第三節
馬車の中で、俺はリーヤに詳しいことを聞いた。
親父は突然倒れてそのまま死んだそうだ。
それまで特に健康に関して問題を訴えてはいなかったにもかかわらず、いきなり倒れたので、リーヤをはじめとする侯爵家の従者も、外交官たちもかなり慌てたようだ。
前に親父に会ったときも、元気そうに小言を言ってきたし、体も丈夫そうだった。
職業は違うとはいえ、親父も武の血統を継ぐ者、そんなに弱い人じゃない。
少なくともまだ死ぬような歳じゃない。
俺はまだ、どこか信じられないような心境でいたんだと思う。
「到着いたしました」
リーヤがそう言って、先に降りて下で俺を迎えた。
俺は結構久しぶりの侯爵邸に足を踏み入れると、俺を出迎える者はほんの数人だった。
他の者はあちこち走り回っていてかなり混乱していた。
その異様な雰囲気が事態の大きさを物語っていた。
「とにかく親父のところへ連れてってくれ」
「はい」
リーヤは俺の前を歩き、奥の親父の間へと誘導した。
「親父!」
俺がその部屋に入ると、中心の広いベッドに親父が横たわっていて、その周囲に従者がいて、親父の隣にはミリィがいた。
「お兄さまぁ……」
ミリィがゆっくりと歩み寄ってきて、俺に身体を委ねてきたので、俺はそれを抱きしめる。
普段は大人びた妹も、こういう時は歳相応で可愛くなる。
「お前も頑張ったな、後は俺もいてやるから少しは休めよ?」
「はい……」
俺はミリィの頭を撫でてやりながら、親父の元へと向かった。
「親父……」
そこにはまるで眠っているような親父がいた。
まだ皺もほとんどない顔には自慢の髭が綺麗に整えられている。
こうして親父を改めて見ると、親父が死んだという実感がやっと湧いてくる。
親父が、死んだ。
色々な感情もあった。
正直、泣きたいとも思った。
だが、俺は堪えることにした。
妹が泣いている。
従者達も泣いている。
俺は将来、いや、今すぐにでもカーリャ侯爵になる身だ。
俺のするべきことは、泣くことじゃない。
「とりあえず、葬儀の準備は誰が仕切ってるんだ?」
「は、はい、メイド長のアンオツです」
「連絡先に親衛騎士団の幹部を加えるよう伝えてくれ、後で俺が名前を言う。あと、司祭には──」
「……ジャン様、その辺りの手配は全てミリーナ様がされております」
リーヤが言いにくそうに俺に伝える。
「あっそう……だよな?」
俺なんかよりしっかりしてるミリィがずっと泣いて何もしてなかったなんてわけがないよな。
真面目に仕切ろうとしていた俺が馬鹿みたいに浮いていた。
「申し訳ありません、お兄さまと相談しながらとも思いましたが……」
「いや、お前が仕切ってくれるなら俺も楽ができるし、任せて置いたほうがいいよな……」
一緒に住んでもいない脳筋バカには出番もない。
俺はちょっと肩を狭めながら頼もしい妹の隣に腰をかけた。
ミリィは幼く見えるし、実際まだ十四歳なんだが、親父の社交の場には大抵同行し、リーヤと共に親父の外交総監という激務のサポートをしていたような子だ。
前に聞いて信じられなかったんだが、法案も作成していると聞いたことがある。
女の子が政治に携わってるなんてありえないことだし、嘘だと思うんだけどさ。
ま、つまり、そんな話が出てくるくらい、頼りない兄貴よりもよほどしっかりした妹って事だ。
となると俺のやることってのはこいつの心の拠だ。
「ミリィ、いつまでも泣いてるんじゃない。お前が、俺たちがこれからここを引っ張っていかなきゃならないんだからな」
隣で俺によりかかって泣くミリィの頭を撫でながら、俺は優しくそう言った。
「はい……」
ミリィは気丈にも涙を拭き、俺に笑いかける。
よし、この子なら何とかなる。
それを励ました俺、格好いい。
「恐れながら、ジャン様……っ!」
後ろにいたメイドの一人が深々と頭を下げながら、恭しいが、だが、少し憤りを綯い交ぜた口調で俺に言う。
「ミリーナ様は先程までずっとお一人で我々に指示をしておりました。このようにお泣きになられたのも、ジャン様が来られてからです。ですから、そのようなご無体な事をおっしゃられないでください。お願い致します」
「エメル、そのようなことをお兄さまの耳に入れる必要はありませんわ」
「……申し訳ありません、出過ぎた真似をいたしました」
ミリィが叱ると、エメルと呼ばれたメイドは深々と頭を下げた。
その、ミリィを気遣った言葉と、ミリィの俺を気遣った言葉に俺は居た堪れなくなる。
「あー、ごめん、よくも知らないであんなこと言って。ミリィもごめんな。そんなに頑張ってたなんて知らなくてさ」
俺は既に泣き止んでいるミリィの頭をもう一度撫でる。
「いいえ、私はただ、お兄さまの前では頼りのない妹でいたいのです」
そう言ってミリィは俺の方に身を寄せてくる。
可愛い妹で、しっかりした子だ。
それに比べて、俺ってもうここにはいらないよな。
こっそり騎士団に帰ってても、誰も気がつかないかもしれない。
三日くらい経って、そう言えばジャン様は? とか誰かが言い出してやっと俺がいないことに気が付くくらいの気がする。
家にほとんど帰って来てないし、俺ってここではその程度の存在なんだよな。
匿名を前提に、使用人に次のカーリャ侯爵に誰が相応しいか聞いたら、俺が上がるのは三番目くらいじゃないか?
本当ならオヤジの後を継ぐなんて、到底無理なのかもしれないな。
親父、俺は本当に親不孝な息子だったよ。
妹の苦労とか心も知らなかったなんてな。
このままじゃ、駄目だ。
せめてこれからはもう少ししっかりした兄貴そして、主人でいよう。
「親父、俺、これから頑張るからさ、見ててくれ」
もう、俺の言葉に耳を貸さない親父に、それでも俺は誓った。
「さて、じゃあ、これからの話をしようか、ミリィ、リーヤ、あと、アンオツ、親父の前ではうるさいだろうから、どこか話出来るところあるか?」
俺は立ち上がり、ミリィとリーヤ、あとメイド長のアンオツの三人に呼びかけた。
アンオツはメイド長と言っても、リーヤと同じくらい、つまりは俺よりも二、三歳だけ歳上なだけの若い女の子だ。
侯爵家の家内を仕切る、格式高いメイド長としてはかなり若い。
彼女もリーヤと同じように下流貴族の出で、だからちょっと他のメイドとは扱いが違う。
動きやすいように肩で切り揃えたブラウンのストレートヘアが似合っている美人だが、俺はちょっと苦手としている。
何しろこいつは何を考えてるのかさっぱり分からない。
俺は子供の頃、アンオツにもリーヤと同じく悪戯をしていたけど、こいつの場合、主人の息子である俺にも普通におしおきというか報復を返してきた。
しかもそれがとてもきつかった、精神的に。
ある日はズボンを下ろして、妹の前で思いっきり尻が真っ赤になるまでひっぱたかれた。
ある日は、ノーリアクションで庭の池に突き落とされた。
しかも、這い上がってきた俺に「おや、衣装が濡れておりますね」とか言って、俺の着てた服をすべて強引に脱がして、換えの服も持って来ずにそのまま屋敷に帰って行ってしまった。
俺は全裸のまま取り残され、そのままこそこそと股間を隠しながら屋敷へ戻る羽目になった。
しかもこいつ無表情だから、怒っているのか笑っているのかも分からないままに攻撃されるから本当に怖い。
そんなことを繰り返しているうちに、こいつには逆らってはならないと身体に刻み込まれていた。
いやまあ、子供の頃の話で、今そんな事されるわけもないんだが、植え付けられた幼児体験というのは中々消すことが出来ない。
幼児っていうか、十歳位だからだいたい六年前だ。
十歳の俺にとって、十二、三の可愛い女の子ってのは、格好の憧れ相手であって、だからこそ、悪戯しまくってたわけだが、その感情はいつの間にか恐怖に変わっていった。
今では結構な美人だし、スタイルも抜群なんだが、こいつに恋したりムラムラしたりすることは一切ない。
俺たちはそのアンオツに連れられて、テーブルと椅子しかない部屋に案内される。
そこで葬儀の段取りの話を始めることにした。
俺はよく分からなかったので、ミリィやリーヤ、アンオツの話をボーッと聞いているだけだった。
適当な時に意見を求められるので、適当に「抜本的にその件については」とか言って、またすぐにスルーされた。
そんな退屈な時間が過ぎ、高かった日は徐々に落ちてきて、空も紅く色を変え始めた。
「ということで、とりあえず、ジャン様には騎士を辞めていただきます」
そんな時、ぼーっとしていた俺の耳に、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「え? なんでだよ?」
「あなたはこれから我々の主人、カーリャ侯爵になられるお方です。騎士などという危険な任務をなされている場合ではありません」
「……本当に?」
俺は親父が死んたと聞いた時に近いくらいの衝撃と喪失感。
必死に努力して、やっと叶えた魔法親衛騎士団という栄誉を、危険だからやめろって言うのかよ。
「栄誉ある騎士団におられるジャン様には本当に申し訳ないと思いますが、あなた様はもうご自分だけの存在ではないのです。あなた様になにかありますと、我々全員が生きていけなくなります」
リーヤが申し訳なさそうに言う。
「よし、何とかそれを回避する方法を考えてみよう!」
「無理です」
「じゃあ、ミリィを侯爵にしよう! ミリィなら頭もいいし、俺よりも立派な侯爵になれる!」
「女性が侯爵にはなれません、ご存知でしょう?」
俺よりも余程頭のいい女の人がこの世には沢山いるけれど、それらの人は国の要職に就けないことになっている。
それは何だかよく分からないけど、昔からそうだったし、誰もいちいち疑問に思わないほど普通のことなんだよ。
「じゃあ、リーヤがなれよ」
「ご冗談を、私はただの執事です」
「親父の養子になればいい! それなら侯爵になれる!」
「……もちろん、ジャン様がお亡くなりになった場合、そのような事もあったかも知れません。ですが、ジャン様がご存命なら、血のつながっていない私の出る幕はありません」
「諦めるな!」
「身に余る光栄ですが、辞退させていただきます」
リーヤは慇懃に断る。
「じゃあ、リーヤがミリィと結婚すればいい! そうすればリーヤは義弟だし、問題はない」
「私はお兄さま一筋です」
「ジャン様、いい加減に覚悟をお決めになってください。家柄を考えてもジャン様しかおりませんし、ジャン様はカーリャ侯爵に不適格な方でもありません」
リーヤにしては珍しく、たしなめるような声でそう言った。
その前にミリィが何か聞き逃してはいけない事を言った気がしたが、聞こえてない方が幸せだと思うので黙っておこう。
「あー、もうっ! じゃあアンオツ! アンオツでいい!」
「ジャン様、私の話を聞いていらっしゃいましたか? 身分も違いますし、彼女は女性ですし──」
「謹んでお受けいたします」
アンオツが無表情のまま、ゆっくりと頭を下げる。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
これには振った俺も驚いた。
「冗談です」
アンオツは真顔のまま答えた。
何て言うかもう、こいつはいつも心臓に悪い。
「ともかく、こればかりはどうしようもありませんわ……。リーヤも言うとおり、私では代わることは出来ませんもの……」
ミリィも残念そうにそう言った。
そう言えばミリィは騎士の俺は嫌いじゃないんだよな、確か。
いつも親父といるし、俺が騎士団に所属しているってことに賛成はしてないんだが、それはそれとして、俺が魔法親衛騎士団に所属してるって事は自分の誇りにもしてるようだし、喜んでもくれているんだよな。
「申し訳ありませんが、もうジャン様はご自分だけの身体ではないのです」
再度念を押すように言い、沈痛な面持ちのリーヤとミリィ。
二人は、俺がどんな思いで騎士団に入り、それをどれだけ誇りに思ってたか知ってるからこそ、そんな表情になるんだろう。
だから、俺は何も言えなかった。
俺だって侯爵になって背負うものの重さは知っている。
俺は、自分の夢よりも優先すべきものがある。
悔しいけど、仕方がない。
親父に反抗してここまでやってきたが、もう限界か。
じっと俺を見るアンオツ。
こいつも表情には出さないが、同じ気持ちなんだろう。
「ジャン様お腹が空きました、ご飯にしましょう」
違うのかよ!
こいつにとって俺の夢や誇りよりも、今日の夕食の方が大事らしい。
他人事だなあ、まあ他人だけど。
「……ま、仕方がない。気持ちがまだ納得できてないけど騎士団は辞めよう。で、俺はこれから何をすればいいんだ?」
騎士を辞めたとして、もう一つの問題がこれだ。
この国は王から領地を借り受けた恩に報いるために、貴族は王、というか国に奉仕しなければならない。
侯爵だからといって遊んでいるわけにはいかないって事だ。
騎士を辞めることよりも、そちらの方が心配でもある。
俺のような脳筋馬鹿に務まる仕事が、肉体労働以外にあるとも思えない。
「それなら、お父様がお勤めになられていた外交官はいかがでしょうか? それなら私やリーヤもお助け出来ますし」
ミリィが名案を思いついたとばかりにそんなことを言い出す。
いや、そんな駆け引きだらけの、一言で国の明暗が分かれるような仕事、俺に出来るわけないだろ。
「それは無理だな。俺、空気とか読むの苦手だし」
「存じておりますわ」
「知ってるならやらせるなよ」
「ですが、お兄さまはどこに行っても失敗しますでしょ?」
「……少しはお兄さまを敬っていただけないでしょうか?」
「お兄さまは尊敬しておりますし敬愛しておりますわ? ですが、頭を使ったお仕事はお出来にはなりませんわよね?」
「……そうだな」
「ですから、私たちでお助けが出来る外交のお仕事をなされた方がいいと思いますが」
ミリィの言うことは完全に正論で、俺に反論出来る余地はほとんどない。
「けど、俺が外交官やりたいと言っても、出来るわけじゃないだろ?」
「それは可能です。外交総監カーリャ侯爵様のご子息だと言えばよろしいのです。それだけで大丈夫です」
それにはリーヤが答える。
「一応、王様にお伺いを立てに参りましょう、どちらにせよ、侯爵継承のお伺いもまずは内々に立てに行かなければなりませんし」
「侯爵継承のお伺い? なんだそれ?」
俺が言うと、ミリィとリーヤが驚いて顔を見合わせる。
「お兄さま、侯爵は世襲制ではありませんのよ?」
ミリィがこちらを窺うように言う。
その様子が俺には「大丈夫?」と言ってるように思えた。
「え? そうなのか?」
知らなかった、侯爵の息子が自動的に次の侯爵になると思ってた。
「カーリャ侯爵というのは、王様からカーリャ地方という領地を借り受けた貴族の称号です。そして、就任には必ず陛下の任命が必要となります」
リーヤが詳しく説明を始める。
「とはいえ、原則としてその爵位は世襲されます。親が引退する際に自分の息子を推薦して、陛下はそれを承認するからです。今回のように推薦をせずにお亡くなりになった場合、早めに王様にお伺いを立てて、内諾をいただかないと、他の貴族の方に狙われる事もありえます。まあ、陛下がそれを認めるとも思えませんが、用心に越したことはありません」
「……そうなのか」
初めて知る国の制度。
リーヤやミリィの表情からすると、常識なんだろうな、これ。
これを知らないって、結構恥ずかしいことなのか?
とりあえず知ってたふりでもしておくか。
「も、もちろん知ってたけどな? うん、じゃあ、葬儀が一段落したらお伺いに行くか」
俺が言うと、ミリィが我が子を見るような微笑ましい目で俺を見て、リーヤは苦笑していたが、気にしない。
恥に恥を上塗りしただけの気もするが、そんな事を気にしていたら、騎士なんてやってられない。
いや、騎士が馬鹿って意味じゃなく、高い精神力が必要って意味でな。
「分かりました、ではそのように調整いたします」
リーヤが何か革のようなものに書き留める。
「とりあえず、お腹が空きました」
アンオツが飯を急かす。
「他にないなら飯でいいけどさ、何かあるか?」
「打合せしたいことは山ほどありますが、葬儀に関してはこのくらいでしょうか。今後につきましてはまたお話いたしましょう」
とりあえずアンオツに関係があるのは葬儀の事くらいだ。
その打ち合わせを終えれば、とりあえずこの会は閉会してもいい。