第一夜:老人と少女のルアー釣り
「釣りは何か面白いの?」
ある友人の問い掛けに、敵意の様なものは一切含まれていなかった。
単純に、こうまで釣りにのめり込んでいる私に対しての純粋な好奇心であったのだろう。
その時私はどの様に答えたか。
その事が思い出せない。
数十年も前に問われた、その疑問に対する適切な答えが今も判らない。その質問は、私にとってはあまりにも根本的すぎるのかも知れない。
根本的なものは説明できない。
或いは、「釣り人とは釣りが好きな人種である」と、開き直った答えでもいいのかも知れないが、どこか困難を切って逃げている感が否めない。
釣りに行くことは魚に出会いに行くこと。
これは正しくその通りである。
では魚に出会えなければ、釣りは楽しくないかというと、そうではない。
魚が釣れない釣行も、時には己の未熟さや自然の手厳しさを恨みつつも、それでもやはり楽しい。
一期一会という言葉がある。
同じ時期に、同じ場所に、同じ魚を釣りに行っても、一度として同じ状況というのはない。
そんな二度とない自然との会話を求める。
そう言うと、少し私の考える釣りの概念とはずれてしまう。
でも、あながちそれも、全くの嘘ではない。
そう言った感覚は、やはりある。
少なくとも私は、他の釣り人と出会いたいがために釣りに出かけることはない。
むしろ他の釣り人がいないほうが、魚を釣る状況としては恵まれていると言える。
それでも釣り場で、全く人と出会わないことは、そうそうあるものではない。
そして出会ってしまったが最後、基本的に同じ穴の狢である。
恐ろしいことに、大抵は心が通じ合ってしまう。
釣りとは出会いの場である。
そう括ってしまうと、完全に私の思う釣りの本質とかけ離れてしまって、なんのこっちゃとなってしまう。
でも出会うのである。
魚と、自然と、人と。
一体私は、釣りによって何に出会っているのか。
悩んだ末、本著では、これ等・彼らを、「友」とした。
「友」との出会いや別れを、徒然と記しているうちに、いつか答えられる日か来るのだろうか。
「釣りは何か面白いの?」
白髪初老のその人は、若い少女と並んで早朝の堤防に立ち、釣りをしていた。
手返しが早い。
(えいっ)とばかりに仕掛けを投げては、リールを巻く。
また投げて、また巻く。
魚が釣れている様子はない。
ルアー釣りである。
少女は年の頃10才くらいであろうか。
西からの潮風に揺れる黒髪が、時折朝日を受けて、赤茶色の暖かな輝きを反射する。
10月後半の週末。
少し冷たい風には、もう残暑の名残はなかった。
微風というには強く、強風という程でもない。
西方向にあけたこの漁港では、この方角から吹く風を遮るものがない。
海面と風が交わり、生み出された白波が、一定のリズムを保ち、二人の立つコンクリートの防波堤に繰り返し届いている。
秋晴れの一日となりそうだ。
規模の大小や、少しばかりの時期のズレはあるが、毎年これくらいの季節、この湾内に、カタクチイワシが群れをなして入り込む。
それを捕食しているハマチ(鰤の幼魚)やサゴシ(鰆の幼魚)が、沖堤防に渡らずとも岸から釣れるのがこの時期なのである。
例年の通りであれば、あと二週間もすれば、暗い時間帯には太刀魚が、その釣果に混ざることだろう。
少女の投じたルアーが、青く高い空に放物線を描き、40メートルほど沖の海面に着水する。
透き通った青い海ではない。
都会の海の色だ。
食べたり寝たりという人々の営みや、喜びや悲しみといった感情までがその海に溶け込んでいるかのようだ。
美しくはない。しかしどこかその色には温もりを感じる。
「ルリは投げるのが上手くなったなぁ」
そう言って竿を振った老人が投じたルアーは、今しがた少女が飛ばした距離の半分ほどの場所に、くるくると回転しながら空中で失速し、そして落下した。
「おじいちゃんは飛ばないなぁ」
自嘲気味にそう少女に話しかける。
如何にも得意げな表情で少女が応える。
「だっておじいちゃんの竿、ルアー用じゃないもん。ルリのはルアー用だもん」
そう言った少女の顔は満足気だ。
魚が釣れずとも、きっと彼女にとっては楽しいひと時なのだと、その表情が語っている。
老人が振っているのは、長さ4メートル強の磯竿だろうか。
一方で少女の持つのは、3メートルに満たない、老人のものと比べるとやや短めの竿である。
少女の持つ釣り竿が、日の光を受け、カーボン素材独特の美しい螺旋模様を浮き上がらせる。
と、2人の立つ位置から30メートル程沖合で、突然ナブラが起こる。
カタクチイワシの塊が、何か大型の魚に追われ、海面付近で逃げ惑っているのである。
「ルリ、あそこ、あそこ」
初老の人がそう口にする前に、女子はそのナブラ目がけて仕掛けを投入していた。
少女の渾身の投てきは、僅かにナブラに届かなかった。
懸命にリールを巻いて仕掛けを回収しようとする少女。
それを横目に見ながら老人も自分の竿を、ナブラに向けて振る。
力の入った投てき動作だった。
シャラシャラシャラという奇妙な音が起こり、ナブラに投げられたはずのルアーはいくらも飛ばず、老人のすぐ前の海面に、派手な着水音を立てて落ちた。
リールと元ガイドの間で、道糸が複雑に絡まり合っている。
「あちゃ~~いかん、おじいちゃん、オマツリした。ルリ、早く投げて」
既にルアーを回収していた少女が、もう一度力強く竿を振る。
今度は今なお続いているナブラに届いた。
リールを巻き始める少女。
突然少女の持つ釣り竿が大きくしなり、リールを巻く動作が止まる。
「来た!」
「おおっ!」
少女が立てた釣り竿が三日月のような曲線を描き、時折ぐいぐいと、その先に存在する生命の強い躍動を伝えている。
しかしその力の均衡は、ものの数秒で終焉を迎えた。
急に力比べの相手を失った釣り竿は、大きく上方向にその穂先の向きを変えた。
「あ~~、外れた」
「残念!ルリ、もう一回、もう一回」
老人の声を聞き、気を取り直したようにリールを巻く少女であるが、糸が風に煽られ大きく空になびいている。
糸の先には、何もない。
仕掛けを持って行かれたのである。
老人の仕掛けの方も糸が絡まり、投てきができる状態ではない。
2人は絶好のチャンスを同時に逃した。
規模の小さかったナブラによる海面の沸騰は、30秒にも満たない時間のうちに何事もなかったかのように穏やかになった。
ただ西風が、それのみが仕事であるように、同じ周期で白い波を護岸に運び続けていた。
「惜しかったですね」
2人に声を掛けたのは40代半ばと思しき釣り人だった。
いつから2人の様子を見ていたのだろうか。
背中には大きな楕円型のタモ、腰には赤いウエストバッグ。
最小限の装備にして、しかし十分である。
男の持つ釣り竿の先には、鮮やかな青色のルアーがぶら下がっている。
佇まいが様になっている。
一見して手練れの釣師だろうと思われる雰囲気を纏っている。
「どうも糸を切られたみたいで・・・」
そう答えたのは老人の方である。
「ええ」
少女の持つ釣り竿の先で、今も糸がたなびいている。
その先を見つめていた男が言う。
「リーダーを付けてないと、ちょっと厳しいかも知れませんね」
「あの、リーダーというのは?あまりルアー釣りって詳しくないんです」
僅かな沈黙があった。
ルアー釣りに疎いであろうこの老人に、どう説明したものかと男が悩んだための沈黙のようだ。
男は竿を持ち立ち尽くしている少女の方に向き直り、言葉をかける。
「ちょっと竿貸してくれる?」
少女から釣り竿を受け取った男は、なびいている糸の先を指先で捕まえた。
「PEラインって分かりますか?」
「ピーイーですか?いや、分かりません」
(そうですか)という顔をして男が続ける。
「この糸がそのPEラインという糸です。ポリエチレンを編んで作った糸で、引っ張り強度は抜群に強いんですが、摩擦に弱いという欠点があるんです。だから普通はこの糸の先に、リーダーといってナイロンやフロロカーボン素材の糸を繋いで使うんです。そうすれば、魚の歯や体に糸が擦られて切れるということが少なくなります。おじい・・・そっちのリールに巻かれている糸はおそらくナイロンだと思います。同じ太さなら4倍くらいPEの方が強いです」
老人に対して、(おじいさん)と言おうとして男はその言葉を飲み込んだようだ。
初対面でその呼び方は、多少失礼だとでも思ったのだろうか。
「そうなんですか」
その老人の言葉を聞きながら、男はごそごそと自分のウエストバッグの中を物色した。
「まだチャンスはあると思いますんで、リーダー付けときますね」
バッグから丸型のボビンを取り出して手慣れた仕草で糸と糸を繋ぐ作業に入った。
「ありがとうございます。でもいいんですか」
申し訳なさそうに老人が言う。
少女の方は、何の言葉を発さず大人しく男の手元を見つめている。
「いいですよ。どうせなら釣って帰って欲しいですからね」
言いながら男の手は澱むことなく作業を続けている。
「今フロロの4号を結んでいます。これくらいなら少し大きな魚が来ても大丈夫だと思います。それにしても・・・、はい、できました」
「本当にありがとうございます」
「さて、ルアーはどうします?」
「ああ、あります、あります。どれがいいんでしょうか?本当によく判らなくて・・・」
古びたジャケットのポケットから小さなボックスを取り出した老人が、その中身を男に見せる。
4つ、5つのルアーが入っていた。
その中身を男は見るが、すぐにはルアーを選ばない。
そのうちの1つのルアーを右手の指で摘みあげては見たが、結局は老人の持つボックスにそれを戻した。
急に男は自分のウエストバッグの中身を再び探り始めた。
「1つルアーをプレゼントします。是非釣って下さい」
「いや、流石にそこまでして貰っては・・・」
老人がその言葉を言い終える時には、既に男は自分のバッグから取り出したルアーを糸の先に結び始めていた。
男の釣り竿の先に結ばれているのと同じ、鮮やかな濃い青色のルアー。
「ちょっと投げてみる?」
ルアーを結び終えた後、男はそう言って少女に竿を戻す。
(ありがとうございます)
消え入りそうな小さな声で、少女はそう言って竿を受け取る。
「本当にいいんですか?その、ルアーって高いものなのでしょう」
「いいですよ、売るほど持ってますし。それにしても・・・」
少女が再び海面に向かう姿を見ながら、男が言う。
「それにしても、いいタックルですね」
少し老人はきょとんとした表情を見せた。
タックルという言葉が、どうもぴんと来なかった様子だ。
「いいタックルなんですか?高いものなんでしょうか?実はあれ、貰い物でして・・・」
「いいですね。竿もリールも決してハイエンドモデルという訳ではないんですが、全体のバランスがいいと言うか。ここでこの時期、この釣りをするにはベストなセットじゃないですかねぇ、竿もリールも、糸の太さも、重量も」
「あの竿、実はちょうど去年の今頃に、この場所で釣りをしていた人に頂いたんですよ。もう使わないからって。勿論遠慮はしたんですが、いいからいいからと言われまして・・・」
「それは何とも・・・気前のいい人だったんですねぇ」
「上手な人でしたねぇ。私は餌釣りをしていたんですが、その横で次々に魚を釣られて・・・」
「ふ~~ん」
「私が見ただけでも、次々に5匹は釣ってましたかねぇ。あまりにも釣るもんですから、その人に話かけたんですよ、ルアーって本当によく釣れるんですねって。しばらく横に並んで釣りをしました。それでもやっぱり釣るのはその人ばかりでして。そして別れ際、(もう使わないんでどうぞ)って頂いたのが、今孫の使っている釣り竿です」
「もう使わない?」
「古くなったんで新しいのに買い替える予定だって言われていました」
男が(う~~ん)という顔をする。
何か腑に落ちないものがあるようだ。
「古くなったから。本当にそう言ったんですか、その人は?それは去年ですよね」
「ええ、去年のことです」
(う~~ん)という考え込む男の表情が深くなる。
流石に老人もそのことを訝しく思えたようだ。
「あの、何かおかしなことでも・・・」
「買い替えるというのは本当かも知れませんが、古くなったからというのは少なくともおかしいですね」
「確かに傷とかも無いですし、いくらも使い込んだ道具には見えませんでした。リールの回転も見たこともない滑らかでして。その時にはとても丁寧に道具を使う人なのかと思っていました」
「いや、その・・・リールなんですが・・・実は去年発売されたばかりの物なんです。宇宙服の技術を応用して海水なんかが入ってこない構造になっていて、まあ画期的な技術だそうです。この技術の採用で、リールの寿命が一気に延びるそうです。メーカに言わせると」
「でも確かに、そういう言い方をさせましたねぇ」
「どんな方だったんですか?その人は」
「確かバイクに乗って来ていました。バイクの横に、こう、筒状のものが取り付けられていて、竿が差せるようになってました。年齢は、そうですね、40才前後でしょうか。小柄な人だったと記憶してます。それと・・・」
「それと?」
「とても優しそうな穏やかな顔をされていましたが、どこか寂しそうとも感じました」
この時、男の表情が、(あっ)という何かを思いつく表情に変わる。
「その人、ベイトタックルで釣りしてませんでしたか?」
「ベイト?」
「え~~と、そんな形のリールでなくて、タイコ型というか・・・」
男はまたも説明に困っている。
老人が閃いたように言う。
「両軸リールのことでしょうか?」
「そう、そうです。両軸リールともいいます」
「いや~、どうだったかな」
「その人が僕の知っている人だったら、それは上手いはずです。ここらの主という感じの人でしたから」
「そんなにお上手な人だったんですか?」
「上手かったですねぇ。そして何が上手いのか僕達にはよく判らない。ほら、基本ルアー釣りって動作自体は単純じゃないですか。投げて巻くだけ。今日みたいにナブラが湧いているときは特に」
「ええ、そう言い切れるほど、ルアーのことが判る訳ではないですが」
「なんていうのかな、群れについていくというか、予めどこでナブラが起こるのか判っているというか、あの人の横で竿を出すのが正解。仲間うちではそんなことを言われてました。今年は会いました?その人と」
「いや、今年はまだお会いしてませんねぇ。先月から3回くらいはここに来ているのですが」
「そうですか。もしかしたらもう行っちゃったのかも知れないなぁ」
「もう行っちゃったというのは?」
「いや、ご家族の方がね・・・少しお体が悪いらしくて。介護のために奥さんの実家に戻るかもというような話をされてたもので、確か四国だとか。そんな話を最後にしたのが、タチウオの季節だったから、去年の年末頃かな」
「春先もセイゴを狙って何度かここに来たのですが、お会いしませんでした。お礼を言わなければと思っていたのですが」
「僕も春先は会ってませんねぇ。あの人と一緒に釣りをするは本当に楽しかったのですが」
「どう楽しかったのでしょう?」
「そうですねぇ、非常に研究熱心な人で、色々と新しいことを試したりしていました。メタルバイブ、ああっ、金属の鉄板のようなルアーなんですが、それを遠投して青物を狙うって釣りは、あの人がここら辺りでは最初に始めたようです。去年辺りからはベイトタックルでの青物釣りを模索しているって言ってました」
「よく判らないんですが、そのベイトタックルでの釣りって難しいんでしょうか?」
「一般的にはスピニングタックルの方が使いやすいでしょうね。PEラインと、ああ、彼女の使っている糸のことですね、それと相性のいいベイトタックルがないと言ってました。」
「ピーイーラインというのは、やはりいいんでしょうか?」
「いいですね。PEラインの出現によって、岸から青物が狙えるようになったと言ってもいいんじゃないでしょうか」
「ベイトっていうのは?」
「ベイトリールの方が、スピニング、ああ、そのリールです。それに比べて巻上のパワーがあるんですね。あと太い糸が使えるんで、パワーゲームに向いていると言われています。ただ・・・」
「ただ?」
「PEラインのメリットの一つが、細くて強いことなので、太い糸が使えるというメリットが、昔に比べると無くなったかも知れません。それともう一つ、ベイトリールはドラグ性能がスピニングに比べてどうしても弱いんですね」
「ドラグ性能ですか?それは一体・・・」
「糸に強い負荷が掛かった時にリールが逆転して、糸切れを防ぐ機能です。構造上これがベイトリールはスピニングには性能で及ばないんですよ。青物は特によく走りますからねぇ。僕でもやっぱりスピニングのドラグがないと、ラインブレイクが怖いです」
「それでもその方はベイトリールを使っていたんですか?」
「その人は車も好きだったようで、スピニングタックルで青物を釣るのは、大排気量の車で高速道路を飛ばすようなもの。ベイトで青物を釣るのは、峠をスポーツカーで攻めるようなもの、そんな例えをしていました。ベイトの方が、スリルがあるということでしょうかねぇ」
「車も好きだったんですか、その人は。でも車に乗っていなかったなぁ」
「車は手放したそうです。詳しくは聞きませんでしたが、ご家族の介護の影響もあるんだろうなと、その時は思いました」
「そうですか、それじゃあ釣りにも行き辛くなったのでしょうかねぇ」
老人が憐れむような表情を浮かべる。
「きっと大丈夫でしょう。金を掛ければきりがないが、無ければ無いなりにできるのが釣りのいいところですから。今もどこかで竿を出しているのではないでしょうか。ほら、あれだけ研究熱心な人でしたから。金をかけずに釣りをする手段も、少し無理をして時間を作ることも、すぐにやってのけるでしょう」
「そう願いたいですねぇ」
老人のその言葉に笑みを浮かべた男は、懸命にルアーを投げる少女の方に目をやる。
「その道具、大事に使ってあげてね。3世代使えるリールだそうだから。10年後か20年後か、また帰ってくると言ってたから、前の持ち主・・・」
その言葉に、男の方を振り返るかと思えた少女の持つ竿が、突然海の方向に引き込まれた。
「来た!」
じぃじぃとリールのドラグが滑っている。
かなりの大物のようだ。
「しっかり竿を立てて。慌てないで」
男が声を掛ける。
竿を支える少女の腕はか細かったが、その目には十分な力強さが宿っていた
口元に固い笑みが浮かんでいる。
その少女の姿を微笑みながら見ている老人は、そのタックルの前の持ち主が、今この時も、どこかで竿を振っていることを望んだ。
そしてまたどこかで会えることも。
心から。