第二十五夜:岩魚の紡ぐ(6)
今回は釣りの描写に力を入れようと思いましたが・・・失敗です。
初めて釣った魚はサバだった。
二匹目の魚は覚えていない。
小学5年の時、初めて海ではなく、ため池で釣りをした。
朝靄に包まれた木々の緑と、白くひんやりとした大気が織りなす幻想的な景色に、海釣りにはない不思議な感動を覚えた。どこか不気味とも言える雰囲気も、幼い少年の怖い物見たさ的な好奇心をくすぐった。
中学1年の夏休み、ルアーフィッシングと出会った。
最初の獲物は34センチのブラックバス。
この一匹によって、僕の中でエサ釣りへの興味が完全に消滅した。
以来、ルアー釣り一筋36年。
それでもやってくる未知とのコンタクト。
初めて経験する渓流での岩魚ルアーフィッシング。
投げるは2インチクラスの小型ミノー。
クリアな水質を考慮し、戦術はファーストリトリーブ、つまり速巻き。
魚にルアーを長く見せず、偽物と気付かせないための戦略。
できるだけ一投で多くの岩影を通せるコースを選択する。効率重視。
スパイスとしてコンマ5秒にも満たない短いストップも時折交ぜる。
コンマ5秒の静止とは、自然界では致命的な“隙”なのだ。
移動は下流から上流へ。これ、渓流釣りの基本。
自ずとキャストはアップストリーム。
流れを利用し、わざと糸のテンションを抜き、ルアーのバランスを崩させることもする。
フィッシュイーターの習性を利用した反射喰い狙い。
可能な限り足音を抑えようとするが、それでも石鳴りが止まない。
少し水際から離れて歩き、足音の悪影響を最小限に止めるよう努める。
目の前に、薄い影を水面に落とすやや大きめの岩。
明確な流れの変化。フレッシュな水が絶えず上流から供給されつつも、魚が留まるに最良な淀みと陰。
付近では最もプロダクティブと思しきポイント。
不必要なロングキャストは禁物。水に浸かるラインの長さを短くし、水面下に広がる別世界への不自然な干渉を最低限に抑える考え。
狙うピンポイントの少し先にキャストしたルアーが、プロダクティブゾーンの岩陰に入る。
パーフェクトキャスト、パーフェクトルート。
ここでギラリと魚が腹を見せてルアーにバイト・・・してこない。
(あれ~~?)
初心者の娘が、ああも簡単にファーストフィッシュをキャッチしたのに、私のルアーにはバイトがない。まだキャストを開始して1時間足らずなので、ここで焦る必要はないが、期待したまずめのモーニングバイトを取り逃してしまった感は否定できない。
霧雨落ちるこの天候の恩恵により、サービスタイムが延長されることを願う。
さて娘の方はどんな具合なのかと振り返る。
(あれ~~?)
思った以上、遥か向こうに娘の姿が小さく見える。
彼女の方が離れて行った訳ではない。
その証拠に彼女の足元には、僕が背から下したリュックが置かれている。
僕が初心者の娘を放っぽり出して、その姿が小さく見えてしまうほどの上流まで、一人で歩いてきてしまったのだ。
我ながら最悪、そして父親失格。
少し速足で、それでも足音・足元には注意を払って、娘の立つ下流側へ戻っていく。
「どんな感じ?」
「うん、何か3回ほど小さいのが追っかけてきた気がする」
ええっ?そうなの?こっちは全くのノー感じなのだけれども。
娘が下流側にひょいとルアーを投げる。
あっ、サイドハンドキャスト、少しは様になっている。
「上手いじゃない、投げるの」
「うん、ちょっと慣れてきた。こっち側に投げた時だけ、なんか追っかけてくる感じ」
彼女が投げているのは下流側。セオリーとしては上流に投げるが正しい。
すなわち、魚達は上流側から流れてくる餌を、その方向に頭を向けて待っているものなのである。だから基本はアップストリームキャスト、つまりは上流側へ向けて投げるのが、セオリーとなるのだ。
僕が何度かあえて糸のテンションを抜いて、ルアーが流れるに任せた操作は、上流から弱った小魚が、瀕死の状態で落ちてくるイメージを演出しているわけだ。
従って、(下流側に投げた時に反応がある)という娘のコメントは、基本から考えると少し疑問符がつく言葉なのである。
(あっ!)
この瞬間、この日の釣果を左右する最大のキーワードに僕は辿り着く。
そのキーワードとは、すなわち“放流”。
古いバスアングラーなら、放流と聞いて思い浮かぶのが山梨県河口湖。
河口湖擁する山梨県が、バスフィッシングを県の観光資源にと考え、他県からバスを買い取り、放流を試みたのは、今からだともう20年以上も前のことになるはず。
現在では県内で養殖された魚が数多く放流されていて、“河口湖イコール釣れないフィールド”という僕らの年代のアングラーにとっての常識が、今や完全に払拭されている。
今でも関東を代表するトーナメントレイクである河口湖では、ネイティブな魚とは明らかに違う特徴を持つ、この放流バスを釣るためのテクニックが、多くのプロアングラーによって開拓され、そして紹介された。
特に放流直後の魚、つまりこれまでとは全く違った環境に馴染むまでのわずかな期間、一時的に特殊な性質を持つ魚を釣るための手法だ。
(放流場所を正確に把握すること)
(放流魚の泳力はネイティブの半分以下と考えること)
(緩やかな流れを求めてカレントの下流側に移動する性質が顕著なこと)
(苦労せずとも食べることのできる人工的な餌に慣れているため、動きのある餌は好まれないこと)
などが、放流魚との距離を詰めるためのセオリーの一部だ。
ある時、この養殖魚の餌として、ペレット形状の人工餌が与えられていることが多いという事実を知ったプロアングラーが、魚や虫とは程遠い、ペレット状のルアーを自作し、トーナメントで上位入賞を果たしたことがある。
果たしてこれがルアーフィッシングと呼べるのかという論争にもなったが、いずれにせよ、放流魚とは、苦労することなく、動かない餌を喰える環境に慣れているはずなのだ。
私が行っていたクリアウォーターの定番であるファーストリトリーブは、相手が放流魚であることを考えれば、むしろセオリーに反する釣り方だったのである。
また放流魚が下流に向かう性質があるとすれば、娘が言った(下流に投げた時に反応があった)というセリフは、実に辻褄が合うこととなる。
もちろん放流バスと放流イワナとの違いはあるのだろうが。
ここで私は考える。
魚は下流に向かうはず。
強い流れを嫌うはず。
強い光を嫌うはず(これはネイティブ、放流に関わらないイワナとしての習性)。
ルアーの速度はゆっくりの方がいいはず。
今立つ場所から10メートルほど下流にある大岩を見止め、ぴたりとピントが合うような感覚を、僕は得る。
「あの岩の右側ギリギリに投げられる?」
下流方向のその岩を指し、僕が娘に問う。
「もう少し近づいたら」
答える娘。
(静かに近づいて投げてみな)と促す僕に従う娘。
これ以上近づくと魚が警戒するなという距離に立った頃、ちょうど娘がルアーをキャストする。
まあまあの方向性、80点くらいはあげてもいいだろう。
そのままリトリーブに入れば、岩肌を舐めるとまではいかないが、どうにか岩の造る影の部分をルアーが通過できるはず。
「流れにルアーが逆らってるから、ゆっくり巻いてもルアーは動くよ。とにかくゆっくり巻いてきて」
言われた通りに娘が操るルアーが、岩の影を通る頃には、僕までがドキドキした。
(ぐぅ~~ん)
しなやかなメバルロッドの先端が、下流側に引き込まれたのが、横で見ている僕にも判った。
「なんか引っ張られる~」
「巻いて巻いて、ゆっくり巻いて」
川の流れも手伝って、相当強いテンションが竿に掛かっている。
「重ぃ~、さっきのと全然違う」
「慌てなくていいから、どんどん巻いて~」
少し荒っぽいアドバイスではあるが、ラインはイワナを相手にするには十分の3ポンド。ドラグも緩めにセットしてある。
初心者の娘が、強引にリールを巻いても、ある程度のテンションが掛かった段階で、糸は自然と出ていくセッティングになっている。
無理に竿を煽ったりしない限り、多少強引にやり取りしても、切られる程のテンションが糸に掛かることはない。
それを見越したアドバイスである。
糸の先でうねる青みがかった銀色の魚体。背は褐色。
少し魚の動きが弱まった時、褐色の中の白点がはっきりと見えた。イワナだ。
「もう巻かなくていいから、そのまま後ろに下がって岸にずり上げようか」
ずるりずるりと小石の斜面を上がってくる魚体。長さは20センチ強くらいか。
完全に水面から引きずり出てきた。休むことなく体を捻り続ける。
掌で包み込むように、僕が魚を持ち上げる。
「おめでとうさん、今度は正真正銘のイワナだよ」
さっきのアマゴと同じように水を掛け、模様がよく見えるよう、胴に張り付いた小石を洗い流す。
(ふ~~ん)という顔の娘。それ程明け透けではないが、満足そうだ。
そのことに少し僕は嬉しくなる。
「初イワナの感想はどう?」
「う~~ん、美味しそうだけど、一匹だけじゃ、お腹が満足しそうにない」
もしこのイワナが人の言葉を理解したなら、恐々としたことだろう。
「じゃあ、どんどん釣りますか」
そう言ってしっかりと魚の口に掛かっているフックを外そうとする僕に、娘が自分で外すという。確かに、その方がより自分で釣った感が満たされることだろう。
娘の意志を尊重し、魚を手渡す。
僕の方は足元にあったリュックから、魚をキープするための魚籠を取り出す。
「外せそう?自分の手ぇ刺さない様に気を付けて」
「うん、もう少し、よし、外れた」
少しぎこちない手付きで魚を握り、魚籠を持つ僕の所へ歩いてくる娘。
イワナが最後の抵抗を試み、体をくねる。
危うく落としそうになった娘だが、上手く魚籠の口の上へ魚を離した。するりと魚籠に落ちていく魚。そのまま僕は魚籠を水に浸す。
「手、ヌルヌルでしょ。川の水で洗いなよ」
そう娘に声掛けて、僕も並んで手を洗う。
「さっ、どんどん釣ろうか」
「うん、私2匹。おとうさんゼロ」
ほうほう、そう言う勝負ですか。では遠慮なく。
まだ竿を持っていない娘を待つことなく、先ほど娘がイワナを引き出した岩の造る反対側の影に向かって、僕は竿を振った。
「こういうのをね、我先キャストって言うんだよ。釣り人の間では」
「フライングゲットは、何も釣りに限ったことじゃないと思う」
娘の言葉はなかなか今風で、そして意外と大人だった。
果たして私は、そのキャストで初めてイワナをルアーで釣り上げるのである。
娘の釣った魚とほぼ同サイズ。
「これで最低一匹ずつは食べられるね」
初イワナをゲットした僕へ向けての、娘の祝福の言葉だった。




