第十話 おにーちゃん、愛さえあれば食べてくれるよね?
「フェアリーダンス?」
幼い少女は長い綺麗な茶髪を揺らしながら、首を傾げる。
口調は疑問形であるにもかかわらず、幼い少女の瞳には興味の色が宿っていた。
「うん、フェアリーダンス! 学校前近くにあるスポーツ店のお兄さんが教えるの上手いらしくてさ、頼んでみたら教えてくれるって言ってくれたからやってみようと思うんだ! でさ、もしよかったら愛梨沙もやってみないか」
「え、私にできるかな……とらくん?」
愛梨沙と呼ばれる幼い少女は両手を不安そうにぎゅっと握りしめ、顔を俯かせる。
そんな幼い少女に、とらくん、と呼ばれた幼い少年はアリサの手を優しく握り、
「大丈夫だよ! できるできないじゃなくて、大事なのは楽しむことなんだからさ」
「……そっか。うん、そうだね。私もやってみるよ,とらくん」
愛梨沙をフェアリーダンスの世界を連れだした。
♪♪♪
「ハローハロー、おにーちゃん」
目を覚ました大河の視界に映ったのは、良く見知った少女の顔だった。
いや、それは可笑しいか。良く見知ったどころではなく、血を分けた関係なのだから。
「……み、さき?」
「そう、おにーちゃんの可愛い可愛い妹の美咲だよ!」
なに寝ぼけたことを言っているんだこいつは、と思いつつも大河は、まだ寝向けの残る目じりをこすって辺りを確認する。
ベッドや本棚といった生活必需品やら趣味のものがあり、特に変わった様子はない。机の上に視線を向けると再生されたままの動画を移すパソコンがあった。そして、椅子に座ったままの自分。
そこで大河は椅子に座ったままいつの間にか眠ってしまっていたことに気が付いた。
「珍しいね。おにーちゃんがそんな風に寝てるなんて」
「……ん、ああ、そうだな――って、それだといつも寝ているように聞こえるんだが」
「あははは、そんなことないよ」
笑って誤魔化してはいるが、美咲の声音は明らかに大河がいつも寝ているといっていた。
確かに、ここ最近フェアリーダンス部の練習を見ていたとはいえ、普段の大河は寝ている。そのため大河も誤魔化す美咲の言葉を否定できない。
「はいはい、どうせ俺はいつも寝てるよ。暇だしな」
「まあまあ、そこまで捻くれることはないよ、おにーちゃん。お願いだから機嫌を直して――でさ、本当にどうしたの? 何かパソコンでフェアリーダンスの試合の動画を見てるしさ」
「ん? あ、ああ、実はまたフェアリーダンスをやることにしたんだよ。んで、試合の動画を見て最近の戦術やら魔法の流行を調べてるんだ。まあ、戦術に関していえば、まだあの人たちに教える段階じゃないんだけどな」
素人の集まりである現段階で、戦術や戦法について話しても付け焼刃にしかならない。それどころか、形にすらならないだろう。
大河自身そのことは深く理解している。
今自分が調べていることは、先を見越してのことだ。とはいっても、どれだけ先を見越してもまずは現状をどうにかすることを考えなければいけない。
大河はまだ寝向けが残る目尻をこすり、今見ている動画とは別に練習をしている動画を探し始める。だが、すぐにキーボードを叩く指が止まる。
何故か、自分を起こした美咲が黙りこくったままなのだ。気になった大河は美咲の方へ視線を向ける。すると、美咲は目を大きく見開かせ驚いていた。
「黙り込んで、どうしたんだよ?」
「……いや、だって、あれだけフェアリーダンスをやらないって言っていたおにーちゃんが突然またやるって言いだしたんだよ! 驚かない方が無理だよ!」
「あー……それもそうか」
大河は頭を掻きながら、苦く笑って見せる。
「ホントに一体全体どうしたの?」
「んー……そうだなーまあ、馬鹿がうつっただけさ」
その馬鹿の顔を思い浮かべながら大河は言葉を返した。
何のことかさっぱりの美咲は、首を傾げる。ただ、兄の心情に変化を与える出来事があったことだけは感じ取れた。
「まあ、良いけどさ。おにーちゃんがまたやる気になってくれて、妹としても超嬉しいよ!」
「お前に喜ばれても、俺は超嬉しくない」
「超ひどい⁉」
絶叫に似た叫び声を上げて、美咲は大仰に傷ついて見せる。だが、大河はこれくらいの冗談で傷心することがないことを知っているので、美咲の面倒くさい反応にため息を吐く。
「はいはい、泣き真似をやめろ。冗談だから」
「もーおにーちゃん! そこはもう少し困った風な反応をしてくれないと、からかい甲斐がないよ!」
「面倒くさいんだよ」
「めんどくさくても付き合ってよ!」
「はあ、本気で面倒くせぇ」
やれやれと首を振りながら大河はパソコンの電源を落とす。背中にチクチクと感じる美咲の視線が気になり、集中して動画を見ていられないからだ(とはいっても、うたたねをしてしまっていたのだが)。
はあ、ともう一度だけ疲れたため息を吐いた大河は、自分を睨み続ける美咲へ視線を移す。
「それで要件は何だ? わざわざ起こしに来たからには、何か用があるんだろ」
「あ、う、うん、そうだった! 今日の試合勝ったら褒めて褒めて‼」
予想外の一言に、大河は思わず椅子から勢いよく転げ落ちそうになる。
だが、美咲はいたって真面目な顔で大河にお褒めの言葉を求めていた。飼い主に懐く犬のように尻尾を振って、大河に向けて目を輝かせている。
どうやら本当に冗談でも何でもなく、大河に褒めてもらいたいらしい。
「フェアリーダンスをやらない兄に、フェアリーダンスの試合で勝ったから褒めてほしいなんてなんか可笑しいぞ」
口でそう言いつつも大河は、美咲の頭に手を伸ばし優しく撫でる。撫でられている美咲は、頬の筋を緩ませ幸せそうな表情を浮かべた。先ほどまで頬を膨らませ怒っていたくせに、この変化の早さに大河まで力が抜けてくる。
しばらく頭を撫でられていた美咲は、ゆっくりと頭を上げ、緩んだ表情を見せる兄の顔を優しく見据えた。そして、ふと思い出したように呟く。
「まぁ、またやり始めることは超嬉しいけど――無理をしない程度にね」
「無理しないと勝てないんだが、肝に銘じて――いたっ⁉」
スッと美咲の細い指が大河の額を吐く。
眉間にしわを寄せ、魔力の影響で変化した綺麗な蒼色の瞳で大河を睨みつける。
「おにーちゃん? 勝ちにこだわるのも良いけど、まずはフェアリーダンスを楽しんでね」
「それ、俺が昔お前に言ったことじゃねーか――ま、確かにお前の言う通りだ。それも覚えておくよ」
「うん」
大河の言葉に美咲は朗らかに笑う。
そんな妹の頭に手をのせ、もう一度だけ頭を撫でてやると大河はゆっくりと立ち上がった。そして両腕を頭の上に伸ばし、椅子にずっと座っていたことで固まった体をほぐす。
「さてと、確か父さんたちは仕事と出帰りが遅くなるから、晩御飯を作っておくか」
「あ、安心して! 晩御飯なら、アタシが作っといたよ!」
「――え⁉」
体をほぐしたはずの大河の体の動きが石化したようにぴたりと止まる。そして表情を引き攣らせ、目を瞬かせる。
その間も美咲は、ずっと朗らかな笑みを浮かべたままである。
「え……美咲、今何て言った?」
「だから、アタシが作ったんだってば! ほらほら、アタシに感謝してくれてもいいんだよ!」
どうやら聞き間違いでもなく、耳が難聴になったわけではないらしい。幻聴を事実だと受け止めてしまった瞬間、大河は頭を抱え、思いっきり叫ぶ。
大河がここまで絶叫する理由は実に簡単だ。
「何で料理が苦手な、お前が作るんだよー⁉ 俺が作るって言ってただろ!」
「だってお兄ちゃん寝てたし。それに、私だって日々成長しているんだよ」
「味覚が可笑しくなるような料理に磨きがかかっているだけだろ! どうすんだ、母さんから渡されたお金はもうないぞ!」
轟家の子供たちは渡された予算内で料理を作ることが通例となっている。しかし今回は、冷蔵庫の中にある程度材料がそろっていたので、メインとなる食材だけを買うだけだった。つまり、予算にあまりがないのだ。
つまりこのまま美咲が作ったという料理を食べることになる。
別にお小遣いの中から出して買ってもいいのだが、これから色々ともの入りになりそうな大河には余裕がない。
「おにーちゃん?」
「何だよ⁉ これ以上とんでもないことをしでかしてないだろうな!」
「そんなことしてないよ! 心外だなーもう! ぷんぷん!」
頬を膨らませ、子供っぽい仕草で起こる。
しかし今の大河にはそのことにさえツッコミを入れる暇がなかった。そんな大河を見て美咲は、満面の笑みを浮かべてとどめを刺した。
「おに―ちゃん、愛さえあれば食べてくれるよね?」