第二十四夜:まずい料理
本作を巌叔父さんに捧げます。
昔から食べ物に関しての好き嫌いはない。
人間の好き嫌いがある人は、食べ物にも好き嫌いがあると言われたりするが、これは嘘であろうと私は思う。だって私が例外なのだから。
好みはある。
ごちゃごちゃと加工され、たっぷりと色濃いソースに塗れたハンバーグよりも、シンプルに焼いただけの肉を一摘まみの塩で食べる方が、どちらかと言えば好きである。
それはハンバーグが嫌いという意味ではない。食えば、やはりハンバーグも美味い。
どちらかと言えばという領域である。
そんな私が、生涯一度だけ、どうにも二口以上食えなかったまずい料理に出会ったことがある。
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長屋の一棟、私達家族の隣に住んでいたその(おっちゃん)は、幼少の頃の私にとっては、かなり奇怪な存在だった。
仕事は何をしているのか判らないし、誰もそのことを教えてくれもしなかった。
父の実兄らしいのだが、それならなぜ苗字が違うのか、そのことがどうにも解せなかった。
(戦時中にアメリカ兵と仕事をした事があり、その事が原因で親に勘当され・・・どうのこうの)
そんな内容の話を、家族の誰からか聞いた記憶も、あるような無いような感じなのである。
父とは20才以上年が離れていて、顔の造りが若く、実年齢より若く見えた父と、その(おっちゃん)が兄弟という事実が、当時は全くピンとこなかった。
たまにぶらりと我が家に訪ねて来ることがあった。
白いランニングシャツはいつも黄ばんでいて、現れるとぬっとした納豆の様な匂いがした。
この(おっちゃん)が現れると、あからさまに母は迷惑そうな顔をした。
何度か父がタバコを手渡した場面は記憶にあるが、金銭や食べ物をせびる様なことは、一度として無かったのではないか。それが私の記憶である。
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さて、時は昭和50年代半ば、ある夏の日曜日。
私はついに(ブラックバス)なる魚を初めて釣り上げたのだ。
その後、私にとって一生の趣味となるバスフィッシングキャリアのルーツである。
その大きさは34センチ。今にして思えば、どうという大きさではないが、防波堤で、アジやイワシしか釣ったことのない当時の私達にとっては、それはとてつもない大物だったのである。
(キャッチ&リリース)なる言葉も一般的ではない時代のこと。
水を張ったバケツは、体力もなかった小学生には大変な重荷だった。
この魚、図体はでかく、顔つきも厳つかったのだが、同じバケツに入れられていたマブナが、いつまでも元気だったのとは対照的に、バケツに放り込まれて程なくして、白い腹を見せ、瞬く間にエラの動きも止まった。
生きていようが死んでいようが、大きかろうが小さかろうが、釣った魚は全て持ち帰る。
当時の私達のやり方はずっとそうだった。
「おっ、ハネを釣ったのか?」
持ち帰ったブラックバスの大きさに、改めて自宅の玄関先で余韻に浸っていた時、ふらりと現れた(おっちゃん)が、そう声を掛けてきたのだ。
「ハネ?」
今なら分る。ハネというのはスズキの幼魚のことなのだが、(おっちゃん)は恐らく初めて見たはずのブラックバスを、ハネと勘違いしたのだ。共にスズキ科に属する親戚ではある。
その後の(おっちゃん)と私のやり取りは、とにかく要領を得ない内容であった。
ため池で釣ったという私に対し、ハネは海の魚だという(おっちゃん)。
その池はきっと海に繋がっているのだろうと言う(おっちゃん)に対して、そんなことはないという私。
ともあれ、私の記念すべき初ブラックバスは、この(おっちゃん)が料理して、2人で食うと言うことになったのである。
表面に錆びが浮いている大きな鍋で、大量の湯を沸かす。
この時、(おっちゃん)が、魚の内臓を処理していたかどうか、私の記憶は定かでない。
ともあれ、湯が沸くと同時に、(おっちゃん)にとってのハネ、私にとってのブラックバスを丸ごと鍋に放り込む。
次に(おっちゃん)が取り出したるは味噌。
たっぷりと湯に溶かす。
この段階では、それなりにいい匂いというか、単純に味噌汁の匂いが立ち込めた。
一口だけ味噌の溶け込んだ湯を口に運び、(おっちゃん)が味見する。
少し首を傾げ、次に持ってきたのは、なんと大きな黒砂糖の塊。
躊躇なく鍋に放り込む。一気に湯の色がどす黒く変色する。
幼心にも分る危険な色調。
当時は少なかったのであろうが、本物のバスアングラーに釣られていたなら、恐らくはリリースされたであろうその不幸なブラックバスは、味噌と黒砂糖の濁流にまみれ、瞬く間に白く煮上がった。
想像してみて欲しい。
池の水を煮込んで濃縮した泥臭さに、下品なまでの黒砂糖の甘味。
じゃりっと音がするような不快な鱗の舌触り。
油粘土を牛乳に溶かし込んだような異様な色のスープ。
“ブラックバス黒砂糖煮込み(味噌風味)”
生涯最悪の料理は、このようにして完成した。
一口口をつけた後、“これからケンちゃんと遊ぶ約束がある”と嘘をつき、私はその場を逃げる様に辞したのである。私の記憶にある最も古い“嘘をついた記憶”である。
この(おっちゃん)は、私の身内と呼べる関係の人物の中で、阪神淡路大震災のただ一人の犠牲者である。
葬儀に集まった人の中には、
「人様に迷惑を掛けなかったのは、最後の死に方だけだった一生」と、この(おっちゃん)の生涯を評した者もいたらしい。
果たしてそれは本当のことなのか。
その事を詮索することに、今ではどれほどの意味もない。
この(おっちゃん)の人生、逆算すると20才前後の年齢で、世は太平洋戦争に突入したことになる。以来、家族と違う氏を背負い、混沌の世を、彼なりに懸命に生き抜いたのだろう。定職に就いたことがないというのも、誰かの色眼鏡を通しての声だったような気がしなくもない。
少なくとも、今の私なんかよりは、遥かに力強く駆け抜けた人生だったのではないかと考えたりする。
ずっと反面教師の代表のような言われ方をされた(おっちゃん)であるが、私自身には、少なくとも悪い人には映らなかった。
どころか今となっては、年相応のしがらみを持つ私には、この(おっちゃん)の自由に生きたであろう生涯が、少し羨ましく感じることすらあるのだ。
私は仕事の都合で出席できなかったが、葬儀に出た母から聞いた話。
ぐちゃぐちゃに倒壊し、瓦礫と化した一軒家の中から、古いアルバムが一冊だけ発見された。
34センチのブラックバスを誇らし気にかざす、たっぷりと日焼けした半ズボン姿の私の写真が入っていたらしい。
その写真は、薄くセピア色がかっていたと聞いた。
とにかく不味かったあの味を、私は思い出した。




