第三十三夜:死に向かって歩む
故有馬氏に捧ぐ
帰社途中、JR赤穂線の車内で、(死に向かって歩む)という言葉が、不意に浮かんだ。
確か、あの大石内蔵助の言葉だったはず。もちろん赤穂線の赤穂は、赤穂浪士の赤穂である。その言葉を知った頃は、大して私の心に響くものではなかったはずだ。
それでも今になって、記憶の奥底に眠っていたその言葉を思い出した理由が、実はもう一つ。
その日、ある取引先の担当者との会話。
「○○さんは、失礼ながら、いくつになるのですか?」
「いや~、恐ろしいことに、今年ついに50才になります」
そんな会話をした折に、49才の若さで亡くなったある釣り仲間だった人物のことを思い出したのである。
私と同じバス釣りクラブに所属していたA氏が無くなったのは、14年前の暑い夏の日。
その前年、同クラブに私が入会した時、氏は副会長の立場にあった。
氏とは約半年間、仲間内でクラブカップと呼んでいた会員同士の釣り大会で、腕を競ったのであるが、私が入会1年目でクラブチャンピオンとなったのに対して、氏の成績は振るわなかった。
ある時、インターネットか何かの情報で、かつて氏が一流のバストーナメンターであったことを知った私は、今現在の氏の低迷振りが不可解で仕方なかった。
「この年になると体がしんどくて集中力が続かないもので・・・」
そんな氏の言葉を聞いたことがある。
当時30代半ばだった私は、(40代も半ばを過ぎるとそんなものなのか)と、取り立てて気にもしていなかった。今にして思えば、この時すでに氏は病魔に蝕まれていたこととなる。
氏を最後に湖上で見たのは、氏の亡くなる7カ月前、初冬の兵庫県は東条湖。
10月から月一の開催で、全5戦を戦い、冬の東条湖チャンピオンを決定するというその大会。3戦を消化した時点で、私は年間優勝も狙える位置に付けていた。
たまたま平日に休みを取ることができた私は、迷わず2週間後の次戦に向けて、フィールド調査に繰り出し、そこで氏と偶然湖面で出会ったのである。
冬のウィークデー。まさか知り合いと会うとは思っておらず、暫くは他人の空似だと思い込み、氏とは気づかなかった。
同じクラブに所属するチームメートではある。それでも同じ大会にエントリーするコンペティター同士。この日、私は十分に上位を狙える再現性の高い、確実なパターンを見つけていたが、氏に対して、そのことを口にすることは一切なかった。一方で氏は私に対して、その日のヒットパターンや魚の動きの推移を、かなり丁寧に私に説明してくれた。
(どこまで本当か判ったものではない)
そう思いながら、私は氏の言葉を熱心に聞いている素振りをした。
こう言うといかにも私が、性格の悪い人間の様にも感じようが、トーナメントのコンペティターなる者は、まあこれが普通なのである。
またその際、氏から(なかなかのストロングパターン)だと、バルキーなクローワームを一パック頂戴した。氏から説明を受けたそのパターンは、私の見つけていたパターンとは対極にある釣法で、お礼の言葉は一応述べたものの、実際試合でそのパターンを使うことはないと思っていた。釣り人というのは、自分の信じるパターンが存在する時、そういった他人の情報は、むしろ迷いに繋がる悪影響となることが多いのである。
私は、改めてお礼の言葉を述べ、そのワーム一パックをタックルボックスに仕舞いこみ、船を走らせた。本命の場所とは逆方向に、である。
トーナメント当日、十分なゆとりを持って、私は会場に到着した。
電動モータと魚群探知機、そして絞り込んだタックル7セットがボートデッキに並んだ頃、試合開始まで1時間以上の時間が残っていた。本命と考えていたルアーは、この段階ではタックルにセットされていない。他の釣り人にそのルアーを見られることを懸念したのである。とにかくスタートが待ち遠しい。そんな心境だった。
待ちに待ったスタートの合図と同時に、私はエンジン全開で目当てのポイントを目指した。
他の釣り人の船が並走している間は、(もしや私と同じ場所を目指しているのでは?)と、気が気ではなかった。
そんな私の心配は杞憂に終わり、目的のポイントに到着した時には、辺りに他の船はなかった。一投目でこそなかったが、釣りを始めて数分でアベレージサイズのファーストフィッシュをキャッチし、二週間前に見つけたパターンが、その日も有効であることを確信した。
ふとその時、今朝A氏の姿を見かけていないことを思い出したが、トーナメントの準備とは、それはかなり忙しないものである。
私の場合で、一個30kgのバッテリを3個、湖面に浮かぶボートに積み込む。それが最も重労働で、続いて電動モータと魚群探知機のセッティングとなる。特に魚群探知機は、レンジ調整やゲインと呼ばれる発信器の強さの調整など、そのセッティングは直接釣果に影響することもあり、かなりのシビアさが要求される。
私の場合、たった7セットとは言え、仕掛け作りも、相応の時間がかかり、且つ絶対に手を抜けないものである。
この日の私もそうだったのだが、自分のパターンに自信がある場合、敢えて湖面に出るまでは、ダミーで一旦違う仕掛けを作り、他の釣り人から本命パターンを隠したりもする。
そんな慌ただしさや駆け引きもあり、朝に氏を見かけなかったのは、たまたまだろうと、その時は考えていた。
結果、私はこのトーナメントで4位入賞を果たす。50人近い参加者の中で、5匹のリミットを揃えたのは私と優勝者の2人だけだった。
年間レースを見据えていた私にとっては、この試合では、ビッグウェイトでの優勝よりも、(決して外さず上位に入ること)が最優先課題であったので、結果的には過去のキャリアでも数えるほどしかない100点満点のトーナメントとなった。
釣り雑誌の取材カメラのフラッシュがやたらと眩しかった表彰式を終えると、多くのトーナメント仲間が、私の傍らに集まり、祝福の言葉を掛けてくれた。
この時になって、やっとA氏が、このトーナメントに参加していなかったことを知ったのである。言うを待たず、このトーナメントにおいて、私は氏から二週間前に手渡されていたワームを使うことはなかった。
比較的暖かかった冬が去り、そして季節は4月後半。
滅多に姿を見せない幽霊メンバーすらも、その日だけはと参加したクラブカップの開幕戦は、例に無く賑やかな試合となった。しかし、そこにA氏の姿はなかった。
同大会、私は二位に入賞し、前年度チャンピオンの面目を保った訳であるが、表彰式の後、会長から呼び止められ、聞かされた言葉は、新参者の私にとっても大きなショックだった。
「年明け早々、癌が発見されたA氏は、すでに入院しており、復帰の目途は全く立たない状況なので、A氏に代わって副会長職を今期より任せたい」
公私とも、何かと忙しかった同年7月最終週のある日、私は遠く離れた四国の地で、A氏の訃報を聞くこととなる。享年49歳。
明石海峡大橋を利用し、すぐさま葬儀に駆け付けた私に、喪主であったA氏の夫人から、丁寧な挨拶と足労に対する労いの言葉を賜った。
7月に入ると、釣り雑誌のページすら自分で捲れないほど衰弱したA氏であったが、それでも目で合図をするように、釣り雑誌の購入を夫人に催促したらしい。傍らに座る夫人が雑誌を持ち、適度の間隔でページをめくっていく。
その日の午後、いつものように釣り雑誌をめくる夫人の横で、(あぁっ)という微かなうめき声を漏らし、そして閉じられた両目が、再び開くことはなかったという。非常に安らかな最期だったらしい。
(A氏と最後にお会いしたのは、昨年末、冬の東条湖の上でして・・・)
夫人にとってはどうでもよいであろう話を語る私に、生前のA氏の姿と行動の全てを聞きおきたいとでもいう表情で、深く何度も頷きながら、暫しの時間をお付き合い頂いた。
出棺の際、確か当時中学1年生だった娘さんが、涙も見せず、(お父さん、ありがとうね)と、そんな気丈な別れの言葉を、私の横で呟いていたのが、とても印象に残っている。
あの時のA氏の年齢に、遂に私は追いついた訳であるが、体力の衰えは、日毎に強く感じているものの、死については、幸運なことに未だ実感はない。
それでも死に向かって歩いているのは、人間である以上、また事実。
9月も半ばを過ぎ、今年もカタクチイワシの群れが、神戸周辺の漁港入り口付近まで接岸してきたようだ。
例年の如く、9月後半から湾内に入ってきたサゴシをルアーで狙い、10月にはハマチのボイルを探し求める。11月に入ると、防寒対策も完璧に、夜も明けぬうちからタチウオを釣るため、竿を出すのだろう。たまに大型のシーバスが外道で掛かり、慌てふためくのもこの季節の一興。毎年変わらぬ私の秋の行事。
変わらぬ秋が、今年も変らぬことを感謝しつつ、竿を出すとしよう。
バストーナメントから遠ざかって久しく、長らく部屋の片隅で眠っていた試合用タックルボックスを開けて見る。それはそれは、ボックスの底の方に、14年前のあの日、氏から頂戴したクローワーム一袋が、封も切られず入っていた。




