第十三夜:岩魚の紡ぐ(3)
なかなか筆が進みません。仕事最優先ということでご了承頂きたく、宜しくお願いします。
帰宅すると既に女房の姿はなかった。
金曜日の20時。
娘の話によると、今回の旅行の発起人である友人の身勝手さを愚痴りながらも、それなりに嬉しそうな顔をして旅路についたらしい。
この時間なら、関空行きのリムジンは、もう和歌山県に入っていることだろうと、娘は言う。
奇しくも僕達2人も数時間後には、和歌山に向けて出発することになるのだが。
女房に対しては、(2人で釣りに行く)というニュアンスで今回の僕達の予定を伝えている。
「あら、珍しい」
とはその時の女房のセリフである。
釣りよりも今回の目的としての比重が高いキャンプについては内緒にしていた。
内緒にしているというよりは、伝えていないというほうが正しい。
決して嘘をついている訳ではない。
伝えていない事実があるというだけだ。
これは嘘とは呼ばないはずだ。きっと。
キャンプに行くことを女房に伝えないでおこうというのは、これは娘の提案である。
女房の性格を鑑みると、キャンプに行くとなると、あれやこれやと世話を焼きたがるだろう。
それが面倒くさいし嫌だというのが、どうも娘の言い分だ。
言われてみると、(なるほど)と腑に落ちる部分がある。
女房の世話焼きの性格もそう。娘の頑固なまでの自立心もしかり。
知らぬ間に、大人への階段を着実に踏みしめている娘の成長を、ここ二週間で垣間見ていた僕は、この娘の希望を尊重する選択をしたのだった。
3000円という格安で購入した中古品のテントも、こっそりと押し入れから抜き出した毛布も、およそカサの高いものは、先週末を利用して既に車のトランクに積み込んである。
私の担当する釣り道具は、もちろん準備万端。
リールの糸も全て新品に巻きなおしてある。
暦の上では春と言える時期ではあるが、3月の夜気は冷たい。
昼間には、(ああ、春になったな)と感じる陽気に油断すると、大抵は厳しいしっぺ返しを喰らうことになる。
夜釣りを嗜む僕の経験値である。
(防寒対策はしっかりするように)という僕のアドバイスを受け、娘は冬物のセータやらダウンジャケットやらをしっかりと準備しているはずである。
場合によっては、沢を歩くこともあるだろうと、4日前の仕事帰りに娘用にとトレッキングブーツを一足、僕は購入していた。
この時、店の前から娘に電話を入れ、(足のサイズは?)と聞いていたので、予想はしていたであろうが、僕の期待以上にこのプレゼントを喜んでくれた。
娘の一番好きな色が黄色であることを知っている僕は、黄色と呼べなくはない薄茶色のブーツを選んだのである。
予定外の出費ではあったが、沢歩きというものは、思いのほか足首に負担がかかるし、毒ヘビと遭遇する可能性もゼロではないだろう。
万に一つの危険も、事前に回避する術があるなら、その全てを講じるべきなのである。
それが自然に人が遊んでもらうための、最低限の礼儀だと僕は思う。
素直に娘が言うことを聞いていてくれたなら、ここ数日で可能な限りこのブーツに足を通し、履き慣らしていることだろう。
いずれにせよ、娘の笑顔は、僕には嬉しかった。
残りの荷物を車に積み込む作業は、さほどの労力ではない。
女房が造り置いていた夕食で腹を満たし、風呂に入って仮眠を取り、出発予定は朝の3時。
現場への到着予定時刻は7時頃。
娘の計画通り、下道を利用しての所要時間である。
到着と同時に、まず遊漁券を地元漁協で購入し、夜明けと同時にモーニングバイトを期待して竿を出す。
午前中たっぷりと竿を出した後、昼過ぎからテントを張る場所、つまりベースキャンプの場所探索とする。
日が暮れるまでにテントを設営し、少し遅めの昼食とする。
運が良ければ、午前中に釣ったイワナの塩焼きがメインディッシュとなるかも知れない。
テントの設営時間にも依るが、もしかしたら夕まずめに、もう一度竿を出すチャンスがあるかも知れない。
そんな感じが、取らぬ狸の僕と娘の作戦概要である。
ここでの大きな不安材料の一つがテントの設営。
中古で安く買ったはよいが、取扱説明書が付属されていなかったのである。
恐らくは前の所有者が、もう不要とばかりに捨てたのだろう。
さすがに家の中で組立の練習をするという訳にもいかず、これは行き当たりばったりということになってしまう。
この事に関して、僕よりも早く、(まあ何とかなるでしょ)と口にした娘に、まさに自分の性格の遺伝を見る思いだった。
「最悪は車でも寝れるし」
とのセリフを聞いた時には、初めからそれでよかったじゃないかと少し呆れもした。
ともあれ、10時を回る頃には、僕は夕食と入浴を終えた。
4時間半という睡眠時間は、どうしても確保したい時間である。
僕は布団に潜り込もうとする。
4時間余りのドライブに油断は禁物なのだ。
時計のアラームを2時半にセットした時、通常はまずあり得ない起床時間の設定に、非日常を得るための旅の入り口に立ったことを、僕は感じていた。
何だか確かに興奮している。
「ちょっと待って」
「えっ、何を?」
まさに掛布団に手をかけた僕の動きを娘が制する。
「髪びちゃびちゃじゃない。枕濡れちゃうし、風邪ひくよ」
そう言ってポータブル型のドライヤーを手渡すパジャマ姿の娘。
一刻でも早く眠りに付きたい僕は、それでもこれも娘の優しさなのかと思い、素直にそれを受け取る。
『強』に風量を上げ、一気に髪を乾かそうとしているその横で、きっちりと部屋の隅に折りたたまれていた女房の敷布団を、どういう訳か娘は広げ始めた。
(えっ?)という表情をしたであろう僕。
「二階は寒いから、今日はここで寝るよ」
二階の自分の部屋ではなく、普段女房が使っている布団と場所、つまりは僕の横で娘は寝ると言っているのだ。
別に異議を申し立てるこれと言った理由もないが、娘と布団を並べて寝るのは一体いつ何時以来だろう。
そんな感傷に浸る間を与えず、さっさと敷いた布団に、僕を差し置き娘が潜り込む。
「髪乾かし終わったら、電気消してね。じゃ、お休み~~」
そう言って、僕に背中を向けて寝転がる娘。
その背中のボリュームが、見慣れている女房の背中と比較しても、それ程小さくは見えないことに、またもや娘の成長を実感する。
そしてこれも偶然なのだろうが、左肩を下にして寝る癖が、全く女房と同じなのである。
その僅か5分後、(豆球は点けておいたほうがいい?)と僕が問いかけた時には、相変らず左肩を下にした状態で、柔らかな寝息を立てていた。
その5時間後、地下の立体駐車場を急角度で駆け上がった僕の車のヘッドライトが、夜の帳を照らした時、その闇の深さと静けさに驚く。
寝静まった街を照らすライトの照射範囲は狭く、暗中模索の冒険旅行の始まりを暗示しているように思えた。
ふと助手席に座る娘の横顔を見る。
その娘の視線は、ヘッドライトが照らすその先の闇を、真っすぐに見つめているように思えた。




