第二十一夜:岩魚の紡ぐ(5)
僕のプリンセスのファーストフィッシュは渓流のプリンセスでした。
あの親父さんが手渡してくれた簡易な地図は、かなり正確だったようだ。
川の地理的変化をよく捕らえていて、僕達は少しも迷うことがなかった。
(一昨日成魚を放流した)というポイントには、車を走らせること5分と掛からず到着した。親父さんが言う、車2台程度が停められるというその場所も、その通りの所に、その通りの大きさのスペースが広がっていた。
先行している車はない。僕達が一番乗りのようである。
車を出す時の安全を考慮し、バックで駐車する。
曲がりくねった山道の中の、ほんのちょっとした路肩のスペースである。
見通しはすこぶる悪い。後あとを考えての、安全策である。
車から降り、足元の土がしっかりしている事を確認し、川へとつながる斜面に、少し体を乗り出し、眼下にある川を覗きこむ。
川縁までの高さは5~6メートルと言ったところだろうか。
誰かが、木々や枝を間引いて簡易的に作ったと思われる、人工的な道が通っている。
足を滑らせての転倒さえ気をつければ、川縁に降りるには苦労せずとも済みそうだ。
空模様はどんよりしているが、雨は落ちてきていない。
それでも茂った草木は朝露に濡れていて、僕は娘にレインギアを着込むように言う。
水に濡れるということは、想像以上に人間の体力を奪っていくものなのだ。
そんなことを細かく説明した訳ではないが、娘は素直に従う。
娘はロングと呼ぶ程でない黒髪を束ね、黄色いキャップを被る。
これだけでぐっと釣り人らしくなる。
このキャップだが、元々は僕の所属していた釣りクラブの会員用のものだった。
色とデフォルメされたブラックバスのロゴが可愛いという娘に、以前プレゼントしたものだった。
2人でレインギアに着替え、ここでタックルの準備をするかどうかを少し迷い、セットしないまま川縁へと降りることにする。長いロッドの先端が枝に絡まり、上に気を取られて足元への注意が疎かになるという危険を避けた訳である。
僕が先行し、娘が続く。
予想した通り、朝露にレインギアが濡れていくが、地面自体はぬかるんではいない。
体を横にしながら、右足から慎重に下りていく。
「あっ、ごめん」
踏み出した娘の足が滑り、乾いた土が僅かに崩れ、僕の足元まで流れてきたのだ。
(大丈夫、大丈夫)と返す僕。ついでに、(気を付けて、ゆっくりでいいよ)と少し父親らしいセリフも付け加える。
足元は安定しているが、念のため、付近の蔦を手繰って、少し体重をかけて見る。十分にひと一人くらいの体重には耐えてくれそうだ。
「この蔦を持っても大丈夫だよ」
娘に声を掛ける。
荷物は全て僕が持っている。竿2本とリュックサック、そしてウエストポーチのみという軽装備だ。コンパクトなパッキングを心がけた成果である。
竿を持っている片手は塞がっているが、片手が空いていれば問題はない程度の勾配だ。
空身で下りて来る娘の足取りも、下から見ていて危なっかしいところは少しもない。
すぐに川縁まで降りることができた。
足をおろすと、(ぎゃりっ)という石と石とが擦れ合う音が鳴る。
どうやら川縁の地面は、小豆大の石粒でできているようだ。
娘も難なく降りて来る。
岸の幅は水面までおよそ1.5メートル。タックルをセットしたり、歩き回ったりするには問題のない幅であるが、普通のオーバーヘッドキャストでは、後ろの枝が、少し邪魔になりそうである。
川の幅は15メートル程度。流心部の水色は濃く、その流れも重く強そうだが、手前5メートルほどの流れはとても緩やかで、点在する大きめの岩の付近には反転流も発生している。
これならば、万が一落水しても、命に関わることはないだろう。もちろん油断は禁物だが。
水面に目をやると、とにかく水の透明度が素晴らしい。
そのまま掌ですくって口に運びたくなるほどだ。
沈んでいる大小様々の岩々がよく見て取れる。
「綺麗だね、水」
僕の横に立ち、囁くようにそう口にする娘。
綺麗なものを素直に綺麗と口にできる。
そんな当たり前のことを、実に当たり前にできる娘が、なんだか愛おしい。
妙な気分に僕はなる。
「さっ、仕掛け作ろう」
何かを振り払うように僕はそう口にする。
朝露でしっとりと濡れた布製の竿入れから2ピースのメバルロッドを取り出す。
背負っていたリュックを下し、新品の3ポンドラインを巻いたリールをシートにセットする。
朝露に濡れる石、シルバーに輝くリール、漆黒のカーボンロッド。透き通る水色。
絵になるほどに、それは綺麗だった。
(チチチッ)と鳥の泣き声。もちろん僕には鳥の種類までは判らない。
(ジィ~~~)リールから糸を引き出すクリック音が渓流に響く。
老眼が進んでいる僕が、眼鏡を外さず糸を通せるのは、元ガイドから3つ目まで。
(ちょっと持ってて)と眼鏡を娘に手渡し、4つ目からのガイドに糸を通す。
「そこまで老眼が進んでるの?」
そんな娘の言葉が突き刺さるが、これはしょうがない。僕達夫婦は結婚も遅かったのだから。
(弟が欲しい~)
幼き日の娘がよく口にした言葉。
そんな日のことを思い出し、期待に添えなくてごめんなと、今になって思ったりする。
少し苦戦したが、どうにかトップガイドに糸が通った。
さてルアーだが、どうしたものか。
ついさっき大振りな毛鉤を購入したが、いや実際には購入していない。ただで貰ったのだ。
せっかくではあるが、この毛鉤を今回使うことはないだろうと思っていた。
単体でウエイトのない毛鉤は、初心者にはキャストが難しいだろうとの、僕の想像だ。
スプリット(鉛製のおもり)を噛ませる手もあるが、そうすれば今度は根がかりのリスクが増える。
ただで貰ったものなので、無くなってもどうってことはないが、初心者である娘のモチベーションが、それで下がったりしないかと心配したのだ。
僕は、今回14個持ち込んだ小型ミノーの中から、比較的落ち着いた色合いのものを、まずは糸先に結ぶ。水がまるで空気のように澄んでいたため、あまり目立ちすぎる色合いはよくないだろうと考えたのだ。
僕が初めて買ったルアーは、ブラックバス用のクランクベイトだった。
リールを巻いて糸で引っ張ると、ブルブルとルアーが泳ぐということに、最初はとても感動したものだ。ただのプラスティックの塊といえるルアーが、まるで生き物の如く泳ぐ様を見れば、初心者にもそれなりに面白く感じるかもしれない。トラウト用スプーンではなくミノーを選んだのは、そんな理由もある。
自分のタックルのセットを後回しにし、まずは娘に投げ方を教える。
中級者以上であれば、対岸の岩回りも射程圏内になろうが、そこまでは娘に期待できない。従って、狙うは目の前の岩周りということになる。
そうであれば5~6メートルも投げれば、距離的には釣りとして成立する。
そこで僕は、最も基本であるオーバーヘッドキャストではなく、ピッチングキャストを教えようと考える。ああっ、その前に。
「ちょっとルアーを水につけて引っ張ってごらん」
「んっ?こう?うわっ、すごい、泳ぐ!」
僕の計算通り、生命を持つが如く泳ぐミノーの姿に、娘なりに感動してくれたようだ。
「なんでこんなにプルプル泳ぐの?」
「え~~と、リップって言って、口の辺りにある板がね、こう、引っ張ると水圧を受けて、こう、交互に、その~~」
なかなかに説明が難しい。さて、どうしよう。
「つまり、よく出来てるってことね」
「まあ、そう」
その後、人差し指でラインを引っ掛けて糸を抑えること、ベールを返せば糸が出る事、ベールを戻せば糸が巻けること。一通りのキャストの手順を説明する。
意外と娘の飲み込みは早く、あっと言う間に、付近の岩廻りにルアーを落とせる程度にはなった。あとは繰り返しで、距離も自ずと伸びていくだろう。
魚が掛かったあとの事は、今教えることもないだろう。
ちょいっとルアーを水面に送り出し、少しリールを巻き、何度も足元でルアーの動きを確認している娘。退屈している様子ではない。少し安心した僕は、自分のタックルの準備に取り掛かる。
「もし魚が掛かったら、リールを巻いたらいい。でも巻き過ぎないように」
それだけを付け加えた。まあ魚が掛かることは、全く期待していなかったが。
自分のタックルの準備に取り掛かるが、またまたガイドに糸を通す作業に苦戦する僕。
近くのものを見る時、遠近両用メガネの特性を活かすため、下目使いに顎を突き出す態勢になるのだが、これが自分でもみっともない。しかも心が急いている。
30年以上も釣りをしていて、これまで数え切れないフィールドで竿を出している。
それでも、いつの時も水面を見ると、心が体を急かすのだ。海だろうが、川だろうが、湖だろうが。
やっとトップガイドまで糸がやってきた。ここで油断して摘まんだ糸を離してしまうと、スルスルと、せっかく通したガイドのほとんどを糸は戻ってきてしまう。そうはさせじと指先に力が入る。
「何か、引っ掛かったみたいなんだけど・・・」
引っ掛かった?そのタイミングでトラブルとは・・・
どうにも間が悪い。
「何が引っ掛かった?岩?」
「たぶん魚。小さいけど」
ええ~、マジですか。
娘の方を振り返ると、すでにミノーに喰いついた小さな魚が、娘の足元で踊っている。
たぶんではなく、間違いなく魚です、それ。
自分のタックルを放り出して、娘に駆け寄る僕。
娘はしゃがみ込んで、足元で跳ねている魚に見入っている。
大きさは12センチくらい。銀色の側面に美しい赤白の斑点。アマゴだ。
「アマゴだ、アマゴだよ、それ」
僕だけが異常に興奮している。
「ふ~~ん、メザシの材料かと思った。イワナでもないんだ」
少しがっかりした表情に変わる娘。実に冷めている。
初めての釣行で、渓流の女王と呼ばれるアマゴを釣り上げたことの価値を、いや、価値のレベルではない。奇跡と呼んでいい。そのことを全く理解できていないらしい。まあ教えていないのだから、それも当然か。
「この魚、渓流の女王って呼ばれていて、釣るのって難しいんだよ」
相変らず僕だけが興奮している。
(ふ~~ん)って感じで、やはり娘はあまり感動を表さない。
そこで僕は、びちびちしているアマゴを掌で掬い上げ、その美しい模様を、娘に見せてやろうとするが、小さな石粒が張り付いていて模様が隠れている。川の水を手で掬い、魚の体に掛けて、石を洗い流す。
「綺麗でしょ~、この魚、女王だからね、女王」
「うん、確かに綺麗だね、子供の女王?」
娘の反応が、あまり僕の期待通りではないが、無事、娘は彼女にとってのファーストフィッシュをゲットしたのである。
(足元でルアーを泳がせて遊んでいたら、いつの間にかルアーが大きくなっていた)
如何にも彼女らしい表現で、そのファーストフィッシュの釣れ方を娘は説明した。
「さてどうする?」
「んっ?どうするとは?」
「だからこの魚。キープして食べてもいいし、放してあげてもいいし」
娘がちゃんと自分で捉えた獲物である。ここは娘の判断に任せようと思う。
「その魚、もう大きくならないの?」
「いや、育てば30センチくらいにはなる」
アマゴというのは、実に面白い魚で、大部分の魚は川でその生涯を閉じるのだが、稀に川を下り海に出る個体が出現する。海に下った彼ら(彼女ら?)は、サクラマスと呼ばれて、最大で80センチくらいまで育つ。
今回の釣行のメインターゲットであるイワナも、同じように海に下る個体がいる。しかし彼らは、サクラマスほどは大きくならない。最大で50センチ程度、呼び名はアメマスと言われる。
ところがイワナは海に下らずとも50センチに育つ個体がいる一方、海に下らない大部分のアマゴが、40センチにまで成長することはない。少なくとも僕が知る限りでは。
何か不思議な生命の神秘を感じる。
僕なんかをイワナやアマゴに例えるなら、その生涯を川で終える方の種類なのだろう。
良い悪いではない。きっと時代がそうであっただけのことなのだ。
若い新卒の社員が入ってくる。履歴書に目を通す。
TOEIC700点や、留学経験有なんて記載が、当たり前の様に目に入る。
今からの人達というのは、むしろ海に出る人達がマジョリティで、内陸に留まって生涯を終える人たちの方が、きっと少なくなっていくのだろう。
10年後か15年後か、娘がボーイフレンドを家に連れて来る。
日本の人ではない。たどたどしい日本語で、(コンニチハ)と僕に挨拶する。
娘との会話は全て英語、僕にはちんぷんかんぷん。
必要に応じて、娘が通訳をする。
たまにひそひそと2人で会話をしている。僕には内容が判らない。
顔を引きつらせた不自然な笑みを浮かべるしかない僕。
今のところ、僕のただの想像だが、そんな日が、あっという間にやってくるのだろう。
だって娘が生まれた13年前の日のことが、まるで1年前のことのように思えるのだから。
「じゃあ逃がしてあげる」
その娘の言葉に我に返る。
針を外し、手のひらに乗せたアマゴをゆっくりと水に浸す。
水が冷たい。すぐには泳いで去っていかない。エラを動かしている。
(帰っていいの?)みたいな顔をアマゴがした様な気がした。
その問いに対する僕の返事を待たず、ゆっくりと流心へアマゴが帰っていく。
娘の記念すべきファーストフィッシュを静かに僕達は見送る。
アマゴが僕の手から離れ、岩陰に入り込み、その姿を消すまで、なぜか僕達には一切の言葉もなかった。
(なんとなく)、そうとしか表現しようのない感覚で、空を見上げる。
重たそうな空からいつの間にか、霧雨が舞っていた。
ふと見ると、時計の針は8時を指していた。
周囲の暗さに、夜明けからそれほど時間が経っていない感覚だったが、辺りが暗いのは、木々が光を遮っていた為だけではなかったようだ。
「あいにくの天気になっちゃったね」
「いいじゃない、別に」
濡れることを、娘はきっと嫌がるだろうと思っていた僕には、その娘の返事が少し意外だった。
「カラカラに乾いた緑や石やコケなんて、何の情緒もないじゃない。濡れてこそ美しいのよ、緑も、石も、コケも、オンナも」
最後のは、少し際どい感じがするが、セリフの端々に、娘が豊かな感性を、しっかりと育んでくれたことを感じる。
いつか彼女が、自らの意志で川を下り、大海に繰り出すその日には、きっと今日この日のことを、僕は思い出すのだろうな。そのことが、つい最近の出来事のように。
またピッチングキャストを開始する娘。
僕は、そんな娘に声を掛けることなく、自分のタックルの準備を再開した。




