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「あ゛っ、ぐ」
首を掴まれる息苦しさと食い込む指の痛みに喘ぎがこぼれる。
初対面の相手を片手だけで掴み上げる。こちらが先に失礼な態度を取ったけれど、ここまでくればわかる。こんな仕返し普通する?この人はおかしい、私の恐怖心は間違っていなかった!
掴む手から逃れたい一心で振りほどこうと男の手を掴み、離そうとするけれどびくともしない。
そりゃそうだよね!比べるまでもなく、そちらの方が強いですよ!!レインコート下から覗くタイトなインナーから見える血管の浮いている筋肉、片手で掴み上げる腕力。その気になればそのままぎゅっとして私の頭と体がバイバイされてしまうであろうことを想像する。
私の抵抗はヒットポイント0なようで、気にする様子もなく残りの片手に掴む剣で草木を切り捨てながら道を作り、家から遠ざかっていく。
やばい、どこかに連れていかれる。焦る気持ちが増えていく。掴まれている皮膚の下の動脈が迫るように強く脈打つのがわかる。それは相手にも伝わり、目を細めて笑った。
気持ち悪い。反射的に男の胴体を浮いた足で蹴る。
…気持ち悪い?いや、見た目はすごく整っている。贔屓目などなく、スッと鼻筋が通っていて、形のいい眉に目元、無駄のない肉体。容姿端麗がむかつくぐらいに似合う。
でも感じるのは不快感だ。触るな、離せ、失せろ。
刃物を持ち、自分の首を易々と掴む男に恐怖心を抱きながらも、同等の不快感と拒絶が脚を動かす。
男は蹴られた上に泥で汚れたことなど気にも障らないようで、更に楽し気な様子でどんどんと進んでいく。
なぜか男が楽しくなり、私が不快に思うだけで現状は全く変わらない。
どこに連れていくつもりなのだろ。早く逃げなくてはいけないのに!
再び濡れて、体を冷やしながらも焦っていく。出来ることを全てしきってしまい、わからなくなってく。
「ぎゃう゛っう゛う゛う゛う゛ぅ゛」
雨音と男が踏み鳴らす水音とは違う、聞きなれた声なのに、いつもとは違う敵意のある声が下の方で聞こえた。それが聞こえたのと同時に男の足が止まったが、一瞬で表情が抜け落ちた顔にぞっとした。
嘘であってくれと思いながら目線を下に向けると男の腕で少ししかみえないけれど、体の所々を泥で汚した白いポチが低く唸りながら男の足に噛みついている。
ポチが来てくれて嬉しい。
けれどこの男がポチになにか仕出かさないかと思えば今すぐにでも逃げて欲しくなる。
「に゛っげ、っ!」
ポチに「逃げろ」と最後まで言う前に、男がポチが噛みつく足を蹴り上げた。泥水とともに、小さなポチの体が暗い森の中に浮く。私はそれを最後まで言えなかった口を開いたまま、見ていることしかできない。
べちゃっと音を立てて濡れた木の幹にぶつかるとべちゃりと地に落ちた。男がまた進みだす。
首をポチに向けて、必死に見るけれど、ポチは起き上がらない。いつもなら拭いて!と揺れる尻尾も拭いてあげるとくすぐったそうに引っ込める小さな足を泥で汚したまま無気力に放り出して、頬にすり寄せてくれるふわふわで温かい顔を濡れて俯き顔を下げたまま。
最悪だ、最悪だ、さいあくだ。
目があつくなる。さいあくなんだ、本当にさいあくなんだ。どうしてポチ、起きてくれないとこわいよ、やだよ。今すぐポチのところに行きたいのに行けないのがさいあくなんだ。ポチがいたい思いをしたことがさいあくなんだ。ポチが起きてくれないことがさいあくなんだ。ポチ、ポチが見えないくなっていく。
「なんだ、泣いてるのか」
ポチが、ポチのところに行かせて。
そう言ったのに、ぜんぜんはなしをきいてくれない。
「あと少しか」
こんなやつきらいだ。きらいなのに、どうすることもできなくて、こいつのおもいどおりになるわたしも、ポチをあんなめにあわせたわたしもこいつもきらい。
「なんだ、そんな目もできたのか」
わらうな、しね。




