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百夜釣友  作者: 柳キョウ
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第二十八夜:岩魚の紡ぐ(7)

娘との冒険旅行のクライマックスです。

小さなフィッシングナイフを器用に使い、娘はイワナのワタを取り除いている。

エラブタの付近に切れ目を入れ、指で摘まんでエラを引っ張ると、エラと一緒になって腸までがずるりと抜けるのには少し驚いた。娘に言わせると、そんなことは、(魚料理の常識)なのだそうだ。


「魚も捌けなくて釣り人と言えるの?」


言える。僕は根っからのゲームフィッシャーマンなのだ。

食べるが目的で釣りをしているのではない。それが釣りの楽しみの一つであることは認めるが。


(釣って放すのなら、釣りする意味がないじゃない)

ゲームフィッシャーマンたるもの、そんな言葉に耳を貸す必要はないのである。


さて、この日2人で釣ったイワナは12匹。

僕が7匹、娘が5匹。サイズに関しては、僕の釣った26センチが最大。

しかしこの日のクライマックスは、その魚ではなかった。


正午を過ぎた頃、午前中は厚い雲に隠れていた太陽が顔を出し、明らかに魚の活性は下がってしまった。

天候による活性の低下なのか、はたまた放流魚を釣り切ってしまったがための不調なのかは定かでないが、2人で食べるには、もう十分な数を釣り上げている。

ちょうど頃合いかと思い、僕は娘に提案する。


「そろそろテントの準備に取りかかる?」


そう言った僕に対して、(もう1匹だけ釣りたい)と娘は答える。

確かに、娘が最後の魚を釣り上げてから、少々時間が経っている。

僕にしても、始めはただ巻きで十分に釣れていたのだが、ある時間帯からはトゥイッチを入れて動きに変化を付けてみたり、若干深く潜行するルアーにローテーションしてみたりして、どうにか魚のバイトを絞り出している。そんな状態が暫く続いていたのである。


もう一匹釣りたいという娘が、これまでと同じ釣りをしていたのでは、なかなかその願いを遂げるのは難しかろうと、僕は考えた。


「日が上がってきて、魚が少し深いところに移動したのかも知れないね。ちょっと違うやつ使ってみる?」


そう言ってウエストポーチから出したのは、トラウト用スプーン4グラム。

今回の釣行のために購入したものではない。

いつどこで買ったかも忘れていたものだが、タックルを整理していた時に、ぽろりと出てきたやつである。

これまで娘が使っていたミノーよりは少し重く、この重量なら、流れに負けることなく、川底付近を探れるだろう。


「今までのとは違って止めると沈むから、一度底まで沈めてゆっくりと底を引っ張ってくる感じで使ってみて」


そう説明しながら、娘のタックルにスプーンをセットする。

ああっ、一言付け加えるとしよう。


「底とかに引っ掛かりやすくなるけど、別に無くしてもいいから」


そう言ってから気付いたのだが、この日娘はただの一つもルアーを無くしていない。

ロングキャストをさせなかったと言うか、する必要がなかったというのもあるが、なかなか初心者としては大したものである。


スプーンがセットされたタックルで、これまでと同じ様にサイドハンドでキャストする娘。

空気抵抗の少ないルアーに替わったからだろうか、流心を超えてルアーは飛んで行った。


「少し沈めてからゆっくり巻いてごらん。これまでの半分くらいのスピードでいい」


言われた通り、少しスプーンを沈め、そして丁寧にゆっくりリールを巻く娘。

これは期待できそうだ。よくビギナーズラックという言い方をされるが、釣りに於けるビギナーズラックの正体とは、まさにこれなのだ。

すなわち、(基本に忠実であろうとすること)、そして(一つひとつの動作に間があり、これが水中のルアーの動きのメリハリを生む)ことによる好結果なのだ。

従って、ルアーの動きのメリハリが有効とされるイカ釣りなどでは、ビギナーズラックが起こりやすい。


「お父さん、一つお願いがある」


ルアーを操作しつつ、そう口にする娘。


「んっ、何?」


「朝、店でおじさんに貰ったルアーあるじゃない、それで釣ってくれない?」


ああっ、あのスケベ親父に貰った毛鉤のことか。そう言えば、その存在すらすっかり忘れていた。


「やっぱり頂いたルアーで釣れましたって報告をしてあげたいじゃない」


なるほど、心遣いとはこういうものかも知れない。

さて、どこに仕舞ったっけ。

確か上着のポケットに・・・あった。

改めて、その毛鉤を手に取ると、重さは2グラムにも満たない。

大振りの羽根をメインに巻いていて、飛行時の空気抵抗は相当なものだろう。

糸の先に結んではみたが、これを単体で使うのは、ほぼ不可能だ。

そこで僕は、毛鉤の上20センチ程の位置に、小さいスプリットを噛ませ、ウェットフライ的に使う事にしたのである。


黒と銀を基調にしたこの毛鉤が水に入ると、姿としてはハッチ(虫)ではなく、おそらく小魚を模した巻きであることが判る。

ここは底ベタベタを、小さなゴリなんかの小魚が、細かく移動する様子を演出するがよかろう。


上流の岩陰にキャスト。

やはり風の影響を受けて空中で失速する。なかなかに使いづらい。

数十センチのスパンで、ゴリが移動しているが如く、ゆっくり引いては止めを繰り返す。

スピード感、引き抵抗、リズム。全てがミノーとは違い過ぎて、すぐには体に馴染まない。

1投目、2投目、そして3投目。全く雰囲気がしない。

その間にも娘は、10投はスプーンを投げている。

手返しが悪い。う~~ん、ジジイスペシャル、これは手厳しい縛りである。

こんなことなら朝一の活性の高い段階で、使っておけばよかったと少し後悔する。



(うわっ!)


それは突然の娘の声。振り向くとロッドがバットからひん曲がり、リールのドラグが、(ジィィ~~~)と全く止まる気配がない。

これは尺(30センチ)どころの騒ぎではなさそうだ。

慌ててタックルを放り出し、僕は娘に駆け寄る。


「なんかすんごいのが来た」


「見たら分る。どの辺りで来た?魚は見えた?」


「よく判らない。落ちてすぐだったような気がする、うわ~~~」


そんな会話の間にも、糸はどんどん下流へ引き出されていく。


「これは私には無理。お父さん、代わって!」


代わってあげたい気もするが、釣りというのはアングラーと魚とのワン・オン・ワンの戦いである。特にルアーフィッシングに代表されるゲームフィッシュとは、そういうものなのである。

トーナメントと呼ばれる公式の釣りの大会などでは、(二つ以上のルアーが水中に同時に在ってはいけない)というルールがある。これは一度に2尾以上の魚がかかることがないようにするためのルールで、ゲームフィッシュとは飽くまで人と魚の一対一の戦いであるべきなのだ。

ここはアングラーの矜持として、代わってやる訳にはいかない。代わりに、次の言葉を掛ける。


「多分、イワナじゃなくてウグイか何かだよ。釣れても食べれない魚だから気楽にやればいい」


一生懸命にリールを巻こうとする娘であるが、魚のパワープラス流れの勢いの方が、遥かに勝っている。


「リールを巻くんじゃなく、竿の弾力で引っ張ってこようか、グ~~ンって感じで」


どこまでイメージが娘に伝わったか判らないが、少しはポンピングと呼べる動作になった。


「引っ張った分だけ、竿を倒しながらリールを巻く。慌てなくていいから、どうせウグイだし」


(どうせウグイ)という確証がある訳ではないが、仮にこれがイワナなら50センチオーバーは確実である。それはあり得ないと考えるのが妥当だろう。

んっ、少し魚の動きが鈍くなってきたか。逆転するドラグの上げる悲鳴がそれほど長くは続かなくなった。それでも川の流れもあり、魚を寄せてくるにはまだまだ先が長そうだ。


「こっちから歩いて魚に近づいていってもいいよ」


「うん、分った」


そう言って下流側に歩いていく娘。少しずつだがリールが巻け始めている。

近づく娘の影か足音にでも驚いたのか、魚が一気に下流に走ろうとする。

しかし最初の元気はもう魚にはなさそうだ。すぐに突進が止まる。

娘が距離をさらに詰める。


遂にぎらりと水中に光った魚の腹を、僕は見止める。

それは何とウグイではなく、イワナでもなく、鮮やかな虹模様を携えた、紛れもないレインボートラウト、つまりニジマスである。

しかもデカい。50センチは悠に超えている。

しかし、何故こんな日本の渓流にニジマスが?という疑問が残る。


やっと魚との距離が竿一本分となった。

さて、ランディングに適した場所を、この段階になって僕は探し始める。


「ぴ~、あそこ、あそこの斜面から引き揚げよう」


娘の立つ場所から、8メートルほど下流にあるなだらかな斜面を指差し、僕は娘に言う。

魚の動きが鈍ったことで、娘も少し落ち着いたのだろう。流れを利用してうまい具合に魚を下流に誘導する。


さて、ここで次の問題が、即ちランディング。

30センチ程度のイワナならズルズルと岸へ引きずり上げることはさほど難しくないが、こんな大物がかかることは全く想定していなかった。

従ってネットなどのランディングツールは準備していない。

ここは僕がハンドランディングするしかない。


「もう少し巻いて~、はい、竿立てる」


竿を支えている娘とランディング役の僕との連携プレー。

(あっ)、僕はこれまでマス類の魚をハンドランディングした経験がない。

バス持ち、即ち魚のあごを手で掴むランディング方法が、マスにも有効なのかが判らない。

水面に半身を横たえているニジマスは、今のところ反撃に転じる気配はない。

それでもエラを忙しなく動かしていて、最後の抵抗に備えて、体力を温存しているように見える。考えている猶予はなさそうだ。

結果、僕が選択したのは鷲掴み。

ニジマスの頭部を一発で僕の右手が捉えた。

濡れた岸の上に移動する。

暫しの沈黙のあと、2人同時に同じ言葉が口をついた。


「でか!」



この大物のランディングがストップフィッシングの合図となり、13時を少し前にして、仕掛けを置き、釣った魚の調理となったのである。

毛鉤で釣るという僕に課せられたミッションも、この巨大レインボーの衝撃で、すっかり娘は忘れてくれた。ラッキーである。


さて口閉計測で57.5センチあったこのビッグレインボーであるが、娘の手によって既に川に返している。準備してきたカセットコンロには到底乗らない大きさであったためだ。


嫌がる娘を説き伏せて、両手で魚を抱えさせ、一枚だけ記念写真を撮った。

初めは嫌がった娘であるが、シャッターの音と同時に、にこりと笑みを浮かべてくれた。

僕の宝物となりそうな一枚が、携帯のメモリに収まった。


娘の釣果は、5匹のイワナ、小さなアマゴと巨大ニジマス各1匹の合計7匹。

僕には外道が混じらずイワナが7匹。仕舞寸法としては上出来だ。


調理の場所は、最初に入った釣り場からほど近い、少し広めの川原かわらとした。

あまり車から離れた場所だと、カセットコンロや飲み物などの運搬が大変になることと、

また少し釣りがしたくなったら、いつでも竿が出せることが狙いである。


「ちょっと残酷だけど」


そう前置きして、釣ったイワナの眉間の辺りにナイフを突き刺し、魚を絞める。

ナイフが刺さると、ビクンと魚が体を痙攣させ、そして動かなくなる。

娘には見せたくないと思ったシーンなのだが、僕が3匹目の魚の処理に取り掛かった時、何と娘が自分でやると言う。これは僕として、とても意外な娘の言葉だった。


「残酷だなんて、所詮人間の勝手な感傷だと思う。スーパーで売ってるお肉や魚だって、もともとは生き物だったんだから。残酷なことを人に任して、平気な顔して食べてる人達のほうが残酷だと思う」


この娘の言葉を聞いている者はどこかにいないのかと思ってしまうほど、僕はこの娘の考え方と言葉に感動を覚えた。

そしてもう一つ。


ニジマスを離したあと、娘が小用を足したいと言う。


「じゃあ車までコンロとか取りに行くから、そのまま車で朝の漁協のトイレまでいくかい?」


そういう僕に、娘は草むらで用を足すと言う。

そんなに我慢の限界なのかと心配すると、そうではなく、(好きで自然の中に出てきたのだから、それくらいの強さがないとダメだと思う。例え女でも)とそう言ったのだ。

(絶対に草むらに入ってこないように)と念押しはされたが。


(お尻、蚊にさされたらどうしよう)

そう口にしながら、藪の奥へと消える娘に、意外な芯の強さをみた気がした。


12匹のイワナの下処理は全て娘がやってくれた。

鱗の落とされた4匹のイワナを竹串に刺し、今カセットコンロでじっくりと焼いている。

残りの8匹は内臓が取り除かれ、車のトランクに入っているクーラボックスに、僕が放り込んできたばかりだ。もちろんこのクーラには、早朝にコンビニで買った大量の氷が入っている。

コンロの上の、一人2匹ずつのイワナの塩焼きが、僕達の昼食である。


ひんやりと冷たい透明な空気の流れが、コンロの熱を奪っていくのか、なかなかイワナは焼き上がらない。でも普段は感じることの少ないこののんびり感は、いかにも非日常を感じさせ、心地よい。


「これってコンロの火力が弱いのかな?」


焦れている様子ではないが、娘が言う。

コンロに貼られている銀色のシールを読んで僕は答える。


「300Wワットみたいだね」


「300ワット?」


「うん、300W。ほら、家のレンジが200Wと500Wの切り替えがあるじゃない。その間くらいの火力だね」


「ふ~~ん」


「オームの法則ってもう理科で習った?」


「あっ、うん。何オームの抵抗に何ボルトの電圧を掛けた時、その電流は?とかっていう問題でしょ」


「そうそう、そんな感じ。でっ、1ボルトで1アンペア電流を流がすのに必要なエネルギーが1ワットなんだよ」


「ふ~ん、そうなの」


「例えば家のコンセント、あれって100ボルトなのね。でっ、500ワットのレンジってことは、5アンペア電流が流れてるってことになる」


「5アンペアって大きいの?」


「もし人の体に1アンペア流れたら、間違いなく死ぬね」


「えっ、レンジってそんなに危険なの?」


「レンジに限らず、家のコンセントだって100Vでしょ、42(死に)ボルトって言って、40Vくらいの電圧でも、十分人は死ぬんだよ」


「ふ~~ん、お父さんの仕事って、危険なんだね」


そう、娘の言うように僕は電気屋なのである。

営業職なので自分が現場で危険な作業をすることはないが、そこまで娘が僕の仕事について知ってはいないだろう。

魚を焼きながらのおかしな方向の話になったが、考えれば娘と仕事の話をすることなど、これまでに一度もなかったのではないか。


「おとうさんはどうして電気屋になろうと思ったの?」


そう問われて答えに困る。

たまたま入社試験を受けた今の勤め先である電気メーカが、幸か不幸か採用してくれたというのが、全く持って実際のところなのだ。

そもそも大学の頃の専攻は情報工学、つまりはコンピュータが専門だった。


「どうしてだろう。ただの縁かな」


「そんなものなのかな、就職って」


「どうかな、僕の場合がそうだったってだけで、そうじゃない人もきっといると思うよ。何が何でも、自分はこの職業に就くんだって思ってる人が。ぴ~はなりたい職業とかあるの?」


「う~~ん、あることはあるけど・・・言わない」


「ふ~~ん、じゃあ聞かない」


「お父さんは子供の時なりたい職業ってあったの?」


「うん、あった」


「それって?」


「えっと、最強の空手家」


「ふ~~ん、お父さん、馬鹿だったの?」


「たぶん」


そう、僕は馬鹿だったのだ。

もちろん心の奥底では、絶対無理と考えながらも、(最強)は別として、高校の頃からやっていた空手で生計が立てばいいと思った時期も、確かにあった。

今ほど格闘技を、お茶の間で見ることがなかった時代の話である。


また釣り道具屋になりたいと思った時期もあったような気もする。

思えば子供っぽい考え方だったが、僕に限らず、誰もが一度は趣味を仕事にしたいと考えるものなのだろう。そして大抵の人は、そういう道を選ばない。


娘が生まれてから、そんな昔のことを思い出すことも本当に少なくなった。

僕の過去など、娘の未来に比べれば、どうでもよい無関心事なのだから。


「あっ、もう食べれそうだよ」


いつの間にかコンロの上のイワナの目は白くなり、化粧塩を付け忘れたひれが、焦げ落ちて無くなっていた。

そこそこの大きさだと思っていたイワナ達であるが、火を通すとかなり縮んでしまったような気がする。


3週間の準備と1万5千円のお金をかけた僕と娘の苦労の結晶が、目に染みる大量の煙の中で、香ばしく焼き上がっていた。



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