第一話 名前のない朝
目を覚ました瞬間、世界がひどく静かだった。
音がないわけじゃない。
エアコンの微かな唸り、カーテン越しの車の走行音、遠くで鳴く鳥の声。
それらすべてが、自分とは無関係なもののように感じられた。
天井を見上げたまま、しばらく瞬きもせずにいる。
――ここは、どこだ。
体を起こそうとして、胸がざわついた。
理由はわからない。ただ、何か大切なものを落とした感覚だけが、確かにあった。
ゆっくりと起き上がり、部屋を見渡す。
整えられた一人暮らしの部屋。
使い込まれた机、読みかけの本、脱ぎ捨てられた上着。
どれも「自分のもの」のはずなのに、どれ一つとして、懐かしさがない。
喉が、ひくりと鳴った。
「……俺は……」
声を出した瞬間、言葉が途切れた。
続くはずのものが、ない。
名前。
そう、自分の名前が、どこにも見当たらなかった。
頭の中を必死に探る。
年齢、仕事、過去の出来事――断片的な知識はあるのに、
それらを束ねる“自分”という核だけが、抜け落ちている。
心臓の音が、やけに大きく聞こえ始めた。
そのとき、枕元でスマートフォンが震えた。
びくりと肩が跳ねる。
恐る恐る手に取り、画面を確認する。
《おはよう。起きた?》
短いメッセージ。
送り主の名前を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
知らない。
はずなのに――涙が出そうになるほど、苦しい。
指が震え、画面を握りしめる。
この人は誰だ。
なぜ、こんなにも心が反応する。
数分迷った末、たった一文を打ち込んだ。
《……あなたは、誰ですか》
送信。
後悔が、即座に押し寄せた。
何か取り返しのつかないことをしたような感覚。
返信は、すぐに届いた。
《また、忘れたんだね》
その一文を読んだ瞬間、視界が滲んだ。
「……また?」
声に出した途端、堪えていた涙が零れ落ちる。
――知っている。
この人は、知っているんだ。
俺が、こうなることを。
スマートフォンが、再び震えた。
《大丈夫。落ち着いて》
《今日は、家で待ってて》
不思議と、その言葉には逆らえなかった。
理由もないのに、「信じてもいい」と思えた。
それから一時間後。
インターホンが鳴った。
心臓が跳ねる。
扉の向こうにいるのが誰なのか、わかっていないのに、
それでも――会いたいと思ってしまう。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、
少し困ったように笑う人だった。
「おはよう」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。
「……初めまして」
そう言うと、その人は一瞬だけ目を伏せ、
それから、優しく微笑んだ。
「うん。初めましてだね」
まるで、何度も繰り返してきた言葉のように。
「でも、安心して。ちゃんと教えるから」
その人は、一歩近づいて言った。
「あなたの名前は――」
名前を告げられた瞬間、
胸の奥で、何かがかすかに震えた。
思い出せない。
それでも、失くしてはいけないものがあると、体が理解している。
この人だ。
理由も、過去も、何一つわからない。
それでも確信だけは、はっきりとあった。
――きっと俺は、この人を、何度でも好きになる。
その予感だけが、
名前を失くした世界で、唯一確かなものだった。




