火の魔法
──氷の魔法? やめときな。お前にゃ向かないよ。
誰にも生まれ持った定めってのがあるもんだ。
なに、火が怖いのかい?
ヒッヒヒヒ。そりゃいい、決まりだね。
なに言ってんだい。魔法使いにはうってつけの才能じゃないか。
誰だってねえ、怖いものほど詳しくなっちまう。
逃げ出したいものほど、無意識に、よおく見ちまうもんだからねえ。
脳裏に響く師のしわがれた声は、湿った地下の冷気に溶けて消えた。
壁の松明が、揺れる光で闇を舐めている。
その淡い橙の中に浮かび上がったのは、少女の首筋に冷ややかな短剣を押し当てる、痩身の男だった。
人間は見分けづらいが、わずかに見覚えがあった。
領主の側近として慇懃に控えていた男の顔は、いまや欲望と焦燥に歪み、崩れた岩肌のように醜悪だった。
わめき声はやはり聞き取れないが、友好的ではないことはよくわかっていた。
影に目を凝らすと、刃物を手にした黒装束が、オークを取り囲んでいる。
オークの男は表情こそ変えなかったが、手が震えるのを自覚した。
こんなことは老魔女に浮遊魔法の訓練として木のてっぺんから突き落とされた時以来だった。
彼は恐れた。
周囲の状況を、ではない。己の内から湧き上がる衝動が、抑えきれないことを危惧していた。
影から刃が迫り、オークの分厚い皮膚を捉える。
《賢者様!》
側近の男の腕の中で少女がもがき、頬に短剣が当たる。
魔女の訓練で浮遊魔法は習得できなかったが、痛みに耐える精神を得た。
しかし怒りを抑える訓練は十分ではなかったのだ。
オークが杖を振ると、松明の火が、身悶えするかの如く揺らめいた。
「……燃えよ」
地底を震わせるような低い呟きとともに、杖から漏れ出た火炎が意思を持った大蛇へと変貌する。
彼が最も恐れ、もっとも忌避し、ゆえにその性質のすべてを──熱さも、爆ぜる音も、命を焼き尽くす無慈悲さも──深く深く理解してしまった「火」の魔法。
彼は炎の暴力的な輝きから目を離せなくなることを恐れていた。
そしてそれが、なにか繊細で大切なものを焦がしてしまうことを、何より恐れた。
爆音とともに溢れ出した焦熱は周囲を囲む刺客たちを一瞬で呑み込み、絶叫さえも灰へと変えていく。
しかし、その猛火の渦中にあって、少女を抱く側近の男だけは、熱に焼かれることはなかった。
ただ眼前に迫る巨大な「死」の具現に腰を抜かし、でたらめに刃を振り回している。
炎の壁に巨大な影が揺らめき、紅く熱された杖が閃いた。
じりじりとあちこちで火種が燻る中、わずかに煤をまとったオークが静かに跪く。
傷つけることを恐れたその横顔が、薄闇の中浮かび上がるようによく見えた。
震える手で少女を抱き上げると、オークは壁に叩きつけられ呻きもしない男を横目に歩み出す。
水路を一陣の風が吹き抜け、地下の熱気と罪の残滓をすべて水門の向こうへと押し流していった。
《……お見事でした、賢者様》
腕の中、少女が震える声で、しかし確かな信頼を込めて囁く。
オークは応えなかった。
ただ、己の内に巣食う「火の恐ろしさ」と、師がかつて教えてくれた「火の暖かさ」の境界線を、いま初めて、祈るような心地で理解する。
夜明け前の街へと続く石段を、大男の影が不器用に登っていった。
オークにとっての守護とは、大地が芽吹く命を抱くが如き、無言の道理である。
彼らの剛腕は鉄を鍛え、鉄を壊すためにのみ振るわれるが、守るべき一朶の光を前にしたとき、それは難攻不落の城壁と化す。
その守りが崩されることは、彼らの足元にある掟や血そのものが汚されるに等しい、堪え難き屈辱に他ならない。
破壊を宿命づけられた血族が唯一、神にも似た創造に触れることができる神聖な営みなのだ。




