第二十二夜:キャリーバッグと釣り竿
夢を見た。いつか来る日の夢を見た。
かなり慌ててそのバスに乗り込んだ。
既に日は暮れているが、深夜ではなさそうだ。
時間や季節の感覚が、なぜかとても曖昧だ。
乗り込んだバスが何処へ向かうバスなのか、僕にはよく判っていない。
このバスに乗らなければいけないことだけ判っている。
数人の乗客が、もう席に座っている。
奥の方の座席に座っている。
数人というのは判るが、3人なのか4人なのか、6人なのか8人なのか、それが僕には判らない。
数えようとすると、急に人が消えたり、別の人が現れたりして、また一から数え直さなければいけない。だから僕は数えるのを諦めた。
みんな穏やかな表情をしている。
その優しい視線は、どれも乗り込んできた僕を見てはいない。
何か遠いものを見ている。
手荷物を持っている人はいない。
僕よりも年配の人達が多いようだ。
そう一度は思ったのだが、何故かこの時、僕は自分の年齢が判らなくなった。
他の人達の性別が判らない。
そもそも、その時僕には、性別という概念がない。
たくさん空いている席に、僕は座らなかった。
見覚えのない大きなキャリーバッグを僕は引いている。
片手には束ねられた釣り竿を2本持っている。
見覚えのないキャリーバッグだが、なぜか僕はそれが自分のものだと知っている。
手に持つ2本の釣り竿も、きっと僕のものなのだと知っている。
色々と判らないことや不思議なことがあるが、そのことを全く不思議と僕は思っていない。
どこか僕は落ち着いていない。
窓の外の暗がりの中に女房の姿を探す。
根拠はないが、それでも彼女がそこにいると、僕には判っている。
すぐに彼女は見つかった。
少し離れた位置からこちらを見ている。
何か覚悟を決めたようなしっかりした顔で、それでも何だか悲しそうだ。
ぬいぐるみを抱えている。20個以上のぬいぐるみを抱えている。
一人で抱えられるはずのない数のぬいぐるみを、彼女は抱えている。
そのことを、僕は少しもおかしいとは思っていない。
彼女は忙しい。何に忙しいのか僕は判っていない。
彼女が忙しいことだけ知っている。
(もうここでいいよ)
声が届かない距離から、きっと僕は話しかけた。
声を出したのではないが、それでも僕は話しかけた。
彼女はそこに立っている。
ヒヨコのぬいぐるみが見える。
結婚した年に僕が出張先で買ってきたぬいぐるみ。
『ぴよよ』と名付けたこのぬいぐるみを、僕達は大切に可愛がった。
僕達には子供がいなかった。
女房の体が弱かったのも理由の一つだった。
まさか自分が女房より早く逝くことになるとは思わなかった。
この時になって僕は判った。
ああ、そうか。僕は死んだのか。
そのことは判ったが、僕がどうして死んだのかは判っていない。
判っていないが、判っていないことを、僕は全く気にしていない。
何処に行くバスに僕が乗り込んだのかだけ、この時になって判った。
老人と言っていい年配の一人が、少し体をずらして窓の外が見やすいようにしてくれた。
きっとこの人にはこの世に残した悔いの様なものがないので、手荷物がないのだろうと思った。
僕はキャリーバッグいっぱいに、やり残したものを詰めている。
そして釣り竿が2本。
きっと僕は、これから行くところで、2種類の釣りをしようと考えているのだろう。
他人事のように、そう思う。
その2種類の釣りが、どんな釣りなのか、僕は全く考えていない。
(いってらっしゃい)
女房の声が聞こえたような気がした。
30年間、毎朝聴いた言葉。
平日仕事に行くときも、週末釣りに出掛ける時も。
彼女の体調が少し悪い朝も、前の晩に少し喧嘩をした朝も。
僕はほとんど返事をしたことがなかった。
今日だけはちゃんと返事をしようと思った。
(行ってきます)
そう言おうとして違う言葉を僕は口にした。
(ありがとう)
僕はバスに乗っている。
バスは空高く上がっていった。
そのバスの運転手だが、前世は心の優しいエイだったらしい。
なぜだか判らないが、僕はそのことを知っている。
僕は大きなキャリーバッグと2本の釣り竿を、しっかり抱え込んだ。




