第9話 本当に乗馬するなんて
土曜日の朝。
湖の光がカーテンの隙間から差し込んで、部屋の中をゆっくり白く染めていく。
カラン、と氷の音。
ウイスキーじゃなくて今日はアイスコーヒー。
少し大人になった気分だ。
別荘を買ってから、仕事の調子が明らかに変わった。
平日はやけに集中できるし、残業も減った。
週末を“楽しみにできる”ってだけで、人間ここまで違うのかって思う。
ソファに沈み込みながら、ぼんやり湖を眺める。
あの向こう岸から、泳いできた子がいると思うと、ちょっと笑える。
今日は──不動産屋のエルフ(のお姫様)。
確か、今日また来るんだった。
乗馬の練習をしてくれるらしい。
ピザのお礼くらいにしか考えてないんじゃない?
なんたって姫様だもんね。
「……ほんとに来るのかな」
なんたって姫様だもんね?
半信半疑でコーヒーを飲み干す。
そのタイミングで、チャイムが鳴った。
ピンポーン。
「うわ、来た」
慌てて立ち上がる。
玄関を開けると、外の光がまぶしくて目を細めた。
「こんにちわー!」
元気な声。
やっぱり彼女だった。
前回と違って今日は町娘モードじゃない。
動きやすそうな服装──ピッチリした黒いシャツに、ストレッチのきいたパンツ。
シルエットが、なんというか、めちゃくちゃ整ってる。
出るとこ出て、締まるとこ締まってる。
この人も着痩せするタイプだな……。
「おはようございます。準備できてます?」
「え、ええ、まぁ……」
言葉が裏返る。
彼女の後ろには、立派な白毛の馬がいた。
陽射しを浴びて毛並みがつやつや光ってる。
「え、あの、それ……」
「ウチにいる大人しい子を連れてきました」
ウチって、ウチ?
そうだ、彼女たちって向こうの世界の住人だった。
つまり、城とか厩舎とか、そういう“ウチ”。
「さぁ、触ってみてください」
おそるおそる手を伸ばす。
馬の鼻面があたたかい。
呼吸がふわっとかかって、手のひらが少し湿る。
「すご……。毛並み、きれいですね」
「ちゃんと朝シャンしましたから!」
「シャンプーするんですか!?」
「泡立ちはイマイチですけど、気分ですよ気分」
そんな会話が妙に自然で、思わず笑ってしまう。
この人たち、本当に異世界の住人なんだろうか。
「じゃあ、まず跨いでみましょうか」
「え、もう?」
「はい、乗るだけです」
促されるまま、彼女が手を差し出す。
指が細いのに、驚くほど力強い。
片足を鐙にかけて体を持ち上げると、世界が一段高くなった。
「おお……」
思わず声が漏れる。
見下ろす湖。風が頬を撫でていく。
ちょっとだけ、夢の中みたいな気分。
「うぉー、乗れた!」
「ふふっ、最初にしてはバランスいいですよ」
「マジですか。才能あります?」
「ありますあります」
即答。多分、半分は社交辞令。
彼女は手綱を取って、馬の鼻を軽く撫でる。
「じゃあ、このへんをゆっくり歩いてみましょう」
彼女が軽く合図を送ると、馬が静かに動き出す。
足元で草が擦れる音。
湖面に光の粒が跳ねて、遠くで鳥が鳴く。
世界の時間が少しだけゆるやかになる。
「気持ちいいですね」
「でしょう? 風が当たる感じが好きなんです」
「確かに。……でもこれ、落ちたら痛そう」
「大丈夫、私がいます」
さらっと言われて、心臓が一拍ずれた。
彼女はこっちを見ずに笑ってる。
馬の首筋を撫でながら、太陽に目を細めていた。
しばらく湖畔を回って、木陰で止まる。
汗が額ににじむ。
馬も鼻を鳴らして、のんびりしてる。
「どうでした?」
「最高でした」
「じゃあ、次はちょっと走ってみましょうか」
「えっ」
「次回の課題ですね」
彼女がいたずらっぽく笑う。
その笑顔に負けて、つい「了解です」と言ってしまった。
湖面のきらめきがまぶしい。
こうして誰かと笑いながら過ごす週末がある。
それだけで、世界がちょっと好きになれる気がした。
「次も……お願いします」
「はい、喜んで」
馬が鼻を鳴らして、風が通り抜けた。
その音が、まるで拍手みたいに聞こえたんだ。




