特の言い回しで、その心地よさを表現した。
小柄な2人には、その3人用テントの居住スペースは十分で、今になってむくみを感じ始めた両足を、僕は行儀悪く前へ投げ出す。
早朝7時頃から釣りを始め、一度も腰を落とすことなく釣りを続けていたのである。
若い娘はともかく、僕の両足にはたっぷりとした疲労が蓄積しているはずだ。
好きな釣りをやっている間は、この事に気付かず、これまでに何度、翌日の仕事に悪影響を及ぼしたことか。釣りキチの悲しい性である。
コンロの上の鍋の水面に、小さな数え切れない気泡が現れ始めた頃、レトルトご飯2パックと、缶コーヒー2缶を湯に放り込む。
水温が下がったのか、表面の水泡が見る間に消えてなくなる。完全に鍋の容積とコンロの火力の両方が不足している。
これでは最後にイワナを焼き上げ、夕食が出来上がるまで、まだまだたっぷりとした時間がかかることだろう。
数分間2人無言で湯が沸くのを待つ。いや、沸騰してしまっては熱くて缶が持てないので、早々と鍋からコーヒーを僕は取り出す。熱いと感じずに掌で持てる温度。中のコーヒー自体は少し温かろうが、あまり僕はそんなことを気にしない。
僕がプルタブに手を掛けると、(じゃあ私も)というように、娘も一缶取り上げた。
缶コーヒーでの親子無言の乾杯。これは贅沢な時間だ。
やはり少し温いと感じるコーヒーが食道を流れていく。
喉が渇いていたので、これくらいの温度がちょうどいい。
普段は甘すぎると感じる微糖の缶コーヒーが、何故だか今日はやけに美味い。
どちらかと言うと紅茶派の娘であるが、いまコーヒーを飲むその顔は満足そうだ。
瞬く間に180ミリ缶を飲み干してしまった僕。
(ご飯はあとどれくらいで炊けるのかな?)との僕の問いに、(沸騰したお湯で3分と書いてあった)と答える娘。それならもう間もなくだ。下処理を済ませていたイワナを、車まで取りに行こうと、僕はテントを出る。
(うぁっ)
空を見上げて僕は言葉を失う。満天の星空。
午前中に降った霧雨が、大気中の不純物を地に落としたのだろうか。押しつぶされそうになるほどの星々の発する圧力。
「ぴ~、ちょっと出ておいで。空、綺麗だよ」
テントから這い出してきた娘が僕の横に立つ。
「星の数ほど星があることを実感できるね」
ぽつりと呟いた娘の、いちいち捻りのあるコメント力に関心しながら、僕達2人はそのまましばらく、あまりにも近く感じる星々の光を見上げていた。
そうそう、念願のイワナを食した娘の感想も書き足しておこう。
(きめの細やかな肉質は、海の魚のそれと比較すべきものではない。弾力がありながら、ざっくりと歯の通る固柔らかさを楽しむのが海の魚の醍醐味。
絹ごし豆腐のような優しい舌触りと、微かに鼻に抜けていく細かい脂の風味が、このイワナの美味しさの本領。アクセントとなるのが、薄いが張りのある皮の食感。いずれにせよ、その全てが繊細で、この風味と旨みを、塩以外の薬味で塗りつぶしてしまうのは、ほとんど犯罪)
Tシャツ姿の僕達二人は、すぐに3月の夜気に冷たさを覚え、どちらからともなくテントに戻る。鍋の湯はぐらぐらと煮えていた。レトルトご飯が、鍋の中でゆっくりと泳いでいる。(もういいんじゃない)と娘がご飯を取り出す。指先で袋を突き、その固さを確かめ、(うん、いけそう)と娘。
さてこれからイワナの調理なのだが、これがなかなかに時間のかかる作業であることは、お昼ご飯の時に経験している。テントが組み上がった頃は、それほど空腹感を感じていなかったのだが、煮えていくご飯を見たせいか、急にお腹が空いてきた。
魚が釣れなかった時の保険として、コンビーフか何かの缶詰も、確か持ってきていたはずだ。そこで僕は娘に提案する。
「まずはご飯と缶詰をお腹に入れて、後でゆっくりイワナ焼いて食べない?」
(う~~ん)、という顔をして娘が返す。
「イワナがデザートってのもどうかな。ぴ~はやっぱり焼き魚定食を食べたい」
敢え無く僕の提案は却下。仕方なくコンロを外に運び、イワナを焼く準備に取り掛かる。
さすがにテントの中で、魚を焼くのはまずいだろう。
夕方になってから多少強まった風がコンロの熱を奪っていく。これはいつ焼き上がることか知れたものでない。と、その時テントの中から僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ん?まだまだ時間かかるよ」
「分ってる。だから魚が焼き上がるまでに、このお湯使って、体拭かない?大分汗かいちゃったし。タオルとかあるよね」
それはいい考えだ。車の中には、馴染みのスーパー銭湯の販売タオルが、山ほど入っている。明日は晴れるという予報だし、これだけの星空である。夜が更けるにつれ、放射冷却現象で気温がぐっと下がるだろう。本格的に体が冷える前に一日の汗を拭き取るとしよう。
先ほどまでレトルトご飯を温めていたお湯が、まだもうもうと湯気を上げている。このお湯にタオルを浸し、(あちちっ)などと言いながら、力の限り両手で絞って水気を切る。
固く絞り切って棒状になったタオルを、(はいよ)と娘に差し出す。そして自分の分も・・・(おっ?)
僕の視線を気にするでもなく、娘が一気に着ていたTシャツをたくし上げる。
上半身小さな下着一枚となった娘の姿に、思わず僕は背を向ける。
「ちょっと、そんなあからさまに目を逸らされると、逆に恥ずかしい」
(あっ、はいはい)と娘に向き直る僕。
「だからと言ってジロジロ見ろとも言ってない」
一体どうしろというのだ。すっかり困り果ててしまう僕。13才、なかなかに微妙なお年頃。
「まあ、これが最後に見る娘のヌードだ。この際、ありがたく見ておきなさい」
そんなませた言葉を口にして、左腕から汗を拭き始めた娘の下着姿は、それはもう僕の想像を超えて、彼女の成熟を示すものだった。
やっとコンロの上のイワナ4匹をひっくり返した時、星空を見上げながら娘が言う。
「あの星って、地球からどれくらい離れてるのかな?」
「それはきっと、何百光年って距離だと思うよ」
「コウネンって?」
「光の速度で1年かかる距離が1光年」
「光の速度ってどのくらい速いの?」
「一秒間で地球7周半。光の速度より速いものはこの世に無いんだよ」
「それは光の速度を超えるものが、この世にないってこと?」
「そう、そう言うこと、正解」
「それはどうしてなの?空気抵抗とかがあるから?」
「う~~ん、少し違う」
「どう違うの?」
さて、13才の娘を相手にどう説明したものか、僕は少し悩む。
先ほど見た下着姿もそうだが、もう娘を子供扱いすることは、これは彼女の成長に対して失礼というものだろう。多少、娘には難しかろうとも、僕は精一杯真面目に答えることを決める。
「重たいものの方が、軽いものと比較して、加速しにくいのは何となく判るでしょ。例えば車でも、同じパワーのエンジンだったら、重たい車の方が加速に時間がかかるよね」
「あっ、うん、それは判る」
「物体ってさぁ、光の速度に近くなればなるほど、その重量、正確には質量が限りなく重くなっていくんだよ」
「えっ、よく判らない。どういうこと?」
「うん、判らないと思う。例えば、ぴ~の体重が今50キロとするでしょ」
「うん、そんなには無いけど、まあいい」
「でっ、ぴ~が、ものすごい速度で走りだしたら、どんどん体重が重くなっていって、光の速度に近くなったら、体重が無限大に近くなる。無限大になってしまうと、もうそれ以上は加速できないから、つまり光の速度は超えられないってことになる」
「う~~ん、ちょっと難しくてよく判らないけど」
「うん、判らないよね、感覚では。それだけ光の速度ってのは、人の日常感覚では理解できないほど異常な世界ってことかな」
「ふ~ん」
「もう一つ言うとね、ぴ~はタイムマシーンって未来にはできると思う?」
「う~ん、正直できないと思う。SF映画の世界かな、タイムマシーンなんて」
「結論から言うとね、未来に行くタイムマシーンを作るのは理論上簡単なのよ。でも過去にいくタイムマシーンは、理論上絶対にできないってことが解っている」
「えっ?未来には行けるの?」
「うん、飽くまでも理論上はね。すごく簡単。限りなく光の速度に近い乗り物に乗れば、未来に行ける。でっ、光の速度を超える乗り物があれば、過去にも行けることになるんだけど、さっきも言ったように、光の速度になったものは、もう加速できないから、それは絶対無理ってことになる」
なんでこんな話になったのかと思いながら、僕の(相対性理論)講座はしばらく続いた。
それほど退屈はしていなさそうな娘の表情。いや、それは僕の思い込みかも知れない。
少し軽い口を閉じ、聞き手に回ってみよう。
「あのさぁ~、ぴ~、学校の成績、あんまり良くないじゃない?」
(そうだね)とも言えず、黙って次の娘の言葉を待つ僕。
「それって、お父さん、気になる?」
「いや、あんまり」
言ってしまってからちょいと後悔したが、まあ本音だから仕方ない。
「どうして気にならないの?」
「お父さんの会社でも、学歴は大したことないけど、すごく優秀って人は沢山いるし、高校までの学校の勉強なんて、所詮社会に出る時のためのトレーニングみたいなものだから。ぴ~がやりたいことが見つかった時、そのために何を勉強すればいいか自分で考えて、その時に一生懸命勉強すればいい。でも全く勉強しなかった人間は、勉強の仕方すら判らないってことになりかねないから、そこは気にしたほうがいい」
「ふ~~ん、じゃあ、たった一つ、これだけは勉強した方がいいよって教科、ある?」
「どうだろ、英語かな」
「えっ、それはどうして?」
どうしてだろう?安直に答え過ぎたか。自分でもよく判らないが・・・(可能性が広がると思う)とか当たり障りのない答え方を僕はした。(じゃあ、英語、勉強する)なんて言葉は、娘は決して言わない。
代わりに・・・
「お父さん、疲れたでしょ。車の運転も長かったし、ぴ~が魚焼いてるから、少しテントで休みなよ」
僕としては、今しばらく、この取り留めない娘との会話を続けたいと思う。
仕事が忙しいとか何とかを言い訳に、これまで娘の教育というか、彼女に纏わる全てのことを女房に任せ切りだった僕なのである。
聞いていられないと、これまで逃げ回ってきた女房と娘の喧嘩も、娘の成長に欠くことのできない通過儀式であったのだろう。そして、僕の予想を遥かに超える成長を、娘はこの度見せてくれた。
そんな無責任この上なかった僕が、軽はずみに適当なことを思い付きで口にしても、娘の将来にいい影響ばかりを与えるとも限らない。
娘の顔は、妙に真剣で、何やら一人で考え事をしたいと訴えているようにも感じる。それなら・・・
「じゃあ、お言葉に甘えるとするかな。その恰好で大丈夫?寒くない?」
未だにTシャツ姿の娘に、そう言う。
「うん、大丈夫」
(そう)、そう言って僕はテントの入り口に手を掛ける。
「あっ、それから、お父さん・・・」
「んっ、何?」
「・・・ありがとうね」
そう言った娘に振り返り、見つめ合ったのは時間にしてきっと2~3秒。
何か鼻の奥の方から暖かいものが押し出されて、じんと目の真ん中が熱く膨れそうになる。
予想もしていなかったタイミングでの、単純にして、されど最高の、娘から貰った労いの言葉。何と返事をすればいいものか・・・まずい、零れる。
(じゃあ、イワナ焼けたら声掛けて)
声を震わさないように、そう言った後、テントに僕は潜り込む。
入口は開け放したまま、テントの中央付近で、ごろんと横になる。
ちょうど3週間前の週末、こんな風に家で横になっている時に、今回のイワナ釣りの話になったのだったなと思い出す。
本当に来て良かったと、しみじみと思う。これ程までに娘の成長を実感できようとは。
見上げる天井部分のシートに、人の掌くらいの大きさの茶色い染みが浮いていた。
(誰がどこで、いつ何を付けてできた染みなのだろう)
前の持ち主も親子でそんな会話をしたことがあるのだろうか。
その子達は、今いくつになって、どこで何をしているのだろう。
そんなことが、何だかとてもとても気になった。