第一節
「ジャン様、リネーラ様が参られました」
執事長のリーヤが恭しく頭を下げながら声をかける。
こいつは俺より格好いいので好きじゃないんだよな。
いや、ツンデレ的意味なら大っ嫌いっていうか、つまり、まあ、好きなんだけどさ。
「ん、分かった、部屋に通しておいてくれ」
俺はあえてそっけなく返し、焦らす作戦に出た。
べ、別にリーヤを焦らすわけじゃないだからね!
…………。
あーうん、ふざけすぎたよ。
まあ、実際のところ、リーヤやリネーラ姫に構ってる余裕なんかなかった。
目の前にいる厄介事をまずは解決しなければならないというだけだ。
俺の目の前には目を潤ませた女の子が俺を睨んでいた。
幼さも残る、可愛い造詣の女の子で、ゆるふわのロングヘアがチャームポイントなんだが、そんな子に睨まれるとほっこりして撫でてしまいたくなる。
まあ、あれだ、子犬にきゃんきゃん吠えられるのと同じだ。
とはいえ、おそらくこの瞬間はひとつの修羅場と言ってもいいだろう。
「じゃ、ミリィ、俺の婚約者が来たみたいだから行ってくる」
俺がそう言って婚約者の元に行こうとするのをミリィは入口に立ちふさがって止める。
今年で十四になるミリィはよくもこんなに可愛く成長したなと思うくらい綺麗な顔立ちをしているが、その端正な眉に思いっきり縦皺を入れ、俺を睨みつける。
その瞳が潤んでいるからまた可愛い。
普段は大人しく、どっちかというと十六の俺よりも大人びてるミリィのこんな表情は歳相応の女の子に見えて可愛いんだが、このタイミングでされるとちょっと困りものだ。
そもそも、なんで怒ってるのかさっぱり分からないのが一番困るところだ。
「行かせませんわ! あんな方、私が追い返してあげますわっ!」
ミリィが彼女の背後の扉から出ていこうとするので慌てて止める。
腕を引き、俺の胸に頭を押し込む。
まだ幼くてほっそりとした肢体が俺の中に収まる。
「まあ、落ち着こう。どうしたんだよ、ミリィ?」
俺はそのふわふわのブロンドを優しく撫でてやると、ミリィも少しだけ落ち着いた。
「はふぅ……」
いや、落ち着かせ過ぎたようで、ほっこりとした表情になった。
昔っからこの子は頭を撫でると喜んだんだが、十四になってもまだ喜ぶとは思わなかったな。
まあ、一旦落ち着けば話も出来るだろう。
本人の名誉のために言っておくが、ミリィは普段からこんな理不尽なワガママをいう子じゃない。
むしろ俺なんかよりも遥かに大人な子だ。
この歳の貴族の女の子としてはかなり大人びてるし、社交的な振る舞いも侯爵家の跡取りである俺よりも余程出来るような穏やかな姫君だ。
こんな髪を振り乱してまで怒るミリィを見るのは初めてかもしれない。
怒っても怖いどころかむしろ子犬の威嚇吠えみたいに可愛いんだが、このタイミングと、何よりどうしてそこまで怒ってるのか分からない事が厄介だ。
まあ、婚約者と結婚する話をしたあたりから怒り出したので、俺の結婚に反対してるのは分かるんだが、どうしてそれでいきなり怒るのかが分からない。
俺と俺の婚約者であるリン、リネーラ・ソルス・カザキというカザキ男爵家の娘との結婚は、俺が子供の頃から決まってたし、これまでミリィが何か文句を言ってきたこともないし、今更反対される理由も思い当たらない。
俺も侯爵家の跡継ぎとして、結婚相手を自分で決められる身じゃないが、リンは人形みたいに可愛いし、賢くて俺との結婚に前向きな子でもある。
武の誉れ高い俺、逆に言えば脳筋バカの俺の補佐もしてもらえて、いい伴侶になると思う。
頭が良過ぎるためか、性格はちょっと癖があるが悪い子じゃない。
俺としてはこの上ない結婚相手なんだが、ミリィはそれに反対したいようだ。
俺にはそれがさっぱり分からない。
なんだって今更反対なんだよ、と聞いてもまともな答えは返って来ない。
こんなミリィ初めてだ。
そりゃ、ミリィが俺を好きだから?
男女の仲なら反対もするだろうって?
まあ、そりゃ鈍感な俺だって好かれてるのは分かるし、俺だってミリィは可愛いし大好きだ。
けど、そういう間柄じゃないだろ?
ああ、そう言えば言ってなかったかな、ミリィってのは、通称で、正式なフルネームは、ミリーナ・エクサ・カーリャで、カーリャ侯爵家の娘、つまりは俺の妹だ。
親父も母さんも一緒の、完全に血のつながった妹だから、どんなに可愛くても俺はミリィに恋はしないし、可愛さを愛でることはあっても、こう、女としてムラムラ来ることはない。
流石に自分の妹は性欲の対象にはならない。
「出来ない」じゃなく「ならない」のだ。
で、ミリィももちろんそうなんだろうと思う。
兄妹なんて、どれだけ仲がよくてもそんなもんだろう。
だからこそ、俺の結婚に反対する理由なんて何一つないはずなんだがな。
「俺がリンと結婚するなんて、子供の頃から決まってたことだろ? 今更何を言い出すんだよ? 機嫌が悪いのか? もしかして、生──」
「お月の日ではありませんっ! そのようなお話はお兄さまでも許しませんよ!」
さっきまでふにゃふにゃと微睡みかけていたのに、いきなりまた真っ赤になって怒り出した。
「あ、そうか、食べ過ぎで太ってイライラして──」
「飛翔体当たり!」
「うわあぁぁっ!」
目の前でミリィが跳躍し、頭から俺にぶち当たって来た。
まさかの大技に俺はバランスを崩し、倒れた。
この国の武の者の最高峰である魔法親衛騎士団に所属していた俺が、妹で深層の姫君であるミリィに敗れた。
「私に体重のことを言うと、不幸になります! 不幸になります! 不幸になります!」
倒れた俺の上に跨り、胸ぐらをつかんで、的確に俺の顔面にダメージを与えながらそう言うミリィ。
「言いません、二度と言いません」
その、騎士団でもめったに見られない壮絶な殺気に、俺は萎縮した。
ミリィが退いたので俺は立ち上がる。
あれ? 震えが止まらないや。
「とにかく! 私は五年後と聞いておりましたっ! 今すぐにご結婚なんて早過ぎですっ!」
「まあ、俺もそう思うけどさ、しょうがないだろ? 事情が事情なんだから。逆によく引き受けてくれたと男爵に感謝したいところだ」
「感謝なんてしなくてもいいですわ! あんな方をお義姉さまとお呼びしたくありません!」
普段はあんなに物わかりがいいのに、何故かやたらと食い下がるミリィ。
どうしたんだ? 大技まで繰り出すし。
まあ、とにかく落ち着いて話をするのが一番だ。
「まあ、落ち着けって、ヒッヒッフー、ほら」
俺は一つの呼吸法を示し、ミリィにやってみるように促した。
「? ヒッヒッフー……なんですの、これ?」
「子供を産むときの呼吸法だ」
「産みません! 産まれません! 産めるなら産ませてください!」
ミリィが三段活用で否定──ん? 最後に不穏な発言を聞いたような。
「はあ……もういいです」
ため息混じりに、だが、さっきの呼吸法のおかげで落ち着いたミリィ。
「お兄さまも、将来はカーリャ侯爵となる身です。ご結婚もしなければならないでしょう。お相手もご自分で選べないのも分かります。ですが、まだ早いと言っているのです。お兄さまはまだ十六歳ではありませんか」
「いや、だからさ、分かってるだろ? 結婚しなきゃ駄目だって言われたんだよ、国王陛下に」
「それなら、歳の近い方とご結婚なさればいいのです。どうして六歳も離れたあの方とご結婚なされるのですか?」
「そりゃあ、子供の頃から親が決めてた婚約者だからな。今更婚約破棄は出来ないだろう。そのくらい、俺よりお前の方が分かってるだろ?」
俺みたいな脳筋バカより、社会のルールをよく知っているはずのミリィがそれを知らない訳がない。
まあ実際のところ、婚約を破棄するくらい出来ないわけじゃないが、わざわざそんなことをする理由がない。
「…………」
俺なんかに論破されたミリィは、泣きそうな表情で悔しそうに俺をじっと睨む。
「ううっ……!」
やがて、その目から大粒の涙をこぼす。
「お、おい、ミリィ?」
「お兄さまの、ロリコーーーーーーーン!」
泣き叫びながら、俺を謂れもない言葉で罵倒して走り去っていった。
誰がロリコンだよ。
俺はため息をついた。
あー、うん。
今のミリィの言葉で分かったと思うが、俺は婚約者と六歳ほど歳が離れている。
もちろん、相手が二十二歳のお姉様ってわけじゃない。
いろいろ教えてもらえそうでワクワクするけど、残念ながらそんな事はない。
婚約者のリンってのは今年で十歳になる、まあ、一般的に言えば子供と呼んでも差し障りのない年齢の女の子だ。
ミリィが言ったとおり、結婚も本当なら五年後、彼女が十五歳になった時にすることになっていたんだが、理由があって急遽結婚を進めることになった。
リンは可愛い子だし、頭がいい分大人びている。
正直振る舞いは到底十歳には思えない。
とはいえ、見た目も積み重ねた歳も十歳だ。
俺だって世間的にはまだまだガキと言われるような十六歳だしな。
俺とあの子の結婚生活なんて、想像も出来ない。
ま、想像が出来なくたってしなきゃならないんだけどさ。
とりあえず妨害者がいなくなったところで、リンに会いに行くか。
俺は、廊下を通って応接の間に向かう。
広い応接の間の中心、大きめのソファに座る小さな影。
旅行に向いた短めのスカートがよく似合う、人形のような瞳。
銀色の髪は子供っぽく、ツーサイドアップにしており、色素の薄い顔に浮かぶ表情は、遠目に見ても不機嫌そうだった。
「よお、リン。久しぶりだな、また大きくなったんじゃないか?」
俺はそれでも軽めの挨拶をした。
リンは不機嫌そうな表情のまま振り返る。
そして、小さな顔にしては大きめの目で俺を睨みつける。
「……あと五年もすれば、もっと大きくなってたでしょうね。少なくともあなたにこんな態度は取らなかったでしょうね」
俺の言葉に皮肉で返してくるあたり、これがまだ十歳とは思えないが、見た目は可愛い十歳児だ。
確かにリンの五年後は可憐な姫君になっていることだろう、ま、その言動は貴族の娘に相応しくないが、それでも、人前では貞淑にできる程度には成長することだろう。
この子だってその間に準備もして、立派な侯爵夫人になるように教養を受けることができたはずだ。
それを短縮したのは、本当に申し訳ないと思う。
まあ、だが、これから俺の妻になる子だ。
ここは俺の方が主導権を握るために強く行くか。
「悪いが子供扱いはここまでだ。俺には時間がない。おとなしくするんだ」
「な、何よ……力に訴えるって言うの? それが婚約者にすること?」
リンが少し怯え気味に手を胸の前に置く。
ちなみに十歳の胸は、丸みを帯びた何かがある程度だ。
もちろん俺は武力に訴えるつもりはない。
そもそもこんな可憐な少女には相応の対応があるのだ。
俺は腰のポケットから、出したそれをつい、とリンに差し出す。
「キャンディあげるから許してくれ」
「思いっきり子供扱いじゃないの!」
「あれ? 前の時はこれで機嫌直したんだけどな」
「あれは七歳の時! しかも遅刻のお詫びだったからよ! いきなり結婚しろと言われてキャンディで機嫌が直ると思ってるの!?」
「あるいは、と思ったんだが」
「あんたってほんっとに馬鹿ね!」
リンは腕を組んで俺を馬鹿にしたような目で見る。
「そう言うなよ、二個やるからさ」
「数の問題じゃ──むぐっ!」
俺はリンの開いた口にキャンディをねじ込んだ。
「むぐぅっ!」
「まあ、そう怒るなって。悪いとは思ってるんだよ。ミリィも他の子と結婚しろとか言ってたけどさ、俺としてはもうお前以外には考えてなくてさ、だから巻き込んで本当に悪いと思ってるが、勘弁してくれ」
俺は婚約者の髪を優しく撫でながら宥める。
「ちゅぽっ……別にあなたとの結婚が嫌だとは言ってないわよ」
キャンディを口から出したリンは頬を染めてつい、とそっぽを向く。
「あなたは見た目も悪くないし、力も強いし。あ、そう言えば魔法親衛騎士団に入ったんですってね。婚約者として鼻が高いわ」
「いやまあ、入ったっていうか、入ってたっていうか」
「ま、あなたと結婚することで将来は侯爵夫人になるし、カーリャ侯爵家といい関係が出来れば、うちの男爵家もお互いの関係を高め合うことが出来て、栄えて行くと思うわ」
リンは、穏やかな物言いだが、いまだ不機嫌な表情を残したまま、俺を睨みつけるような目で見つめている。
「でもね、さすがに十歳は早すぎよ! あのね、本当なら十歳って言ったら子供なのよ? その子供相手に何しようっていうのよ、このロリコン!」
妹に続き、婚約者にまで言われてしまった。
「俺、ロリコンじゃねえよ?」
傷ついた羽を広げて、俺はリンを威嚇した。
あれ? 俺、泣いてる。
「だったらあと五年くらい待ちなさいよ! 五年後には私もちゃんと準備して待ってるし、一生をあなたに捧げるわよ!」
あー、こんな可愛い子にここまで言ってもらえるのは、本当にありがたい。
この子が俺に人生を捧げてくれるなら、俺だってこの人生を──ん? 待てよ? そうなると俺のハーレム計画はどうなる?
侯爵になったら、ハーレム作って退廃的な生活を送るつもりだったのに、この子に一生を捧げていいのか?
でも、この子の誠意には応えなければならない。
どうする?
いや、それなら、いい案がある!
「よし、リン、お前は俺のハーレムの第一主人に──」
「熊の拳!」
リンの容赦ない拳が俺の顔面にめり込む。
その拳は、確かに前怒らせた時よりも強烈だった。
リン、お前、成長したな。
「あーもう全く!」
ぱしん、と俺を平手で叩く。
「あなたのその性格を今のうちに治したい! 治せないと分かったら、あなたを殺して私は悲しみの中生きる!」
生きるのかよ。
「落ち着けって、ヒッヒッフー、ほら」
「産めるかっ! まだ何もしてないしってするつもりかあぁぁぁぁっ!」
何だか物凄く怒られ、額を平手でぺちぺちと連打された。
ていうか、産むときの呼吸法ってことは知ってるのか、凄いな。
「したってまだ産める身体じゃないわよ……自分で言うのもなんだけど、子供は子供産めないのよ?」
「知ってるし、そういう意味でやれって言ったわけじゃないからさ。この場を和ませる冗談だ」
「お産の呼吸法で和むのはあんただけよ! ……はあ、まあいいわ、どうせ騒いだって変わらないんでしょ? 結婚しろって言うならしてあげるわよ」
観念したように、リンがそう言って、ぺたん、とソファに座る。
「ああ……まだ、あの研究、途中だったのに……」
そのため息には、十歳とは思えない、大人の憂いがあった。
カザキ男爵家は代々知識のある者を多く輩出しているが、リンはその中でも類を見ない天才と謳われているそうだ。
その歳にして既に男爵領地内にあるネイガル魔法学園を卒業し、その後も学園に残り、教師や研究者として今も活躍している。
そんな天才も、十五歳にして俺と結婚することになったら、一生を俺に捧げて、研究も辞めるつもりだったらしい。
俺はそんな国の宝を俺の手で潰したくはなかったから、研究は続けさせるつもりだった。
ネイガル学園は、首都にも本校以上の規模の分校があるし、そこに通わせるつもりで、屋敷でも研究施設くらい用意するつもりでいた。
が、こういきなりともなると、俺の方も準備が出来てないし、あと五年は猶予があると思ってたリンも講義や研究を投げ出して来なければならなくなる。
だから、リンの怒りは最もなんだよな。
本当に申し訳ないと思っている。
俺だってさすがにロリコンじゃないからさ。
ロリコンじゃないからさ!
リンは嫌いじゃないが、だからと言って十歳のリンをどうこうするつもりもないし、この状況に困ってる。
一体どうしてこんな状況になったのか。
なぜ俺は十歳の女の子と結婚する事になったのか。
話すとちょっと長くなるけど話してみようか。