第百夜:この軽犯罪を二人の秘密にしよう(了)
ついに100話です。『百夜釣友』ではなくなったけど
子供の足首なら先がすっぽりと入ってしまいそうな巨大な口に、加藤君が右手を滑り込ませた。
黒く巨大な魚は、このとき2回だけ頭をくねらせたが、その動きは弱々しかった。
10分以上に及んだであろう陸と水中との力比べ。敗者が、残った体力の全てを2回に分けて吐き出した、そんな緩慢な動きだった。
永く、そして地道だった加藤君の戦いに、ついに決着の瞬間が訪れた。
左手に握られていた釣り竿を放し、こちらの手も魚のあごに添えて、両手で一気に、彼は魚を濡れた陸に引きずり上げた。
彼が追い求めた巨大な生物の全貌を、僕は初めて直接目に捕える。
黒いと思っていた魚体は、実は濃緑色だった。くっきりとした側面の黒い縞模様が、とても綺麗だ。何よりデカい。そして太い。ラグビーボールにうちわ型の尾鰭を付ければ、正にその姿そのままだ。いや、形がそうだと言うのであって、ラグビーボールなんかより遥かにデカくて太い。
言葉を失っている僕の横で、加藤君が声にならない声を漏らしている。
僕の勝手な想像であるが、きっと彼は、今は亡きお父さんへの、何かの報告をしているのだろうと思った。ぐいと、すでに雨で濡れている左の腕で、両目をぬぐうような仕草を見せたあと、振り切るように力強く、彼は発した。
「さあ、本当の救出はこれからだ」
「うん、そうだね」
辛うじて僕は、そう言葉を吐き出すことができた。
加藤君の顔が少し青ざめている。
年不相応とすら思えるほど、いつも冷静で知的な顔立ちの彼が、こんな不安そうな表情を見せるのは初めてのことだ。
池の水をクーラーボックスに注いだのは僕である。
たったそれだけのことではあるが、それでも少しだけ加藤君の役に立てたことが、僕的にはとても嬉しかった。
彼の両手は、魚の下あごをしっかりと握り、魚が弱らぬよう体を池の水に浸している。
魚は抵抗する素振りがない。それでもしっかりとエラをはためかせていた。
何だか魚の方が加藤君に、全幅の信頼を抱いている。そんなふうにさえ思えた。
「こんなものでいいかな?」
クーラーボックスの中ほどまで水を注いだ僕は、そう加藤君に声かける。
魚を再び水面から引き揚げ、クーラーボックスに入れてみて、そして彼は青ざめたのである。
大きなクーラーボックスの対角線を一杯に使っても、歪に魚体が曲がっている。
方向の転換なんかは言うに及ばず、体を伸ばすことすらできようがない。
今も魚はエラを忙しなく動かしている。激しく長かった加藤君との闘いで、すっかり体力を消耗しているようだ。
何というのか、ぶくぶく、つまり空気を水中に送り込む装置が、稼働していることを示す独特の一定音を立てているが、魚の大きさに対して、あまりにもそれは頼りない印象だ。
そして最大の問題。加藤君はこれから道のりにして、ここから20km以上北に位置する東条湖まで、魚を活かしたまま自転車で運ぶ予定なのだ。しかもその道のりの大半は上り坂である。その所要時間は楽観的にみて一時間半。
この狭いクーラーボックスに閉じ込められた魚が、無事に東条湖までたどり着くとは到底考えにくい。
それが分かっているからこその、加藤君の表情なのだろう。
それにしても、神とはなんと残酷なのだろうと、僕は思わずにはいられない。
とっ、その時、奇妙な考えがふと天から落ちてきた。
妙案と言ってよいか分からない。起死回生という訳でもないだろう。でも・・・
僕は携帯電話を取り出し、ある番号をプッシュしていた。
「それにしてもデカいバスだなぁ。まあ70センチ級のバスは、琵琶湖なんかにはいるってことが分かっているらしい。それでも60センチを超えるバスってのは、こうやって実際に目にすると、とんでもない迫力だなぁ」
ほんの1~2分前、この四つ池に到着した西川が、それを見るなり驚嘆の色を見せた。
別にメジャーなんかを使って、この魚のサイズを測った訳ではない。そんなことをして魚に不要なストレスを与えることを懸念しているのだろう。それでもこの魚が60センチを超えていることは一目で判るほどの巨大さなのだ。
「でっ、こんな朝早くにわざわざ俺を呼んだのは、どう言う訳だい?」
思い立って、というより衝動的に、西川の携帯に連絡を入れたのはもちろん僕だ。
彼も僕と同じく、今日は非番であることを、僕は知っていた。
(できれば今から四つ池に車で来て欲しいのだけれども)
こんな訳の分からない電話を、休日の早朝に受ければ、僕でもまずはその理由を問うことだろう。でも西川はそんなことを一切口にしなかった。
しばらくの沈黙のあと、(わかった)とだけ言って、あっさりと電話を切った。そしてその通りに、ものの15分ほどで、この四つ池の辺に現れたのである。
「いや、良いものを見せて貰った。一生に一度、見れるかどうかのバスだよな、これは。でも、この魚を見せることだけのために俺を呼んだ訳じゃないんだろう?」
西川の目が笑っていない。無理に呼び出したことを咎めているのだろうか。単純にそうとも読み取れない。何だろう、この西川の厳しい表情が語るものは。
「じつは・・・」
この若い少年は、加藤君と言って、N中学の生徒であること。
この大きなバスと言う魚は、以前に彼のお父さんが琵琶湖で釣り上げたものであること。
加藤君のお父さんはすでに故人となっていること。
この四つ池が埋め立てられる前に、この思い出の魚を何とか救出したいと考えている事。
この魚を今日釣り上げるに至ったのは、とんでもない時間と労力の結晶であること。
これからこの魚を東条湖まで運ぶ予定であること。
拙い言葉の羅列で、僕は西川に説明する。僕の口下手は今に始まったことではないが、今ほど自分の口下手さに苛立ったことは、それまでにそうそうない。
その間、加藤君の表情に大きな変化はなかった。
意味深な深いため息を、ここで西川が一つ吐いた。長く、そして深いため息だった。
ゆっくりと口を開く。
「なぁ、水谷、俺たちはなんだ?」
「えっ?」
西川の問い掛けの意味が、僕にはすぐに分からなかった。いや、意味は分かったのだが、そこに込められた意図が判らなかった。端から僕の返答は期待してなかったのだろう。すぐに西川から言葉が続いた。
「俺たちは警察官だ。警察官は市民が法を犯さないよう管理、監視することが仕事だ。例え、それがどんな悪法であってもだ」
固く、そして厳しい西川の言葉だった。加藤君の表情が強張る。そして僕は色を失う。
もちろん良かれと思って西川に連絡したのだ。それが取り返しのつかない余計なお節介だったのではないか。そのことを僕は瞬時に理解した。3人の間に、どうしょうもない沈黙の時間が訪れた。
その時、これまで僕に話しかけていた西川が、ふいに加藤君に視線の向きを変えた。
「え~っと、加藤君だったけ?」
「はい」
消え入りそうな小さな加藤君の応答だ。想像もできない絶望感が、彼を支配しているのだと僕は思った。そして、自分がしてしまったことへの激しい後悔。
「N中の生徒さんだったよね」
もう加藤君は返事すらもしない。またも沈黙の時間が流れる。
と、この時、西川はふいに上着の胸ポケットに手を差し込んだ。取り出したもの、それはたばこだった。ソフトパッケージに口を寄せ、器用に一本のたばこを唇に咥えた。
ライターを着火させる。雨はまだ降っていたが、ライターの火を消すほどの量ではない。
僕はこれまで仕事中に西川がたばこを吸う姿を一度も見たことがなかった。仕事中は喫煙せず、休日のみ嗜むという吸い方をしているのだろうか。
大きく胸を広げて煙を吸い込む様が、愛煙家のそれだ。しかし、彼はなぜ今のタイミングでたばこを口にしたのだろう。
西川が煙を吹かす姿を、変わらぬ固い表情で加藤君は見ている。西川の次の言葉を待っているのだろう。
大量の煙を湿った空気中に吐き出し、西川がついに口を開いた。
「加藤君も知っていると思うがね、バスという魚を他の水域に移動させるのは、立派な犯罪行為だ。そして俺たちは警察官だ。他の職業ならともかく、俺たちがその犯罪行為を看過する訳にはいかない」
膝が崩れそうになる。僕は何という失敗を犯してしまったのだろう。加藤君の思いや、彼の積み重ねてきた努力を、軽率な一本の電話によってぶち壊してしまったのだ。
そんなことより、僕は一体どんな態で彼に誤ればいいのだろう。もう僕は怖くて加藤君の表情を伺うことすらできない。地に落ちた視線を上げることができない。
(ひゅんっ)と何か白いものが空を走り、水面に落ちた。落としていた視線の片隅に、それが写った。水面を見つめる。たばこだ。今まで西川が口にしていたたばこが、水面、岸際ぎりぎりに浮いていた。
警察官として、いや、それ以前に人間として、許されざる所作。
そして、そこに生息する全ての生物の尊厳をないがしろにする行為。
加藤君が、厳しい批判を込めた視線を、西川に突き刺したのが分かった。
その視線の先にある西川の表情を、僕は確かめる。それだけのことが勇気の要る行為だった。
そして僕が見たのは、意外にも、穏やかで優しい笑みと言ってよい表情だった。
「偉そうなことを言った警察官の俺が、こんな犯罪行為を見られちゃあ、人の犯罪をどうこう言うことはできないなぁ。加藤君、勝手なお願いなんだけど、今の、無かったことにしようじゃないか、お互いに・・・ねっ」
日の付いたタバコを、池に放り捨てるという尋常でない西川の行為の意味が、この時やっと僕は理解した。聡明な加藤君にも、当然そのことは分かっただろう。でも、彼は厳しい表情を、今も和らげない。
「なぁ、加藤君。知っての通り、俺も、そこの水谷も警察官だ。市民が法を守ることのお手伝いが、俺達の仕事だ。そんな俺たちが、理不尽だと思う事が、世にはある。法に沿っているはずの理不尽がね。たまに、今の仕事が嫌になっちまうことだってある」
加藤君は切れ長なその瞳を、まっすぐ西川に向けている。凛とした強さを宿した視線だ。
「N中の生徒さんなら、やっぱり将来はT大へ入ろうって思ってるのかい?」
「はい」
真っすぐ迷わず、加藤君は西川の問いに答えた。
(うん)
その答えを確認し、一回だけ強く頷いたあと、西川が言った。何だかとても優しそうで、でも厳しいとすら思える内容だった。
「将来、君がどんな職業に就くのか、俺には分からない。でも、絶対に妥協しないで欲しい。もし、役所や企業に勤めたならば、真っすぐに出世を目指して欲しい。時に、何の意味があるんだろうと思うことも、きっとあると思う。そんな時は、例え自分自身に嘘をついてでも、出世のためのあらゆる努力を怠らないで欲しい」
加藤君は変わらず真っすぐに、無言で西川の言葉を聞いている。納得している様子でも反発している様子でもない。
「バスという魚が受けた被害というか、不幸というか、それは加藤君、知っているだろう?むりやり日本に連れてこられて80年以上の年月が流れ、そしてこの度、(お前たちは悪者の外来種)って言い分で、これからどんどん駆除されていくことになる。きっと全国規模で・・・」
「はい」
「俺は、君ほどバスという魚に対して思い入れはない。そんな俺が、それでもこの度のバスの扱われ方は理不尽だと思っている」
加藤君が黙り込む。それでも彼の目が宿す光は、些かも衰えない。
「少し昔話をしようか。俺が小学生の頃だ。学校の校則でね、資源節約って名目で、(トイレットペーパーを1回30センチまでの使用とすること)ってのがあった。何ともおかしな校則だと思ってね、手を挙げて質問したんだ。“先生、誰がどうやって違反を取り締まるんですか?”ってね」
「その時、先生は何と答えたんですか?」
「校則違反を咎めるのではなく、意識することが大事だ!だってさ。納得はできかねたね。だったら校則にするなよって感じだよな。でも小学生の俺には、例えそれがおかしいと思っても、どうすることもできなかった。単純に実力不足だったんだ。当時はね。そして世に対して実力不足なのは、今も何一つ変わらない」
加藤君は、西川の言葉にうなずいたりはしない。彼らしく真っすぐにその言葉を受け止めている。
「力を手にすることだよ。くだらないルールをくだらないと言える。理不尽を理不尽だと言える。そんな力をね。そのためには、まっ、T大くらいは出ておくのも無駄なことじゃない。さて、そんなことより・・・」
「この大きなバス君を、東条湖まで運ぶとするか。それほど猶予なないだろう。早く車に乗せよう。それと、言うまでもないが、お互い軽犯罪を犯した身だからね。この軽犯罪を二人の秘密にしよう」
真っすぐに西川を睨みつけていた加藤君が、この時、すこし視線を落とした。
「ありがとうございます」
小さな声で、それでもはっきりと、僕はその声を聞き取ることができた。
雨音が小さくなっていた。
「じゃあ、そういうことで。でっ、水谷はどうする?」
えっ、僕?僕は・・・どうするのだろう。ぶるりとこの時、体が震えた。長く雨に濡れたためだけの震えじゃない。
「僕は・・・ちょっと待っていてください」
2人に背を向け、池の周辺を囲んでいる草藪の中で、一番濃い茂みに僕は歩を向けた。
たっぷりと湿り気を含んだ雨合羽のズボンのファスナーを下ろす。
随分と前から自覚していた尿意を堪えていたため、膀胱の筋肉が緊張してたのだろう。なかなか尿が下りてこない。数秒後、やっと細い筋となって放尿が開始された。
こんなに続くかと自分で思ってしまうほど、僕の放尿は長かった。
草藪の中から戻ってきた僕を、西川と加藤君の二人は、半ば呆れたような顔で見ていた。
少し恥ずかしかったが、僕は放尿しながら考えていた言葉を口にする。
「これも立派な軽犯罪ですよね。この軽犯罪を二人だけの秘密じゃなく、3人の秘密ってことでお願いします」
少し加藤君がこの時、僅かな笑みをその顔立ちに含んだことが、僕には嬉しかった。
「じゃあ、ちょっとドライブに行きますか」
西川が大きく重いであろうクーラーボックスを肩に担いで、そう言った。
県道175号線を北に向かう2人と一匹を乗せた西川の車を、僕はそれが見えなくなるまで見送った。雨は止んでいた。
ふと茂みの向こう側にある四つ池の方に、視線を向ける。
以前、加藤君が、この四つ池に隣り合っていた池が埋め垂れられた際の惨状を語ってくれたことを思い出した。
この四つ池が、もし埋め立てられることになったら、そこに生息する生物にとって、またそんな惨劇が降りかかるのだろうと思うと、晴れやかになっている僕の心に、少しだけさざ波が立った。
(くだらないルールをくだらないと言える、理不尽を理不尽と言える、そんな力)
西川が言った言葉を反芻する。
これから僕は、世の理不尽に対して、どれだけ警察官として抗っていけるのだろう。
そんなことを考えながら、もう一度四つ池の水面を何故か見ておきたくなって、僕は再び藪に向かって歩き出した。
このため池が埋め立てられる理由は、街の美観のためだそうだが、色とりどりの名も知らぬ花が咲いているこの景色は、十分に美しいと僕は思った。




