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百夜釣友  作者: 柳キョウ
23/101

第二十三夜:オイカワとベラ(5)

レナさんは今どうしているのでしょうか。

会いたいです。

窓の外は、しとしとと味わいのある秋の雨模様です。

この雨を境に残暑も少しは収まるのでしょうか。


黒い食卓兼作業用の円卓の上で、彼女は背を丸めて、一心に数学の問題を解いています。

一度は除湿モードで点けたエアコンですが、今はスイッチを切っています。


体操服姿はいつもと一緒ですが、その顔は真剣そのもので、初めてみる彼女のそんな表情を、私はただ見ていることしかやることはありません。

しかしそのことに、私は少しも退屈していません。


こういうことです。


私を十二分に慌てさせた言葉、(お兄さんの家いかない?)は、何のことはない、彼女は再来週に迫った県内統一模試に向けての勉強がしたかったようなのです。

なるほど、今日彼女の持っている鞄が厚く膨らんでいたはずです。


「そっ、それは、まあ、別にいいけど・・・」


彼女の(家に行きたい)の言葉に対しての私の答えは、自分でも煮え切らないというか、変にオドオドしてしまい、これでは何か、私が彼女を自宅に招くことを嫌がっているみたいじゃないか、そんな風に思ってしまい、これでは駄目だと思い直しました。


「よし、じゃあ行こう!」と言ってみたのはいいのですが、今度は気合い入り過ぎ、全く意味不明の大声になりました。


(お兄さん、どうしたの?)と彼女に呆れられる始末でした。


普段釣りをしている場所・・・というより、いつも週末彼女を待っている川の畔から、私の家までは、徒歩でたったの10分程度。

ちなみに彼女、レナさんの家は、その場所から反対方向に、ほとんど同じ距離にあります。


「ごめんね、私ん家、週末は弟が友達連れてきて、勉強するには少し騒がしいんだな」


「いいよ、どうせ週末は釣り以外にすることもないし、今日は雨も降りそうだから」


初めて会った日と同じく、自転車の2人乗りで私の家に向かう間、ずっと私は緊張しっ放しでした。

今日も、彼女は自転車の荷台に横座りし、ちょこっと片手で私のシャツを摘まみます。

そのことが本当に、私にとっては幸せなのです。


あっという間に私の住むアパートに着きます。

部屋の鍵を開け、扉を開けると、10月に入ってから少し気温が下がったとはいえ、むっとする澱んだ空気と湿り気が肌に纏わりついてきます。


「ごめん、すぐにエアコン入れるから」


「おおっ、さすが一人暮らし、男臭い。大丈夫、贅沢は言わないから」


そんな彼女の言葉に私は少し恥ずかしくなります。


「それじゃあ、お邪魔しま~す」


その時になって、私は(しまった)と思いました。

そう、居間のど真ん中に布団が敷きっぱなしなのです。

男臭さの原因はきっとこれです。考えてみると、こちらに転勤してきてから、一度も日光に晒したことすらありません。


「ごめん、布団が敷きっ放しになってる」


「いいよ、布団くらい。エッチなビデオとか転がってると、さすがにちょっと引くけど」


そういう類のものについては、私は持っていません。

もちろん興味がない訳ではありませんが。

どう答えたものか、気の利いた言葉が見つからず、彼女のそのセリフを取り敢えずスルーします。


「あんまり勉強したりしないんで。机こんなのしかないけど」


部屋の真ん中で大きな顔をしていた布団を、ずるずると部屋の隅に押しやり、代わりに直径80センチほどの丸卓を、部屋の中央に引きずってきます。


「十分、十分。中間試験、数学が悪かったんだよな~」


そう言って彼女が参考書と一緒に取り出した数枚の紙。

何やら赤字で数字が記載されています。

懐かしい感覚と、同時に思い出す苦い記憶。

学生の頃、通信簿と並んで、最も見たくない類のものだった存在。

そう、それは試験の回答用紙でした。


そのうちの一枚を広げ、彼女は顔をしかめます。


「なんで間違っちゃったんだろう、こんな問題」


人の試験の回答用紙を見るのは、昔から少し気が咎めますが、彼女は隠そうとはしませんし、事前に(点数が悪かった)という話も聞いています。

こう見えても私は電気主任技術者です。数学は苦手ではありません。

人生の先輩として、少し上から目線で拝見しましょう。


(えっ?)


用紙の右上に記された赤字の点数に、私は驚きます。


「93点?」


「うん、93点。数学で95点以下なんて、これまで取ったことないのに」


「93点で悪かったってこと?他の教科は?」


「ああっ、はい」


無造作に彼女から手渡された回答用紙。

100点満点が理科と英語の二教科、社会が97点、国語96点、そして(これまで取ったことのない悪い点数)という数学が93点。全て90点以上、見事なまでに高得点が並んだ5枚の回答用紙。


「レナちゃんって・・・頭いいんだ」


そう、その頃には彼女の事を、(レナちゃん)と呼べるように僕はなっていたのです。


「頭はよくないよ。成績はいい方だけど」


さらりと彼女が返します。そんな彼女の言葉には、全く嫌味が感じられません。

きっと彼女はクラスでも人気者なのでしょう。

根拠はあります。

何度か2人で釣りをしている時、彼女のクラスメートと思しき中学生が通りかかったのです。


「レナ~~、あれ?隣の人、彼氏?」


「そうだよ、年上の彼氏。レナ、大人だから」


そんな事が何度かあったのです。

彼氏と言われて、みっともないほど私は動揺してしまいました。

今でも、この時の事を思い出すと、少し顔が赤らみます。

それにしても、凄い高得点です。


「こんなすごい点数取っていて、頭がよくないって、それは謙遜でしょう」


「だから、頭がよくないって自覚してるから、それなりに努力してるのよ。こう見えても」


「もしかしてレナちゃんは学習塾とか通ってるの?」


毎週のように彼女とは会っていますが、それは週末に限られた話で、確かに平日の彼女の行動については、私には知る由もありません。


「ううん、通ってないよ、学習塾なんて。だって学校の先生に失礼じゃない。一生懸命教えてくれてるのに、なんか浮気してるみたいでしょ。それにどう考えても、学校の先生になることの方が、学習塾の先生になるより難しいはずなんだから、それだけ教えるのが上手いってことじゃないの」


学習塾に通うことを浮気というその感覚が、私には新鮮でしたが、なかなか説得力のある言葉でもあります。しかしこれだけ学習塾が一大産業になっている時代です。


「でも今の時代、学習塾に通ってる子も多いでしょ」


「そりゃあクラスにも何人かはいるけどね。いや、何割かな?でも塾に通わないといい成績が取れないなんて、それは日本の教育制度がおかしいってことだと思わない?私はそうは思いたくないから。だから少しは頑張ろうって思ってるんだな」


14才の少女の含蓄ある言葉に、私はこの時圧倒される思いでした。


一度彼女が参考書と向き合ってからは、2時間のあいだ、鉛筆が紙の上を走る音と、ページをめくる際に紙が発する微かな音しか、私の部屋では起こりませんでした。

彼女の集中力は、それは凄まじいと表現していい程で、(お兄さんはテレビでも見てて)とは言われたものの、テレビを見るどころか、小用に行くことすら憚れるほどでした。

きっちり2時間、一言も発することなく、彼女は数学の問題集を解き続けました



「お兄さん、どうもありがとう。お蔭でかなり集中して勉強できた。さっ、ポテチ食べよう」


机の上に散らばっていた参考書を、少し乱暴に鞄に詰め込むと、持ってきていたポテチの袋を開きながら、彼女がいいます。私は冷蔵庫からコーラの缶をふたつ取り出します。

毎週末にやってくる、この2人だけのおやつタイムが、今の私にとって最高に幸福な時間なのです。


「あのさぁ~」


「ん?」


「今やってる勉強って、将来社会に出てから、どれくらい役に立つのかな~」


驚くほど成績のよい優等生の意外な質問に、私はどう答えたものか少し迷います。

彼女が続けます。


「古文とか漢文とか、普通に大人になる分には、きっと社会に出てからは使わないような気がするんだな。私は好きだから少し勉強はするけど」


言われて見ると、私自身、中学生や高校生の頃、勉強した古文や漢文は、社会に出てから役に立ったと思ったことが、これまでにありません。

しかし、たまたま私は電気主任技術者という職業を選びましたが、古文や漢文の研究に携わり、結果そのことで世に貢献している人達もきっといるはずです。


「それは、その人が将来どんな職業を選ぶかに因るんじゃないかな」


中学生にとっては何の面白味もない回答でしょうが、しかし私の本音でもあります。


「学校でさ、“√2とか√3とか一体何に使うんだ。こんなもの知らなくても生きていける”、なんて言う子もいるよ。学習意欲が削がれるんで、あんまり相手にはしないけど」


古文、漢文は判りませんが、こっちは多少専門分野です。

さて、どう答えたものでしょうか。

私の語る言葉で、彼女の学習意欲に何らかの影響があるのなら、それは責任重大です。

少しばかり知恵を絞って私は語ります。


「例えばね、その√2が必要ないって言っている子達も、家に電気がなければ不便でしょ。炊飯器も動かないし、テレビも灯かない。他にもアイロンとか、蛍光灯とか・・・」


(それは確かに不便だね)と彼女が相槌を打ちます。


「このコンセントね、電圧っていうんだけど、何ボルトか知ってる?」


今、私の部屋ではテレビのプラグが刺さっているコンセントを指差し、私は彼女に質問します。


「それくらいは知ってるよ。100ボルトでしょ」


「そう、そうなんだけど、実はずっと100ボルト一定なんじゃなくて、大きくなったり小さくなったりを繰り返してるんだ。交流って言うんだけど」


「ふ~~ん」


「でっ、一番大きい時の電圧が、約140ボルト、一番小さい時が、マイナス140ボルトなの。これが実は100ボルト×√2なんだな」


「へぇ、そうなんだ」


「あと、もし停電とか起こったら困る場所ってあるじゃない。例えば病院とか銀行とか」


「ああっ、うん」


「そういう場所って、停電が起こった時に備えて、普通は非常用電源ってのを備えているんだよ。その電源の大きさって、電圧×必要な電流×√3で計算するんだよ」


厳密に言えば、これは3相交流電源の場合ですが、そこまで細かくは説明しません。


「ふ~~ん」


彼女は私の話を真面目な表情で聞いています。


「つまり、普通の人が、√2や√3を使わなくても生活できるような便利な世の中を、√2や√3を使って作っている人がいるってことだよ。その便利さを造る側に回るか、貪る側に回るかの違いじゃないかな」


口下手の私としては、本当に我ながら、これ以上ない、とても電気屋らしい素晴らしい説明ができたのではと思いました。電気主任技術者の面目躍如と言ったところでしょうか。


「なるほどね、でっ、お兄さんは便利な世の中を造ってる側の人なんだ」


「いや、そんな大げさなもんじゃないんだけど・・・成績も良くなかったし、大した学校も出てないし」


「きっとすごいよ、お兄さんは。ところであの段ボール何?ネギ飛び出してるけど」


少し照れて、顔が赤くなっていたかも知れない私の表情の変化には無頓着で、部屋の隅に置いてあったダンボールを、彼女は指さします。確かに蓋から白ネギが飛び出してます。


「ああっ、実家からね、食べ物を送ってきたんだよ。自炊はしないからいいって言ってるのに。いつもうちの母はそうなんだよ。野菜なんか送られても、腐らせるだけなのに」


私の転勤を話した時の母親の顔を思い出します。

今にも泣き出しそうな、そんな母の悲しそうな顔は、いつも明るく元気な母の初めて見せる表情でした。


(転勤といっても、そんなに長くないから)


もちろんその見通しには何の保証もありません。

5年でも10年でも、全く不思議はないのです。

昔から勘の働いた母には、その私の慰めが嘘であることを、きっと見抜いていたでしょう。

そのことがその時の私には、本当に心苦しかった。


「ちょっと中身見ていい?」


そんなレナさんの声に私は我に返ります。


「あっ、別にいいけど。どうせ大したものは入ってないと思うよ」


(どれどれ)という悪戯っ子のような表情で、レナさんはダンボールの中を詮索します。


「野菜と・・・缶詰と、あと、インスタントラーメンか。優しいお母さんだね」


そんな彼女の言葉に、母のことを思い、少し胸が詰まります。


「フライパン、ある?」


「えっ、フライパン?一応あるけど」


彼女の言葉の真意が分かりませんが、私は素直に答えます。


「お兄さん、お腹すいてない?」


ポテチの袋は開いていますが、私もレナさんもまだ口を付けていません。

時間は午後3時前で、言われると確かに少しお腹がすいています。


「少しすいてるかも、お腹」


にこりとレナさんが笑います。


「じゃあ、レナが野菜ラーメン作ってあげるよ。ラーメンはインスタンドだけどね」



少し探すのに苦労した包丁をどうにか見つけ、レナさんに手渡した後の彼女の手際は、それはもう見事なものでした。

ネギとニンジンを慣れた手つきで刻みます。

白菜のほうは手を使って千切ります。

ぼうと黙って見ている私に、声がかかります。


「お兄さんはお湯沸かしといて」


そういいながらフライパンに植物油を注ぎ、コンロに火を付けます。

ニンジン、ネギ、白菜の順にフライパンに放り込み、ダイナミックにかき混ぜます。

フライパンの上に山盛りになっている野菜が、宙を舞います。しかし決してこぼれ落ちたりはしません。

あっと言う間に、こんなに食べれるのだろうかと思ったほどのボリュームだった野菜が、その体積を小さくしていきます。

最後にかけた醤油が焦げる匂いに、お腹が音を立てそうになります。


「お湯沸いたら、ラーメン放り込んでね、あとはレナがやるから」


「あっ、はい」


ぐつぐつとお湯が沸くのを待った後、私はインスタントラーメンの袋を破り、湯が飛び散らない様、丁寧に鍋に入れます。


「聞かなかったけど、取り分ける丼くらい・・・あるよね」


「あっ、多分・・・」


また慌てて私は丼を探し始めます。

(どうせ使わないだろう)と思いながら、確か新聞紙か包装紙に包んで押し入れの隅にでも押し込んでいたことを思い出します。


「早く~~、もうラーメン、ほぐれちゃうよ」


丼に入れられたラーメンの上に、レナさんが野菜を盛ります。

その頃には、10月だというのに、私は汗まみれになっていました。

“焦る”とは、“汗”が語源なのではないかと思うほど、私はレナさんの前では、焦ると汗をかいてしまいます。


ラーメンを啜っている間に、少なくとも3回は、(おいしい)と私は言ったでしょうか。

そしてそれは本当に美味しかった。

おやつにポテチ一袋を食べ終わると、もう私のお腹は一杯になりました。2袋彼女の持ってきたポテチのうちの一つが、封を切られずそのままになっています。


「あ~、お腹一杯。美味しかった」


両足を前に投げ出した態勢で、彼女が言います。

彼女が作ってくれた野菜炒め入りラーメンは、味もさることながら、彼女と共同で作ったものを2人で食べるというその事が、私には何より嬉しかった。

ラーメンをお湯にぶち込んだだけの私の作業を、彼女が共同作業と認めてくれたらの話ですが。


少し一息ついた頃、彼女がいいます。


「もしさぁ、模擬試験よかったら、何かご褒美、レナに買ってくれる?」


甘えるような口調で彼女が言います。


「いい成績ってどのくらいかな?」


取り敢えず、私は彼女にそう聞いてみます。彼女に甘えられると私はメロメロどころの状態ではなくなってしまうのですが、本当に、取り敢えずです。


「校内ではもちろん1番、県全体では偏差値68」


私には想像もできない目標の高さですが、彼女にとっての、その目標の難易度がよく判りません。特に県内偏差値68というのが、何万人のうちの何番目くらいなのでしょうか。

因みに私の出た大学の全国偏差値は49でした。


「この前の試験、校内では何番だったの?」


「2番。芝山さんに負けちまった。数学の93点が致命傷」


昔よく父親に聞かされたものです。

(どんな分野であれ、どんな集団であれ、1番というのは例外なく素晴らしい)


県内偏差値68は置いといて(というかその価値が私には判らなかったのです)、もし彼女が校内で1番の成績を取ったなら、ご褒美くらい買ってあげようと、もちろん思います。


「いいよ、もし校内で1番になったら何かご褒美買ってあげる。何か欲しいの?」


待ってましたとばかりに彼女が答えます。


「東京に行っても恥ずかしくないお洒落な洋服が欲しい」


私の生まれが東京であることは一度彼女に話しています。

彼女のいう東京とは、都会の代表、若しくは今住んでいる田舎街との比較対象というだけの意味であり、要はどこに出ても恥ずかしくない洋服ということなのだろうと、その時の私は誤解していました。

どんな服装が彼女の好みなのかは判りませんが、2人でデパートの中を歩くシーンを想像して、表情がみっともなくなります。


「お安い御用、じゃあ試験頑張ってね」


深く詮索することなく、そんな言葉を私は返していたのです。


「東京か~~」


そんな彼女の呟くような言葉の意味を、幸福の極みに浸っていた私は、深堀りすることをしませんでした。



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