第十六夜:岩魚の紡ぐ(4)
自慢の娘なのです。
国道42線を抜けて、県道35線に入る。
同時に対向車線を走る車の数が、一気に減少する。
変化はそれだけではない。
コーナーに差し掛かる度に、僕はギアを3速へダウンする。
車道のアールが急になったのだ。
僕の操作はこれを期に、一気に忙しなくなった。
僕の車は、今では珍しいMT車なのだ。
釣り道具もゴルフ道具も、独身の頃ほど、自由に買い替えることができなくなり、もちろんのことグレードも落としている。
意識してタバコの本数も減らすように努めている。
そんな僕が、最後まで我儘を押し通したのが、この車なのである。
スポーツタイプのMT車。
燃費はいいとは言えず、女房に言わせると、長く乗るとお尻が痛くなり、車内の圧迫感は苦痛を感じる程で、きっとご近所さんの評判も芳しくないだろうと(うるさいということか?)、最低の評価となる。
(もっと落ち着いた感じの車の方がいい。そしてあんたもいい加減、落ち着いた方がいい)
助手席に座る度、そうこぼす女房に対して、(両手を使って運転した方が、痴呆症になる確率が減るらしい)という、自分でもよく訳の分からん論理で押し切って購入したこの車は、僕にとって、(お父さんの最後の砦)的な存在なのである。
(娘が免許を取る時期にはATのファミリーカー)というのが、既成事実のようになっていて、新車で購入したこの車が、2回目の車検を受けることは、多分ない。
その時、(買い替える金なんかあるか!)的な会話になり、結局乗り換えずというのが、僕の微かな期待であったりする。
コンビニを見かける度、(トイレは大丈夫?)と娘に声を掛けていた僕なのだが、3回目にして、
「子供じゃないんだから、行きたくなったら自分から言う!」
と、娘に叱られてしまった。
ついさっき、カーナビが愛想のない機械声で、運転時間が2時間を超えたことを知らせてくれたばかりだが、いよいよコンビニの明かりを見かけることが少なくなってきた。
娘と2人の長時間ドライブも折り返し点を過ぎたようだ。
「眠くなったら寝ていいよ」
と声を掛けると、「大丈夫」と娘は言う。
本当に寝るには、少し乗り心地に問題があるのかも知れない。
僕の方も、4時間と少しの睡眠時間であったが、今のところ眠気が襲ってくる気配はない。
それもMT車の隠れたメリットなのだ。
次の乗り換え時は、この(AT車に比べて眠くなりにくい)も主張するネタの一つとしよう。
変わらず道は、くねっている。
既にヘッドライトは、ハイビームに切り替わっているが、次の目印である、(みなべ町)の交差点を見過ごさないか心配だ。
何故なら、先ほどからナビの画面が一面グレーになったままで、現在地を示す赤点が、ぽつんと点滅しているだけの状態なのである。
辺りは街灯も数少なく、ただ暗闇があるばかりで、これは相当な田舎道を走行しているようである。
ナビに登録しているのは、遊漁券を購入するために立ち寄る地元漁協の住所。
始めは電話番号で検索してみたが、該当なしとのことだったので、少し苦労して住所を入力したのだ。
娘が・・・である。
いよいよ持って、ヘッドライトが照射する範囲以外は、全て完全な闇となった頃、ふとナビの画面に目をやると、水色の領域が画面右端から表れてきた。
海か川を表す水色なのだが、今僕達が走っているのは内陸地である。
地理的に海ではあり得ない。
どうやら僕達は、今日の目的地である熊野川に近づいたようだ。
川を右手に見る位置関係で、川沿いと並行に車道が走るようになった頃、東の空が白み始めていることに、僕は気付いた。
自宅を出てからここでちょうど3時間。
(目的地まで17km)の文字が、ナビの画面に浮いている。
20分ほど前に、長らく見ていなかったコンビニを発見し、手洗いを拝借した。
催したのは、実は僕の方で、(じゃあ、ついでに)と娘も続いた形で、2人とも小用を済ませたのだった。
この10分にも満たなかった休憩が、午前3時を少し過ぎた頃に自宅を出てからの、最初で最後の休憩だった。
さらに方向としては北上する形で車を走らせると、いよいよ東の空は明るさを増し、ついに熊野川の全貌が、微かに目視できる様になっていた。
想像以上に川の幅が広い。
見慣れている淀川河口部の半分はありそうだ。
だとすると、川幅はおよそ300mということになるのだが、これではイワナというよりは、河口部でのシーバス釣りの雰囲気である。
もちろんこれから上流に上がるにつれ、川幅は狭くなるのであろうが、それでもイメージとの違いに少し私は不安になる。
いや、待て、僕の故郷である徳島県は旧吉野川も、川幅が1kmもある河口部から10kmも遡れば、そこは鮎の有名スポットだったはずだ。
これから僕達は、15km以上も上流へ遡ることになる。
そうすれば景色は一変する可能性の方が高い。
そんなことよりも、川の様子を横目に見ながらの運転が、一番まずいのでは?と、僕は考える。
僕一人ならいいが(よくないが)、最愛の娘を助手席に乗せている。
まずは無事に現場まで到着することが、何よりの優先課題であることは疑いない。
細かいことを気にするのは止めた。
釣りでは、予め抱いていたイメージと実際のフィールドの様子に、大きく乖離が生じることはよくあるのである。
その乖離をアジャストする釣り人の能力を、『現場力』と言ったりするが、小学4年から始めた釣りである。年季だけは十分だ。
ここは自分の『現場力』を信じることにしよう。
(んっ?)やたらと娘が静かではないか。
ちらりと娘の横顔を見ると、そんな父の思考回路の展開を知ってか知らずか、上体を深くシートに沈め、少し虚ろな表情をしている。
だから少し寝とけばいいって言ったのに。
川との並走を始めてから、心なしか道路のくねりが、やや穏やかになった気がする。
直線とは呼べない、僅かばかりの直線を利用して、助手席の娘に向き直り、(少しでも寝とけば?)と、僕は言おうとした。
(えっ?)
僕は思わず言葉を飲み込んでしまう。
父親とし失格かも知れない。
男として最低かも知れない。
でもでも、その驚きは半端ではなかったのだから仕方がないだろう。
助手席のシートベルト。
言うまでもなく、このシートベルトの一番のヘビーユーザーは女房である。
家族で出掛ける時には、娘の定位置は後部座席と決まっていて、娘が助手席に乗るのは、もしかしたらこれが初めてかも知れない。
娘の左肩から右腰骨あたりに向けて掛かっている、そのシートベルトが・・・
娘の・・・その~~、何だ、つまり、想像もしていなかったボリュームとでも言うか、おバストを、上からぎゅっと締め付け、その存在を強調しているのである。
遺伝ではあり得ない。
女房は、その~~、はっきり言えば、(ない)のである。
食べ物なのか?いや、何かと外食の多い僕は別として、女房と娘は毎日同じ食事を取っているはずだ。
それとも、女房が成長期に今の食生活をしていたなら、もしかして・・・
それはない。女房の生家は裕福なのだ。
僕がか細い屋台骨である我が家の経済状況と比較すれば、今よりはいい食生活だったはずだ。
(ああ、そうか)
この度、僕は娘に、(防寒対策をしっかり)とアドバイスしていたはずだ。
セーターの下からはち切れんばかりに生地を押し上げているのは、きっとその下に着ている衣類の影響だ。
いわゆる着膨れというやつだ。きっとそうだ。
その思考に至った時の僕の心境は、80%の安心と20%の残念感。
いや、残念感とはなんだ。
よそう。考えるのはもうよそう。
(次の交差点を、右方向です)
最後に、(しばらく道なりに進むルートです)と言ったきり、暫く黙り込んでいたナビが、久方振りにしゃべった。
相変らず液晶は灰色と水色のツートンカラーだが、目的地までの距離を表す数字は、刻々と減少していて、現在3.2km。
道幅も川幅も、いつの間にか狭くなり、少しずつではあるが、渓流と呼んでいい様相を呈してきた。
(次の交差点?もしかして、これか?)
入ってみると、それは脇道というに相応しい細道。
ナビのアナウンスがなければ、気が付かなかったかも知れない細さと暗さである。
和歌山県に入ってからも、片道一車線の車道は、これまでなかった。
この日一番の曲がりくねり度で、大型の対向車が現れれば、これは行き違いに苦労するなと覚悟せねばなるまい。
さらにしばらく走行すると、車道がどんどん川筋から外れていく。
それもどんどん川が眼下に落ちていく。
道はどうやら上り勾配に差し掛かったようだ。
(本当にこの道であってるのか?)と不安がよぎるが、他に道らしきものはないし、そもそも頼るべきはカーナビの指示以外にない。
そしてついに、ナビが最後のセリフを無感情に出力する。
(間もなく目的地周辺です。音声案内を終了します)
画面表示は、(目的地まで1.1km)。
(もう大丈夫でしょ)との判断による音声終了なのだろうが、毎回不安になるのだ。
この無機質な声を聞くと。
いまどきのGPSの精度なら、もう少し親切でもいいのでは?と思ってしまうのは僕だけか。
目的地を目で探しながらの運転に、自然と車速が落ちていく。
多少きつめの上り勾配であることも影響して、ギアは先ほどから3速に入ったままだ。
変わらず道は狭い。対向車両は現れない。
「あれじゃない?」
眠りに落ちていたと思っていた助手席の娘が、唐突に表れた前方の微かな灯りを指差す。
行き違い時のエスケープゾーンのような空間が、対向車線の道路脇に確認できる。
、きちきちに詰めて駐車したとして、10台くらいの普通車は止められるスペースだろうか。
工事現場などでよく見かける、平屋の仮設ハウスのような建物の窓から、灯りが漏れている。
更に速度を落とし、注意深く徐行すると、(普通に走りゃあ見逃すでしょ)と思ってしまう小さな白い看板。
2速にシフトダウンし、ハザードランプを点灯させる。
目を凝らし、小さなその看板に書かれている文字を読む。
『熊野川漁協中流事務所』との記載。
どうやら最初の目的地に到着したようだ。
ふと肩の力が抜ける感覚。
既に2台の車が駐車してある空き地に、ハザードを焚いたまま、車を滑り込ませる。
エンジンをかけたまま、ギアをニュートラルに落とし、サイドブレーキを引く。
ふと、ナビの画面を見ると、(目的地まで200m)とある。
少し、(?)とは感じたものの、まずは入ってみることにしよう。
エンジンを切る。
「はい、長距離運転お疲れ様でした」
意外な娘の労いの言葉。
何かしらムズ痒い。
車を離れ、スライド式の扉を開けようとするが、これがガタガタと固い。
二度ほど扉は躓いたが、どうにか開いた。
中に入る。娘も続く。
「いらっしゃい」
との、親父さんのだみ声。
声の主は、やや強面、色黒、やや痩せ形のおそらく60才台と思しき小柄な親父。
その横に佇む夫人は奥様か。
(失礼ながら)日焼け顔の似合う、田舎のお母さんって感じ。
人の良さが笑顔に滲んでいる。
「おはようございます」
挨拶する僕。
「ああっ、おはようございます」
親父さんの声。見かけは怖そうだが、無愛想という感じではなく意外と話やすそうだ。
「遊漁券はここで買えます?」
「買えますよ。日券と年券がありますが、どちらでしょう?」
「日券で・・・2人分」
そんな会話をしながら、向かって右側の壁一面に吊り下げられている釣り道具が、僕には気になった。
針、道糸、浮きに混じって、スプーンやスピナーといった渓流用ルアーが各種あるではないか。そしてフライ、つまり毛鉤まで。
初めてのフィールドで釣果を上げるには、先ず何より事前情報を得ることである。
当然その情報は現場に近ければ近いほどいい。
従って、最も有益な情報とは、現場近くの釣り道具屋、若しくはフィールドで出会う他の釣り人からのものとなる。
そうなのだが、釣り道具屋と漁協は違う。
遊漁券を売っている人が釣りをするとは限らない。
しかし釣り道具も扱っているとなると、話は別だ。
期待できる。
「イワナはどこで釣れるんですか?ルアーで」
思わず振り返る。
ど真ん中ストレートというか単刀直入と言うか、その質問を投げかけたのは、何と娘である。
嬉しそうに漁協の色黒親父は、A4サイズの地図を取出し、娘を手招きする。
「今いるところがここね」
「はいはい」
「よく釣れるところはね、ここでしょ。それからここも結構いい」
「なるほど」
「ここはね、大きな声では言えないけどね、一昨日成魚を放流したところ」
「はいはい」
「他の釣り人は知らないから、真っ先にここに入ることお薦め」
縮尺の具合がどうだか判らないが、地図に描かれている川幅からすると、そんなに遠くはなさそうだ。
そんなことより・・・
まさかこんな社交性が我が娘にあったとは。
「貴重な情報ありがとうございます。あと、テント張る場所はどこがいいですか?」
そう、その問題があった。
僕だけだったら、完全に忘れていたところだ。
「テント?テント張るの?今日?」
「はい、魚釣った後、テント張って、釣ったお魚食べるの計画」
「それは楽しそうだけど・・・テント張れるところか~。夏場は下流でテント張って、花火とかバーベキューしてる人はいるけどねぇ。釣り場からはだいぶん離れてるよ」
「下流ってどのくらい下流ですか?」
「う~~ん、10キロくらいかな、距離にして」
娘が僕の方に振り返り、(どう?)との顔をする。
まあ車での移動ならさして気になる距離でもない。
(そうしようか)と答えようとした時、漁協親父が話しかける。
もちろん僕にではなく、娘にである。
「何時頃まで釣りする予定?」
(まあ夕方3時くらいまでかな~明るいうちにテント張っときたいし)
そう答えようとした僕よりも、一瞬早かった娘のアンサーバック。
「釣れるまで・・・」
懸命にフィールドで竿を振る僕。
胸元の内ポケットで震える携帯。女房からの着信。
無視する僕。5コールに設定してある留守電機能への接続までが、やたら長く感じる。
静かになる携帯。一分後、ショートメールの着信。
(いつ帰ってくる?)
竿を握ったままで、数文字の入力ももどかしく返信する僕。
(釣れたら)
繰り返される週末のよくある我が家族間のやり取り。
遺伝だ。完全に遺伝だ。
「大丈夫だよ、お嬢ちゃんなら」
なっ、何を根拠に。この親父も結構いい加減だ。
まあ、それ程魚影は濃いということか。
「3時まわったらここ閉めるでね、駐車場使ってくれてもええでよ」
そう宣われたのは田舎のお母さんの方。
「魚が釣れたら、火使うけど大丈夫ですか?」
「ええよ、後始末だけ注意してくれたら。外に簡易トイレもあるけぇ、使ってくれてええ」
すごい!我が娘ながら。
瞬く間に初老ご夫妻のハートをがっちりキャッチしたようだ。
そのことがなんだか嬉しいような悲しいような、何とも微妙。
「車はどこか止めるところはあるのですか?」
娘と老夫婦のやり取りに入り込めないでいた僕の、やっと廻ってきたマイターン。
(ああ、)
そう言ったあと、親父さんが地図を指示し教えてくれる。
娘とのやり取りの時と比べ、心なしか愛想がない。
「こことここなら、どっちも2台くらいは止めれるけぇよ」
「はあ、分りました。ありがとうございます。それからお薦めのルアーがあれば、二つ三つ欲しいのですが」
いくらか経費は出るのだろうが、遊漁券による儲けが、この夫妻の懐に転がることはないだろう。
それを思うと、少しくらいは何かこの店で物を購入しておかないとと、僕は考えたのである。
「それじゃあ、とっておきのものがあるでよ」
てっきり親父さんは、壁にかかっているルアーのうちのいくつかを選ぶのだと僕は思った。
しかしそうではなく親父さんは、後方にあった古びた木製の棚?いや、あれば箪笥だ。
箪笥を何やら物入れに流用しているのだ。
でっ、箪笥から小さなビニールに包まれたものを取り出した。
「ジジイスペシャル、ほれ」
それは少し大振りの毛鉤だった。
ジジイスペシャルということは、自分で巻いたオリジナルなのだろうか。
フライフィッシングには疎い僕には、それが何をイミテートした巻きなのかが判らない。
「うわ、綺麗~」
そう言ったのは娘である。
タイミング、イントネーション、表情、語尾の抑揚。
完璧なのである。それは完璧な年長者殺しの一撃なのである。
何が凄いかって、あざとさをまるで感じない。
そこが凄すぎる。
人並みに汚れてしまった僕には、到底纏えないピュアネスなのである。
「お父さん、二つ買って~。一つはこれで魚釣って、一つは部屋に飾る~」
「じゃあ僕のも含めて3つ下さい。いくらですか?」
「そんなジジイの巻いた針なんか売り物になるかいな。タダでええよぅ」
ご婦人の返事である。
娘は綺麗と評したが、確かに少し巻きが雑のようにも思える。
「ええよ、ええよぅ。そんなより、はよ行かな。ここよ、ここ」
先ほど、一昨日成魚を放流したというポイントを、くどいまでに何度も指差す親父さん。
「色々ありがとうございます。頑張って釣りますね」
両の腕でガッツポーズを作って胸を張る娘。
(あっ、やっぱり、胸、デカい)
その時、娘に毛鉤を手渡した親父さんの視線が、娘の胸元に向けられたのを、僕は見逃せなかった。
(この親父・・・)
「さっ、お父さん。行くよ」
ぺこりと老夫婦に挨拶し、促されるように外に出る。
やや空は曇り模様ではあったが、東の太陽は、既に丸かった。




