第二節
そんなわけで、俺の家にリンが来た。
物凄い不機嫌なリンが、ゲストルームで足を組んで座っていた。
ふん、とそっぽを向いているので、俺には表情よりツーサイドアップの髪型の方がよく見える。
「ということで、今すぐご結婚するわけではないのですが、今日からこちらに住んでいただきます」
リーヤが恭しく頭を下げてリンに言う。
「なんでよ、結婚がまだまだ先なら、まだこっちにいなくてもいいんじゃないの?」
不機嫌さを隠さないリンが、リーヤを見ずに言う。
不機嫌ではあるが、来たすぐのような元気さももうなく、少し疲れたように小さめの声での抗議だ。
「それは、王様に仲の良いところをお見せするためです。侯爵の葬儀の直後ですのですぐにはご結婚していただけませんが、仲が良く、結婚が待ち遠しいとアピールすることで、ジャン様の侯爵就任を早めていただく事も出来ますし」
「……別に、待ってりゃいいんじゃないの?」
リンが気だるげに言う。
「それは、俺もリトル・リンと同意見だ」
「誰がリトル・リンよっ!」
「申し訳ありません、ですが貴族の世界というものは、ジャン様、リネーラ様が思う程、綺麗な世界ではございません。カーリャ侯爵という地位を狙う貴族は必ずいると思います。それらの方がどんな卑怯な手で陛下に取り入って、我々の約束を反故にさせるか分かりません」
「……分かったわよ」
ほう、とここに来て何度目かわからないため息をついた。
こいつも、貴族の娘として、人生がままならない事は理解してるだろうし、だから物わかりもいいんだろう。
十歳にしてその物わかりの良さは、尊敬すると共に、少し可哀想に思った。
俺の十歳の頃は、それこそ晩ご飯のメニューですらわがままを言ったものだ。
ちなみにその時は、駄々をこねる俺に、アンオツによく分からない草を無理やり食べさせられて、三日間寝込んで、それ以来メニューに文句を付けたことはないが。
よく考えたら、俺が女性に逆らわないのは、騎士道精神じゃなく、アンオツ相手の幼児体験のような気がしてきた。
恐ろしいな、あいつ。
「あと、リネーラ様お付きのメイドですが、一名でよろしかったでしょうか? カザキ男爵の使者殿からは二名とお聞きしていたのですが」
リーヤが不思議そうに聞く。
リンの背後には一人のメイドが立っているが二人はいない。
しかもそのメイドは俺たちを睨んでいるようにも見える。
それは憎悪というよりも、俺たちを要警戒対象として見る警護兵のような目だ。
「うん、それは一人になったわ。彼女──アンが自分一人で十分だと言い張ったから一人にしたのよ。アン、挨拶なさい」
リンが言うと、アンと呼ばれたメイドが、騎士のように片膝を付く。
「私はアンメル・ヘイ・キナンと申します。キナン家の次女として生を受けました。今後お見知りおきを」
「あ、ああ……」
その、メイドとは思えない挨拶に俺は少しばかり戸惑った。
凛とした眉の、綺麗な顔立ちの女の子だが、動きは兵士のようで、振る舞いは騎士のようだ。
服を着替えれば、長髪の美形騎士に見えなくもない。
この国の女は基本的に社会的な地位を得られない。
仕事がないわけじゃなく、侍女とかメイドとかやることはあるんだが、社会的に名誉や権力のある地位にはなれない。
だが、騎士だけは別だ。
親衛騎士団は、王女など、女性の王族の護衛も必要だが、場合によっては女しか警護が難しい場面ってのもある。
そういう時のために女性騎士って人はいる。
俺も知り合いに何人かいるが、この子はそんな雰囲気を持っているし、親衛騎士団の新人だと紹介されても全く疑わなかっただろう。
歳は恐らく俺と同じくらいだろうか。
まあ、俺はかなり若く騎士になって更に魔法親衛騎士団に選抜されたので同じ年くらいの女性騎士はいなかったが、まあ騎士見習いの子は何人か知ってる。
「アンは、下流貴族の出身だけど、本当は騎士になりたくて訓練したのよね。結局なれなくて努力は実らなかったけど」
「いえ、今はリネーラ様にお仕え出来、光栄でございます」
アンと呼ばれた女の子が深々と頭を下げる。
何だろう、この違和感。
メイド服を着た女の子が、騎士を振る舞いをするとこんなに変に思えるものだろうか、などと考えていた。
「では、アンメル殿お一人をカーリャ家のメイドとしてお迎え致します」
「だけど、メイドでアンか。アンオツとかぶるよな。まあ、あいつはみんなアンオツって呼んでるから問題ないのか」
「アンオツ? 誰よそれ?」
「ああ、うちのメイド長──」
「呼びましたか」
「うわぁぁっ!」
俺がアンオツについて説明をはじめようとすると、いきなりドアが開いてアンオツが入ってきた。
あまりのタイミングの良さに、俺はびくりとした。
「お前、どこにいたんだよ!」
「ジャン様のお部屋で日課であるジャン様の匂いを嗅ぎながらサボっておりましたら、ジャン様が私の悪口を言う気配がしたので飛んできました」
「……どこから突っ込めばいい?」
「足の付け根と足の付け根の間から」
「婚約者の前で下ネタを言うな」
「む、婚約者ですか。ふむ、いい目付きをしています。さすがジャン様のお嫁さんですな」
無表情なアンオツは、身振りを加えて評価した。
アンメルを。
「いや、そっちはメイド服着てるだろ」
「ほう、つまりこのお子様ですか。ジャン様はロリコンだったのですね。通りで私の成熟した肉体に靡かないと思いました」
「違うって。リンは魅力的だが、幼いからじゃないし、お前が成熟してるから靡かないわけじゃない」
「ですが、事実がそれを証明しています。ジャン様はロリコンなのです」
びし、と指を俺に突き立てて言う。
今更だが、こいつは面倒で疲れる。
「……ちょっと、あなた使用人でしょ? あなたの主人の妻になる私にそんな失礼な事言っていいの?」
リンが不愉快を隠さずに言う。
「私はいつもご主人様とは親身に相対するように務めています。これもスキンシップなのですよ?」
「婚約者をネタにスキンシップするんじゃないわよ」
「何をおっしゃいます、あなたにもスキンシップしているのですよ。そしてあなたを賛美しているのです」
「讃美って何をよ?」
「ロリですよ。ロリは希少でフレキシブルなのです」
「は? 何言ってんの?」
リンはあからさまに馬鹿にした口調で言う。
「たとえばあなたの愛する人がロリならあなたはベストマッチ! そして、万一あなたの愛する人が熟女好きでも、あなたは成長し、いつかは熟女になるのです。あなたは何にでもなれる」
「……はあ」
リンは心の底から呆れたような表情で肩を落とす。
「そこのメイド殿、これ以上我が主人を愚弄するのはやめていただきたい」
俺がアンオツの性格を説明してフォローしようと思っていたら、アンメルがリンの前に立ち、アンオツを睨む。
「ですから、私は讃美しているのです。それも分かりませんか」
「分かりません、私は主人への、謝罪を要求する」
口調がメイドのそれとは全く思えないアンメル。
「全く、あなたは器もおっぱいも小さいのですね」
「なっ……! もう許さぬ!」
切れたっ!?
主人侮辱されても冷静に抗議していたのに、自分の胸の話をされて、真っ赤になって切れたアンメル。
そして、足元、スカートの中から短刀を取り出す。
どこに隠してんだこの子?
なに? 暗殺者なの!?
アンメルはその刃をアンオツに向け、切りかかる。
「くっ!」
全く身動きせず、表情も変えないアンオツの代わりに俺がその短刀を叩き落とす。
そして、そのまま右腕を後ろに回し、足を絡めてアンメルの身体を倒して床に押し付ける。
濃厚なムスクの香り。
この子の香水の匂いか。
押さえた腕は鍛えられてはいるが、それでも柔らかく、しなやかな弾力があって、女の子の身体の一部だと痛感させられる。
アンメルは一瞬何が起きたのか分からないという表情で、床を見る。
「まあ、落ち着けって。アンオツの言ったことは俺が謝るからさ、冷静になれ、な?」
俺はなるべく優しい声でそう言った。
「……分かりました、申し訳ありません」
アンメルは冷静に戻った声でつぶやくようにそう言った。
俺が離すと、素早く立ち上がり、リンの後ろに下がる。
「あー……悪かったわね。やっぱりアンは帰したほうがいいかしら?」
「そんな! リネーラ様!?」
さっきまで機嫌が悪かったリンも、ばつが悪そうにそう言った。
「いや、騎士同士ならこの程度のいざこざしょっちゅうあったしな、俺は別に構わないぞ?」
「……アンメルはこの気性の荒さがなかったらいい子なんだけどね」
「……申し訳ありません。ところで無礼を承知でお伺いいたしますが、ジャン様はもしや軍隊におられるのですか?」
「あー、侯爵を継ぐってことで危険だから辞めることになるけど、今はまだ魔法親衛騎士団にいる」
「魔法親衛騎士団!」
アンメルの表情が驚きに変わり、そのまま羨望に変わった。
俺は女の子にそんな目で見られるために必死に努力して魔法親衛騎士団に入ったが、ここの子の瞳はそれとは少し違った。
普通の女の子の羨望は「すごい、この人格好いい!」だけど、この子の場合「いいなあ、羨ましいなあ」という感じだ。
で、何故かリンまでも、自慢げに鼻を高く掲げた。
「魔法親衛騎士団の方ですかっ! どおりであの身のこなし! そして、あのようなメイドの無礼をも許す大らかさ!」
アンメルは俺を前にしてかなり興奮していた。
ちなみに「あのようなメイドの無礼」は、どうも自分のことじゃなく、アンオツの事のようだ。
「あ、あの、サインを……」
「アン、下がりなさい」
「……はっ」
アンメルは渋々リンの後ろに控え、項垂れていた。
「それではアンメル殿も本日よりカーリャ家のメイドということになりますがよろしかったでしょうか」
何事もなかったかのように、リーヤは口を開いた。
「俺は構わないが、アンオツはどうかな?」
アンオツはこの家のメイド長でありつまりはアンメルが配下に入るわけだ。
それが困るというなら……是非とも入って貰わなければならないだろう。
あのアンオツを困らせる人材なら是非ともいて欲しい人材だ。
「……? アンオツ?」
俺は期待をアンオツの胸のように膨らませて彼女を見るが、反応はなかった。
「どうした、アンオツ?」
俺は近づいてじっと顔を見た。
間近で見ると、こいつの顔の造形の良さがよく分かり、また漂ってくるローズの香水の匂いに、こいつがとても魅力的な女に思えていまうので、慌てて首を振る。
気を取り直してじっと目を見る。
視点に反応がない。
ああ、これは訓練中にも時々見たことがある。
「……気絶してるな」
アンオツは、さっきの短刀攻撃でとっくに気絶していたのだ。
その後、目を覚まさせて、改めて挨拶をさせた。
リンを小馬鹿にしたのはこいつの性格上の親愛の証だと俺がリンやアンメルを説得して納得してもらった。
「それではメイド長、よろしくお願いいたします」
堅っ苦しい挨拶をするアンメルと、首を傾げるアンオツ。
「ふむ……小耳に挟んだところ、アンメルさんも貴族なのでしょう?」
「聞いてたのかよ」
確かリンがそれを話したのは、アンオツが入ってくる前だ。
「では私の配下にするのも心苦しいですね」
「何をおっしゃいます、あなたは私より歳上のおばさんではありませんか」
「……ほう」
アンメルの一言に、アンオツは声のトーンを落とす。
こいつ、平然としているが、さっき胸が小さいと言われた事を根に持ってやがるな。
「私は酸いも甘いも知り尽くした年長者に従うことに依存はありません。おばさ……熟女の魅力あるメイド長の指示に従います」
アンメルは俺と同じくらいで、アンオツは俺より二つ上だから、ここにいる全員十代なのだが、アンメルは暗にアンオツがおばさん臭いと言いたいようだ。
「ですがこのピッチピチレイディメイド長にはカリスマはあっても経験はありません。あなたに力があって胸がないのと同じ──」
「もうやめろって! 分かった、アンメルはしばらくアンオツの配下には入らない、独立したリン付きメイドとして、別に配下に何人か付けよう。それでいいな?」
「それで構いません」
「かしこまりました。……ところでジャン様は胸がある女性とない女性ではどちらがお好みですか?」
アンメルが少し不安げに俺に聞いてくる。
何でいきなりそんな話になるんだ。
「え? そりゃあ……いや、胸の有り無しで女の魅力は分からないからな」
「なんで私を見たのよ!」
「見てないって。ほら、さっさと話を進めるぞ? リーヤ」
「はい、それではリネーラ様のご結婚までのお部屋ですが──」
リーヤは、今の騒動が全くなかったかのように話を続けた。
こいつのこういうところは凄いなと思う。
◎
その日の夜、俺はいつもよりも遅く寝た。
いろいろとリーヤと打ち合わせがあって時間も足りなかった。
リンの扱いもだが、外交副司監としての任務ももうすぐ始まるので、リーヤやミリィから外交についてみっちり教えられたりもしている。
そんなわけで俺はこれまで使ったことのない脳を使いまくっていて、脳が筋肉痛になりそうだ。
そう、ミリィに言ったら、にこやかな顔で「お兄さまは元から脳まで筋肉がありますわ」と言われた。
脳筋だって言いたいんだろう。
妹じゃなかったら俺の股間の筋肉で全身を筋肉痛にしてやるところだ。
「はあ……あいつら容赦ないからなあ」
今日あいつらに教えられた事の半分も理解できてないし、そもそも覚えてもいない。
俺もさすがに焦るが、こればっかりはどうしようもない。
だから俺は、ため息をつくばかりだった。
「……ん?」
屋敷の中で、何か物音が聞こえる。
いや、それ自体別におかしいことじゃない。
遅い時間だが主人である俺が起きている以上、誰かが起きているし、そもそも全員が寝静まることはないからだ。
だが、これはただの物音じゃない。
何だろう、すすり泣きのような、そんな物音だ。
カーリャ侯爵邸は歴史も古く、元々は武の一族だったため、気性の荒い人間もいて、刃傷沙汰も幾度かあったようだ。
いきなり従者に切りかかって殺してしまった事も何度かあるようだ。
実際侯爵というのは世間ではかなりの権力で、自分の従者を殺した程度では罪にならないため、そんな人もいたようだ。
まあ、つまり、この屋敷で死んだ人間は数知れないって事で。
無念な死を迎えた者が霊としてこの世に残り続けているって事も、ないわけじゃない。
つまり、これは霊の仕業か?
俺は霊を恐れることはないし、どちらかというと興味のほうが強い。
そのすすり泣きが聞こえる方へと向かってみた。
それは、ゲストルームだった。
客が泊まるための部屋で、今はリンが泊まっている。
リンが? まさか、あいつが夜中にすすり泣くなんてありえないな。
俺の好奇心は、婚前のレディの部屋に踏み込めるくらい強い。
そっと、ドアを開け、中を探る。
リンはお子様だし、もう寝てるよな。
部屋の中は月明かりのみの薄暗く、様子は窺えない。
寄り付かななったとはいえ自分の家で、間取りくらい知っているので、踏み込んで音源を探す。
音の源はどうも、窓際だった。
月明かりの漏れる窓のそばから、すすり泣く声が聞こえてくる。
俺は足音を立てないよう、そっと窓際に向かう。
月夜に輝く銀色の小さな影。
そこには、銀髪の少女がいた。
俺はそいつを知っていたが、そいつはいつものツーサイドアップを下ろしていて、俺が知っているより遥かに小さく、そして、弱々しかった。
考えてみれば当たり前だ、こいつはどんなに大人ぶっててもまだまだ十歳の子供だ。
十歳の女の子が、親元を離れて、これから生涯他人の家で過ごすことになるんだ。
こいつの周りに敵はいないが、こいつから見たら周りは敵だらけだろう。
不安で泣いてしまうのも仕方がない。
「……リン」
呼びかけなのかつぶやきなのか俺自身分からない言葉に、リンはびくん、と身を揺らした。
そして、ゆっくりと振り返って俺を認める。
「な、なんであんた勝手に入ってきてるのよ! 婚約者だからってやっていい事と悪いことがあるでしょうが!」
急に虚勢を張るが、涙も、少し鼻にかかったその声も、急には戻らない。
「悪かったな、寝てるはずの婚約者の部屋から物音がしたから、無礼を承知で、無断で入って来たんだ」
「……何でもないわよ、私が起きてただけよ、もう出てってよ」
いつもの不機嫌なそれとは少し違う、焦りも混じった声で、俺に背を向けてリンが言う。
その、銀が揺れる背中が、やけに小さく見えた。
「……っ!?」
深い理由はなかった。
俺はその小さな背中を、ただ抱きしめた。
リンの身体は、俺が思っていたよりも小さくて、柔らかくて、暖かかった。
その小さな身体からは、ちゃんと女の子の匂いがした。
「な……に?」
最初少しだけ抵抗を見せたリンもすぐに力を抜いた。
俺とリンは婚約者とはいえ、お互い貴族の子であり、結婚までほとんど会わない婚約者同士に比べると、俺たちは結構会っている方だ。
だが、よく考えると、話はするが触れ合ったこともほとんどない。
こうして抱きしめるのも初めての事だ。
「リンには本当に申し訳ないと思ってる。だから、リンのためなら何でもする。リンが誰かを敵に回しても俺はリンの味方をする。その相手がたとえ陛下でも」
俺の心の中にあるのは申し訳ないという気持ち、そして、この小さな女の子を純粋に守りたいという気持ちだけだった。
「っ!?」
俺はリンの身体を持ち上げる。
リンは、羽のように軽かった。
その小さな身体をベッドに運び、寝かせた。
「だから、リンはもう泣かなくてもいい。ここはリンの家で、リンはここの主人だ」
「……うん」
俺が言うと、リンは横になったまま、小さくうなずいた。
「おやすみ、リン」
俺はそう言うと、リンの部屋を後にしようとした。
「何事ですか!」
パジャマ姿のアンメルが飛び込んできて、ちょっとした騒ぎになったのはそのすぐ後だった。