名のない幻
──人はね、確かなものより都合のいいものを信じる。
それが「祈り」だと言う者もいれば、「愚か」と蔑む者もいるけれど、
どちらにしても、その灯さえもなくなったら世界は暗いままだよ。
まあ可愛いもんさね。
ただし、嘘を喰らって生きるには、丈夫な胃袋がいるけどね。
酒場は酔客の賑わいと笛の音で満ちていた。
異形の旅人が扉をくぐると、たくさんの目がそちらに向いた。
荷馬車の主が進み出て何かを大声でまくしたてる。
オークのことを伝えているらしき「エルフ」という名だけが、かろうじて聞き取れた。
人々が彼を囲み、祝宴が始まる。
賛美と歓声、盃の音。
オークの男はただ座り、話を聞こうと無駄な努力をして、酒には口をつけなかった。
オークの側には男も女も次々にやって来たが、誰も彼もが小さく細いことに驚きを覚えていた。
老いた魔女が特別華奢なだけで、普通の人間は故郷の民のように逞しい身体つきだと思い込んでいた。
騒いでいる中の一人として、彼の名を知らない。
だがその夜、人間たちは名のない幻を信じて疑わなかった。
喧噪の片隅で、荷馬車に乗っていた少女が黙ってオークの手元を見つめていた。
指の節、杖の造形、歩きの重さ──どれも伝承の“森人”とは違っている。
少女の黒髪は影に馴染み、彼女が酒場を去るのを見咎める者はいなかった。
オークは宴を知らずに育つ。
飢えと共に歩み、渇きと共に立つ。
空腹に斃れることを誉れとはしないが、満腹で眠ることを恥と呼ぶ。
オークの盃には、燃え盛る鉄が満ちているものだ。




