第8話 散策がしたいよ
平日。
昼下がりの街は、オフィス街特有の熱気が立ちこめている。
アスファルトからの照り返しが目に痛い。
今日は珍しく外回りの日。
午前中に二件回って、あと一件寄ったら会社に戻って書類処理。
……の予定だった。
でも頭の中では、別荘の湖がずっとチラついてる。
湖面の反射とか、あの風の匂いとか。
今すぐハイボール作って足を伸ばしたい。
「はぁ、もう金曜にならないかな」
誰に言うでもなくつぶやく。
信号待ちの人混みに溶けて、すぐ消えた。
カバンの中のスマホが振動する。
営業メールの返信……戻ってからでいいやつだなコレ。
ホーム画面に映るのは、別荘の写真。
最近撮ったやつ。
湖のほとりに置いた折りたたみチェアと、半分沈む夕陽。
それだけでちょっと元気が出る。
この前、湖で泳いでたあの子のことをふと思い出す。
受付の子。
濡れた髪といたずらな笑顔。
あの後、「また泳ぎにきますね」って言ってたけど、本当に来るんだろうか。
ぼんやりそんなことを考えてたら、ふと思い立った。
──自転車、置けないかな。
別荘の周り、けっこう広いし、道も整ってるっぽい。
あれをサイクリングできたら最高だろう。
……たぶん。
でも、あそこ異世界なんだよな。
交通ルールとか、そもそも舗装って概念あるのか?
電話して聞いてみよ。
気になって、ついスマホを耳に当てた。
発信先:不動産屋。
姫様か、受付の子か、どっちが出るかな。
数コールで声がした。
「あっ、いつもお世話になってます!」
元気な声。姫様だ。
「あ、どうも。あの……ちょっと相談があって」
「はい、どうぞ!」
「別荘に自転車、置いてもいいですか?」
一瞬、沈黙。
「……自転車ですか?」
「はい」
「うーん……」
うーん、て。なんでそんな難しい声出してるんだ?
「やっぱり、難しいですかね」
「いえ、物理的には置けますけど……乗るんですか?」
「はい、まぁ……そのへんをサイクリングとか」
「サイクリング……」
電話の向こうで小声の相談みたいな声がした。
“舗装”とか“車輪”とか、“馬車でごまかせる?”とか聞こえる。
聞こえちゃってる。
「湖の周回路については、まだ整備ができていなくて……」
「なるほど」
「でも!」
彼女の声が一段高くなる。
「乗馬じゃダメですか?」
「……え?」
あまりに意外すぎて言葉が止まる。
「馬なら道ありますし! 湖の外周も回れます!」
「い、いや……馬、乗ったことないんですけど」
「大丈夫です! 今度の休みに練習しましょう!」
テンションが高い。めちゃくちゃ前向きだ。
「え、ちょ、いや、ちょっと待って」
「じゃあ土曜の午前、別荘で!」
「え、もう決まってる!?」
「楽しみにしてますね!」
プツン。
通話終了の表示。
まじかよ。
また勝手に予定が決まった。
信号が青になったことに気づいて慌てて歩き出す。
アスファルトの照り返しがさっきより強い。
頭の中で「馬」「別荘」「練習」という単語がぐるぐる回る。
……馬。
人生で一度も触れたことがない。
ていうか、別荘の庭で乗馬練習って成立するのか?
あの子、どんなスケールで物事考えてんだ。
「でも、まぁ……楽しそうではあるか」
口に出してみると、ちょっとだけ笑えてきた。
思えば、あの別荘を買ってからというもの、
金曜の夜が楽しみで仕方ない。
不動産屋の人たちも変わってるけど、嫌いじゃない。
「よし、週末、落馬しないように頑張ろ」
自分で言って笑った。
昼の喧騒の中で、ひとりだけ週末のことを考えてる。
それだけで少し勝ち組な気がした。




