水に映る月
*
「あいつ勉強しているかな?」
和哉は、こっそりと夜中に家から忍び出すと、自転車で夜道を走る。
夕立のお陰で昼の熱気が嘘のように冷えて、しっとりとした風が心地よく頬を撫でる。
和哉の住む町から二駅離れた悠希の家まで大きな道ではなく、田んぼが続く農道をショートカットすれば、ものの十数分で着く。
『あんな美人、見たことない』
高校の入学式、和哉は桜吹雪を微笑みながら見上げていた悠希に見惚れた。そのときめきを恋だと自分に認めさせるまで二年掛かった。
「あっ、やっぱり起きてる!」
田んぼの中の一軒家が水上悠希の家だ。樫の木に護られたように寝静まっている大きな農家の二階の角にポツンと灯りが見える。
「ちぇっ、また差がつくじゃないか!」
見た目の美しさに加えて悠希は成績も優秀だった。それに負けじと、和哉も頑張って勉強していたのだが、やはり顔が見たくて仕方なくなった。
家のかなり手前で自転車を止めると、スマホを取り出して悠希へ電話する。
「なんだ?」
素っ気ない声に「ちぇっ!」と舌打ちしたくなるが、悠希がクールなのは承知している。
「今、お前の家の前に居てるんだ! 出てこいよ」
無視されるかなと不安になったが、ガタッと音がして悠希が横手の木戸から出てきた。
「和哉、明日は期末試験なんだぞ」
そんな風に文句を言いつつ、ペットボトルを投げてよこす。
「ちょっと気晴らしに夜の散歩に出たんだ。そしたら、お前の家に着いたのさ」
変な言い訳だと和哉にもわかってはいるが、そうでも言わないと警戒されてしまいそうで怖い。
「お前の家からここまで遠いだろう?」
キュッとペットボトルのキャップを回して、ゴクゴク飲む悠希の白い喉から目を逸らす。男の喉に色気を感じている自分を誤魔化すように、炭酸飲料を一気飲みして、盛大にむせた。
「おい、大丈夫か?」
「炭酸の一気飲みはきついなぁ〜。なぁ、期末試験がおわったら海へ行かないか?」
夏の夜の勢いで、言いたくて仕方がなかった誘いをやっと口にできた。
「お前は呑気だなぁ。わかっているのか? 俺たち三年生だぞ」
「わかっているさ! だからこそ、本格的な受験体勢になる前に海で思いっきり遊ぼうと誘っているんじゃないか」
わざと乱暴に肩を組んで、悠希に笑いかける。
「でも……良いのか?」
悠希が何を心配しているのか、和哉には痛いほどわかった。和哉の家はこの地方では大きな総合病院を経営している。その家の息子には医者になるという義務が産まれた時から課されていた。
「ふん! 今度の期末でお前を抜いてやる! そうなったら海へ付き合って貰うぞ」
「へぇ、万年二位の和哉のくせに」
からかって笑う悠希をこのままさらって行きたいと和哉は思う。しかし、悠希は友だちだとしか認識していないのだ。馬鹿な考えを行動に移すのを理性で抑える。
「じゃあな!」
空のペットボトルを乱暴に悠希に投げつけて、自転車で立ち去った。
帰り道、水田に月が映っているのを眺めながら、まるで悠希みたいだと溜息をつく。
「あいつも俺のことを嫌いじゃなさそうだけど……」
手が届きそうで届かない存在。水に映る月に手を伸ばせば消えてしまう。
**
ねっとりと身体にまとわりつく湿気を含んだ空気に、和哉は日本へ帰って来たのだと感じる。飛行場からタクシーに乗り、実家の住所を告げると、懐かしい風景を眺めた。
故郷に帰るのは十数年ぶりだ。兄が継いだ病院は隣の敷地に老人病棟まで増設して、益々繁栄しているようだと皮肉な目で眺める。
父親の葬儀で仕方なく実家に帰った和哉を、年老いた母親が問題など何も無いように出迎えてくれた。
「お通夜に間に合って良かったわ。アメリカからわざわざお疲れ様だったねぇ」
父親が亡くなったのだ。外国からでも帰ってくるのが当たり前だと、和哉は母親にうなづく。もしかして帰って来て欲しくなかったのかと邪推したが、あれこれと嬉しそうに世話をやく様子を見ると、そうでも無いらしい。
「喪主は和樹がするの……それとお焼香の順番なんだけど……」
母親は家を出て行った和哉が長男一家の後で焼香をするのを気にして、あれこれと言い訳をしたが、そんな事はどうでも良かった。
地方の名士であった父親の葬儀は盛大に行われ、久しぶりに帰国した和哉は大勢の親戚に囲まれて、アメリカでの医者としての成功を褒められた。
「アメリカで最先端医療に携わっているだなんて、亡くなられた和真さんも鼻が高かったでしょう」
ビールを注ぎながら言われたお世辞に、和哉は苦笑する。息子の性癖が思春期の気の迷いではないと悟った父親がアメリカへと援助付きで追いやった事情などは家族しか知らない。
「まだ独身なのか? そりゃ駄目だぞ」嫁を紹介するなどと言い出す年寄り連中に「嫁より男を紹介してくれ」と言いたくなったが、父親の葬儀中に余計なスキャンダルまで起こしたくないので、笑って誤魔化した。
和哉の同級生の父親も病院の事務員として長年働いているので精進落としの場に残っていた。あれこれと自分の息子の不甲斐なさを愚痴っていたが、ふとコップをテーブルに置くとしみじみと語った。
「まぁ、でも物は考えようですなぁ。あの馬鹿息子も親より早く死ぬ不孝者ではないから。ほら、高校卒業の時、トップだった水上君は、一流大学を出て官僚になったというのに、残念な話です」
それまで話半分に聞いていた和哉は、悠希の名前に驚いた。
「悠希がどうしたんですか?」
「知らなかったのですか? 水上君は一月前に亡くなったのです。若いのに気の毒なことだけど、癌の進行が早かったみたいですねぇ」
その後の話はぼんやりとしか頭に入ってこなかった。
『悠希が死んだことも知らずに、普段通りの生活をしていたのか』
あの高校三年生の夏、必死に勉強して一番を取り、二人で海へ行った。真っ白な身体が恥ずかしいと頬を赤らめていた悠希の顔が和哉の頭から離れない。
夜遅く、和哉は甥の自転車を無断拝借して、悠希の家まで走った。大きな樫の木は同じなのに、二階の角の部屋には灯りがついていない。
「馬鹿! なんで死んでしまったんだ!」
あの海でキスした時から、何となく気詰まりになり、違う都市の大学へ進学してからは連絡も取らなくなっていた。和哉は悠希に嫌われたのだと、距離を置いていたのだ。
***
「せめてお参りしたい」
高校の同級生なのだから、お参りしても不自然に感じられないだろうと、和哉は水上の家へと向かった。
仏壇の横にまだ新仏として祭られている位牌に手を合わせ、記憶より大人になって美人度を増している悠希の遺影に涙が溢れそうになった。
「では、これで」このままでは泣いてしまうと、和哉は一礼して玄関へと足早に向かった。
「ちょっと待って下さい」
母親は二階から封筒を持って降りて来た。
「あの子が本田君が来たら渡してくれと言っていたんです」
その封筒には一枚の写真が入っていた。高校生が二人で肩を組んで笑っていた。
「こんな写真を撮ったかな……」
和哉は持っていない写真だ。そして、その裏には『水に映る月』と書いてあった。
「もしかして、悠希も俺の家まで何度も来たのか?」
夜中に呼び出したのは一度だけだが、和哉は何回も悠希の家まで自転車を走らせていたのだ。
「悠希も同じ気持ちで夜中に自分の家まで……」
取り返しのつかない過ちを悟り、写真を握りしめて泣き崩れる和哉だった。
終