第四節
「こちらが外交塔となります」
俺が騎士を辞めてまだ、余韻も冷めていない頃、俺の外交庁への初登庁の日が訪れた。
俺はリーヤに付き添われて、外交庁の要でもある外交塔へとたどり着いた。
そこはカーリャ侯爵邸から歩いても来れる距離だが、俺たちは馬車で来た。
何て言うか、その辺は俺の格がどうのの話になるそうだ。
俺にとってはどうでもい話だが、俺が背負ってるのはもはや俺だけじゃなく、カーリャ侯爵家全体を背負っていて、俺の恥は俺だけでなく、ミリィやリン、そして、リーヤやらアンオツの恥にまでなるそうな。
そう言われると、俺としても意味もなく立派な馬車で登庁する他はない。
外交塔は塔と言う割にはそれほど高くはなく、どちらかというと十階程度の、横に広い長方形の建物だ。
入口には門番が二人いて、通る者の気安さを拒んでいる。
リーヤは馬車を降りると、その門番のところへ向かう。
「お久しぶりです、本日より副司監となる、ジャン・ダラー・カーリャ様の初登庁です」
「お待ちしておりました、どうぞ」
門番とも顔見知りっぽいリーヤのおかげで、俺は自分で名乗らずに中に入れてもらった。
「ジャン副司監の部屋は三階となっているようです」
「三階ってまた中途半端だな。最上階から偉い順とかじゃないのか?」
「いえ、二階に総監副総監がいらっしゃいます。そこから偉い順に下から上へと上がって行きます。何故なら上へ登るのは誰もが面倒だからです」
俺みたいな例外を除いて、だいたい、下っ端は若いのが多い。
で、偉い人はいい歳の人で、しかもデスクワークが増えるから、体力もない。
だから下の階って仕組みなんだろう。
「何だか、広くて豪華だな、仕事するのになんでこんな場所が必要なんだ?」
中に入ると、思ったより豪華な内装で、しかも無駄に広かった。
「外交庁は外国からの訪問者も多いからです。特使や大使などは王城へ直接向かいますが、普通の使者などはこちらに訪問します」
つまりお客さんが来るから見栄を張って豪華にしてるってことか。
俺は脇の階段を登って三階へ向かう。
「こちらがジャン副司監のお部屋です」
リーヤに連れられて来た部屋の前には、石で「カーリャ副司監室」と彫られた看板が付けられていた。
わざわざ石で掘るのかよ。
俺は綺麗に絵が掘られている木のドアを開けると、中は思った以上に広かった。
手前には来訪者を応接できるテーブルとソファがあり、その向こうには六人くらいが執務出来そうな大きなテーブルがあり、その周囲を椅子が取り囲んでいた。
更に一番奥には、一人用の豪華な執務机があり、その後ろには高そうな絵が飾ってあった。
おそらくはあそこが副司監の席だろう。
その手前にある、大きなテーブルの方の椅子に見慣れた顔が座っていた。
俺が入ってくるのが分かると立ち上がり、俺を出迎える。
それは女の子で、金髪のゆるふわロングヘアが似合っていた。
「遅かったですわね、お兄さま」
そして、さっき朝食を共にした彼女は、にこやかに俺を出迎えた。
「ミリィ、何でここに?」
「『遊びに』来たのですわ。お兄さまをお助けするために」
平然と言うミリィ。
「話の前と後が合ってないんだが」
て言うか、職場に妹が遊びに来てもいいような場所なのかここ?
「つまり、ミリーナ様はジャン様を補佐するために、遊びに来たという名目でここに来られたのです」
「そんなこと、していいのか?」
「お父様の時代からしていたことですわ」
つまり、親父の補佐もしてたって事か。
そう言えば、よく考えたら、リーヤも身分は俺の家の執事長なんだよな、外交官でも何でもなくて。
こうして平気で出入りして、勝手知ったる感じで俺を案内してるって事は常に親父に付き従ってここにいたってことだろうし、案外そういう意味では緩いのかも知れないな、外交庁。
騎士の部屋に余所者がいたら普通に排除されるし、それが家族や家付きの家来であっても、どうして連れてきたんだ、みたいな目で見られるからな。
ちなみに後で聞いたら、高級官僚、特に無償奉仕の上流貴族がスタッフを自前で揃えるのは当たり前の事らしかった。
「さて、任命式までお時間もありますし、まずご挨拶に参りましょう。新総監にはアンジョ伯爵が就任しております」
「お父様の後任としてぴったりの方ですわね」
ミリィが納得したように頷くが、俺にはさっぱり分からない。
冗談で「親父の後継者は俺だ!」と言ってみたら、蔑みを含んだ生暖かい目と心にもない賛同を得たので、二度と言うまいと思った。
「まずは総監と二人の副総監の挨拶に参りましょう」
「分かった、じゃ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいまし」
妹に見送られて、俺は下の階へ向かう。
これから世話になる上官に挨拶に行くのはやっぱり緊張するよな。
俺は大きく深呼吸をする。
よし、行くか!
「失礼いたします! ジャン副司監、参りました!」
ドアの前で大きな声で挨拶をする。
「……入りたまえ」
中からそんな声だけが聞こえてきた。
自分ででドアを開けて入ろうとすると、いきなりドアが開いた。
「どうぞ、お入りくださいませ」
熟年の男性が俺を出迎え、中に案内される。
中には五人ほどの人間がいて、俺の部屋にもあった大きなテーブルを囲んでいる。
その一番奥、一人用の豪華なテーブルの前に座った男性がいる。
俺の親父より更に年上にも見えるようなその人が、恐らく総監なんだろう。
ギロリ、と俺を睨む目付きが厳しい。
だが、そんな目付きは騎士団で慣れている。
「お初にお目通り致します、本日より副司監を命じられました、以後お見知りおきをお願い致します!」
そう言って俺は深々と頭を下げる。
「大声で怒鳴るな、ここは軍じゃない。そんな野蛮な挨拶が通用すると思うな」
苦々しく、俺の挨拶の仕方を否定する総監。
「了解しました、総監」
「それもだ。ここは国交の要である外交庁だ。我々の相手は国家だ。なるべく穏便に話し合う必要があるのだ。そんな場に軍人が来たらどうなると思う?」
「……相手にもよりますが、怖がられたり、無意味な疑心暗鬼をさせたりしてしまうこともあるかも知れません」
「そうだ。だから君は軍の挨拶やマナーを捨てて、社交の場で行われるような挨拶やマナーを覚えるべきだ。そうだな、そこのリーヤ君のように」
総監は俺の後ろに控えていたリーヤに言う。
リーヤは黙って一礼をする。
確かにリーヤはその辺のことは分かってそうだし、親父にも教えられて来たんだろうと思う。
外交分野でも優秀なんだろうし、こいつがうちの執事で終わるのは勿体ない気がする。
「分かりました、リーヤに教えてもらいます」
「そうするといい」
そう言うと、総監は席に着いて、執務を続けた。
これは、もう帰れって事か?
「それでは失礼します」
俺は頭を下げて部屋から出る。
「……ふう」
ドアを閉めた瞬間、俺の口からは自然とため息が漏れる。
思ったより厳しめの人だな。
「おつかれさまでした」
俺の後ろでリーヤが言う。
「外交の偉い人ってみんな厳しいのか?」
外交の偉い人らは、外交に関して、全権を委任されている。
つまりは、その人の一言によっては、国が危機に陥ったり、傾いたりすることもあるわけだ。
厳しくなるのも仕方がない。
「そうでもないですよ。アンジョ伯爵はカーリャ侯爵に比べればかなりお優しい方です」
「……つまり、俺の親父はあれ以上だったって事か」
俺は既にいない親父の厳しさを思い出し脱力した。
さすが軍人ではないとはいえ武の一族の出ではある。
「さて、次は副総監にご挨拶に行きましょう」
「そうだな、どんな人なんだ?」
「オーブ子爵は二十九歳で副総監をされている非常に優秀な方で、明るくて気さくな方です」
「そうなのか。そういう人もいるんだな」
「やはり社交的でないと外交は出来ませんから」
リーヤが言うが、じゃあさっきの総監は何なんだ。
あの人も本当は気さくなのかな。
新しい部下に舐められないように厳しく当たる人は騎士の世界にもいたから分からなくもないが。
で、副総監は二人なんだが、一人は他国に長期の交渉に行っているため、しばらくは戻ってこないそうだ。
そんなわけで、オーブ子爵という副総監にだけ挨拶に行くことになった。
「失礼します。副総監、お時間よろしいでしょうか?」
今度は軍っぽさを消してドアの前で挨拶をすると、すぐにドアが開いた。
「どうぞお入りください」
本人が若いと周りも若いのか、若い男性が俺を出迎える。
中に入ると、調度は総監と多少違うが、ほとんど同じレイアウトの部屋で、数人がテーブルを囲んで、その向こうに座る男性が、俺を見て立ち上がる。
俺を立って出迎えたのは、老いというにはまだ程遠い、だが若者というには熟達している、精悍な顔立ちの男性だった。
「お目通りありがとうございます、本日より外交副司監を命じられますジャン・ダラー・カーリャです。よろしくお願い致します」
「話は聞いてるよ、魔法親衛騎士団にいたんだっけ? 俺はリヴァール・ザラ・オーブ。親父が引退したから今年から子爵になった。君ももうすぐ侯爵になるんだっけ? 凄いな、あの広大なカーリャ侯爵領を継げるなんて。オーブ子爵領は首都から近いってだけで狭いから、大変だよ」
オーブ子爵が握手を求めて来たので、それに応じる。
何が凄いのか、何が大変なのか、まだ代理侯爵である俺にはさっぱり分からないが、まあ、その辺は追々分かって来るんだろう。
「外交庁は平和に穏便に物事を解決するための組織だから、軍人は嫌われると思うけど、俺としてはそういった軍事に詳しい人間も必要だと思っている。君には期待しているよ」
そう言ってにこやかに笑う。
なるほど、だから総監が俺に対してあんな態度だったのか。
ちなみに俺は騎士団の下っ端だったから、軍事には全く詳しくないけどな。
「お役に立てるかわかりませんが、よろしくお願いします」
俺はもう一度挨拶をすると、副総監室を出た。
そして、一旦自室へと戻る。
「おかえりなさいませお兄さま。紅茶が入っておりますわ」
そこではミリィが俺をにこやかに出迎えてくれた。
へえ、ミリィって自分で紅茶とか淹れたりするんだ。
こいつも侯爵家の娘だから、姫と名乗れるほどの高貴な人間で、フォークとナイフとスプーンと男の扱いさえ知っていればいいような立場だし、家では自分で淹れるような事は決してないのにな。
「ああ、悪いな。ミリィって自分でお茶とか淹れられるんだ」
俺は慣れない執務用の豪華な椅子に座ると、一息ついてミリィの煎れた紅茶を口にする。
「お兄さま、私はいつかどこかに嫁ぐ身ですから、このような事は出来て当然ですわ」
「でも、家でやってるのを見たことがないぞ?」
「家で私がやりますと、メイドの仕事を奪うことになりますわ」
ミリィが微笑む。
なるほど、そうなのか。
確かにミリィが一つ自分でこなすことで、メイドの仕事が一つ減る、そうなるといらないメイドが出てきて、誰かがカーリャ家を追い出される事になる。
そう言えば親父が死んだ日、俺の言い方がひどいと進言したメイドがいたな。
あれってあのメイドがこいつを慕ってて、だから出てきた言葉なんだろうな。
こいつがメイドに慕われるのって、こういう細かい心遣いなんだろうな。
俺は妹が淹れた貴重な紅茶を口して、一息ついた。
俺の様子を見て微笑むミリィにリーヤ。
そう言えば、目の前のこのテーブルって、こいつらが使うのか?
「なあ、総監室も副総監室も人が何人かいたけど、あれってあの人たちの個人的な家来なのか?」
「そうですね。総監や副総監は二名まで補佐官を付けることが出来ますが、それでは足りないので、ご自分たちの家からスタッフを連れて来ています」
「へえ、そうなのか」
どおりでうちの執事長や妹がいても怒られないはずだ。
「さて、そろそろ任命式の時間です。参りましょう」
「そうか、じゃあ行くか」
リーヤにそう言われ、俺は立ち上がり、陛下が出向いて来られるという任命式に向かうことにした。
任命式は滞りなく終了し、今度は俺の方が部屋で挨拶訪問攻めにあった。
しかも総督やら大使やらのような、そこそこ身分の高い人ではなく、役職のない、若い外交官が多かった。
それは昼終わりから夕方まで延々と続いた。
さすがに見知らぬ人々の挨拶が続くのは疲れて来る。
「なあ、なんで俺はこんなに挨拶されてるんだ?」
挨拶と挨拶の合間にリーヤに聞いてみた。
「恐らく皆さん、自分を補佐官に任命して欲しいのですよ」
「補佐官? ああ、さっき言ってたスタッフの事か。副司監にも付けられるんだ」
「そうですね、一名付けられます。特にジャン様は若き副司監で前総監の御子息ですから、将来の総監候補です。その方の若いころの補佐官になれば、将来の出世にかなり有利ですし、副司監の補佐官は副大使レベルの地位ですから彼らにとって大出世なのです」
ああ、そういうことなのか。
だからみんな何かアピールしたり「一緒に頑張りましょう!」なんて言ったりしてたのか。
「それで、どうなさいますの? 私やリーヤももちろんお手伝い致しますが、どなたかを任命しますの?」
「んー、まあ、じゃあ、リーヤでいいんじゃないか?」
「は?」
「お兄さま?」
俺の一言に、ミリィもリーヤも不思議そうな顔をする。
あれ? また何かおかしなことを言ったか?
「お兄さま、リーヤはうちの執事長ですのよ?」
「知ってるけどさ、兼任って出来ないのか?」
「出来なくはないですが、私は今のままでもお手伝いをいたしますし、腹心となりますが、外交庁内部の腹心は、やっぱり必要ではないかと思います」
「だからさ、お前が就任すればお前は内部の人間だろ? それにお前は総監の腹心をやってたんだから、それでなくても顔が利くだろ?」
「確かにそうですが……」
リーヤは困ったようにミリィを見る。
「……それは一つのいい案かもしれませんわね」
「ミリーナ様!?」
助けてくれると思っていたミリィがこっち側について、絶望的な表情のリーヤ。
「お兄様の腹心は人数が多いほうがいいかと思いましたが、そうでもないのかも知れませんね。数を増やすより、少数でお兄さまを深く理解している者だけの方がうまく操れ……お兄さまのためかもしれません」
「今、操るって言ったか!?」
「言っておりませんわ」
平然と、ミリィが言う。
こいつ、俺を操って外交を思うままに進める気だな。
まあ、ミリィが優秀な政策担当者ってのは聞いてるし、当たり前だが子供の頃から知ってて悪い子じゃないのは分かってるし、俺が操られても悪い方向には進まないだろう。
まあ、可愛い妹がそうしたいならさせてやるさ。
「というわけだ、どうだ、リーヤ?」
「ですが……」
リーヤはそれでも躊躇する
「お前さ、普通に考えて今、出世のチャンスなんだぞ? なんでそこまで拒むんだ?」
「……私は、カーリャ家の執事であることを誇りに思っております。前侯爵様に拾い上げていただき、様々な事を教えていただきました。私は一生をカーリャ侯爵家に捧げるつもりです」
「それは分かるしありがたいとは思ってるよ。お前と親父の絆の話だから、俺が割り込む隙はないだろうしな。だけどさ、お前の才能って、うちの執事だけではもったいないんだよな。もちろん執事長をクビにするつもりはないから、これからもうちに住んで働いてもらえればいいけどさ、もう少し王国全体のためにも働いて欲しいんだよ、お前にはさ」
俺が言うと、リーヤは驚いたように俺を見る。
ミリィまでも俺を少し見直したような表情で見ていた。
こいつらは俺を本当の馬鹿だと思ってたのかよ。
「まさかジャン様がそこまで私のことを考えておられたとは……」
「知らない人とあまり話をしたくないのだと思っておりましたわ」
「俺、人見知りじゃねえし」
同じようなことを言ってるが、ミリィは普通にひどかった。
「分かりました、では副司監補佐官を勤めらせていただきます!」
リーヤは深々と頭を下げる。
「ま、頑張ってくれ。そして、俺よりも働いてくれ」
「お兄さまは誰よりも働いてくださいまし」
ミリィがそう言ったので俺は肩をすくめた。
◎
「そんなわけでさ、リーヤを補佐官にしたんだよ」
驚くほど全く興味なさげなリンに、今日の出来事を説明する。
リンは一応こちらを向きながら、つまらなそうに俺を見ていた。
なんでこんな嫌がらせに近い、意味のなさそうな事をしてるかというと、仲の良さをアピールするため、俺は今日あったことを全てリンに説明しろというリーヤのアイデアだ。
「凄いです、ジャン様! さすが親衛騎士団出身者は大きな視野をお持ちです!」
リンとは対照的に興味津々で話を聞いていたアンメルが感嘆の声を上げる。
「うん、まあ、別に広い視野を持ってるわけじゃないんだけどな」
あまりの尊敬っぷりに俺は逆に引いてしまう。
俺だけでなく、アンメルと長年一緒にいたはずのリンですら引いてる。
多分本来はこんな子じゃあないんだろうなあ。
俺の親衛騎士団出身って肩書きだけで、必要以上に尊敬してるって感じだろう。
俺は既に外交副司監であって、騎士でもなんでもないんだがな。
「話はそれで終わり?」
さっさと話を切り上げたいリンは相変わらず不機嫌にそう言った。
「俺の話は終わりだけど、リンの話もしてくれないかな」
「私の話?」
「俺の一方的な話だけじゃ分かり合ってる恋人とは言えないだろ? リンの話も把握して、初めてそう見えると思うからさ」
「私は何もしてないわよ。家でずっと本を読んでたわ」
「そうなんだ? ここにもネイガル魔法学園の施設はあるんだろ?」
カザキ男爵が理事を勤めるネイガル魔法学園の本校はカザキ男爵領にある。
俺の親父もカザキ男爵もいくらでも会っていいと言ってたのに俺がリンとあまり会わなかったのは、リンがそっちにいたからだ。
だけど王国全土、いや、他国も含めて広く生徒を集めようとすると、地方であるカザキ男爵領よりも、首都にあった方がいいため、こちらにも分校がある。
分校というか、こっちの方が生徒が多く、その分施設も充実しているため、よほど重要で国家機密的な研究でない限り、首都分校の方が主流ですらあるらしい。
もちろん研究施設も充実しており、リンがどんな研究をしているか分からないが、こっちで出来ないってことはないだろう。
「そりゃあ、私もこちらにいる時は分校に行ってたし、そっちでも私の研究は出来るけど……」
リンが目を伏せる。
既にカーリャ侯爵家次期侯爵の嫁になるためにここに来たんだから、カザキ男爵家の施設であるネイガル魔法学園に行くのを躊躇っているようだ。
俺としては別に構わないし、カザキ男爵家も歓迎することだろう。
「じゃあさ、俺の方からカザキ男爵に頼んでおくから、行ってくればいいよ」
「!? で、でも、私は既にカーリャ侯爵家の人間で……」
「うん、だから侯爵家の婚約者が男爵家の施設に通ってもいいか頼みに行くってことだ。もちろん、侯爵夫人になったら一日中ってわけには行かないだろうけどさ、それでも通えないってわけじゃないだろ」
「……うん」
リンは必死に喜びを堪えているのが表情にも漏れ出てきていた。
リンにとってはこれまでの短い人生はほぼ研究に捧げてきたわけだからな、それを取り上げるのはあまりにも可哀相だ。
「やっぱりジャン様はお優しいです! ずっと落ち込んでいたリネーラ様がすっかりご機嫌に!」
「お、落ち込んでないし、ご機嫌にもなってないわよ!」
リンが真っ赤な顔で否定するが、そうでないことは誰の目にも明らかだった。
「ま、お前みたいな天才を俺みたいな奴のために潰すのは王国全体の損失だからな。お前がカーリャ侯爵夫人として、目覚しい研究成果をあげれば、それはカーリャ侯爵家のためにもなる。お前だけのためじゃない。王国や侯爵家のためでもあるから、気にしなくてもいいさ」
「……うん」
さっきよりも少し憮然とした表情で、リンは返事をした。
これでリンの機嫌が少しでも直ればいいんだがな。
俺は自分の夢を諦めたばかりだから、夢を捨てることの辛さを身に染みて分かっている。
リンにはそれを諦めて欲しくはない。
少なくとも十歳で夢を諦めるのは早すぎる。
問題としては、カーリャ侯爵領には研究施設がないから、領地に帰れないってことだが、まあ、それは大した問題でもない。
働いてる貴族や結婚した貴族が領地に帰るのは一時的な帰郷は別として、出産や子育ての時くらいだからな。
俺はしばらくリンに手を出すつもりはないし、だからそれは何年も先の話で、その頃にはカーリャ侯爵領にも立派な研究施設を作ってやるさ。
「じゃ、また明日な」
俺は最後に機嫌を悪くしたリンに挨拶だけして、部屋を後にした。
閉じたドアの向こうから楽しげなはしゃぎ声が聞こえてきたが、聞かなかったことにした。