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弦巻天竹 人形夜話

月の波間

作者: 黒森 冬炎

 笹谷扇(ささたにおうぎ)は、若手人形作家・弦巻(つるまき)天竹(てんちく)を応援している。天竹は笹谷より少し歳上である。本名は甚五(じんご)だが、笹谷は尊敬を込めて天竹先生と呼んでいた。


 ある月の明るい夜のことだ。空に昇ったのは、獣の牙のように細く尖った月だった。雨戸のない安アパートでは、カーテンの隙間から蒼白い光が漏れてくる。隙間風に揺れるカーテンが、月の光を漣のように乱していた。


 月光の波が笹谷の顔を洗う。波は、寝床の脇にある窓から流れ込み、反対側にある棚にも時折届いていた。ちょうど丑三ツ時になった頃、その棚からカタカタと微かな音がし始めた。棚には鮮やかな赤い絹張りの箱が置いてある。天竹から貰った中国土産だ。


「ん?」


 カタカタと続く音に、とうとう笹谷は目を覚ました。


「鼠か?安アパートだし、ついに出たのか?嫌だなぁ」


 ぶつくさ言いながら、笹谷は枕元の電気スタンドを点けた。音はピタリと止んでしまった。


「出てくるなよ?」


 笹谷は音がしていた方向に向かって、脅すように言った。電気スタンドの光は弱く、棚の方までは届かない。箱がある辺りには、いまだに月光の波が揺らめいている。


「ふう」


 笹谷は念のため電気を点けたまま、布団に潜り込んだ。



 カタ

 カタカタ

 カタリ


 笹谷が寝息を立て始めた頃、棚に置いてある箱が再び音を立て始めた。笹谷の眉が寄せられる。転々と寝返りを打つ。棚の上では、月光の川を流れて行くかのように、赤い箱が踊っている。


 ガタン


 一際大きな音がした。波に攫われるような動きで、箱が棚を飛び出したのだ。笹谷はガバリと起き上がる。布団を跳ね除けて床に立つと、音がした方角を凝視した。


 棚から落ちた弾みで、箱の蓋が開いている。笹谷が恐る恐る近づいてゆく。カサカサと紙が擦れ合う音が聞こえた。


 一歩、また一歩。

 笹谷は用心深く足を進める。赤い箱との距離が少しずつ縮まってゆく。音は続いている。それは、蒼白い月光の川波に揺れる赤い箱の中から聞こえているようだ。全てが蒼白い夜の寝室で、箱だけが奇妙に赤くゆらめいていた。



「虫か?」


 笹谷は素早く寝床へと戻り、枕元の棚から殺虫剤を取り出した。逃げられないように足音を忍ばせて、更なる用心をする。そっと、そっと、裸足の裏にフローリングの冷たさを感じながら進む。蒼白い波に洗われた笹谷の裸足が目の端に映る。笹谷は、まるで渓流に足を踏み入れたかのような錯覚に陥った。


 赤い箱の中には、中国の伝統影絵「皮影戯(ピーインシー)」の人形が入っている。男女一対となっている、色鮮やかな影絵人形である。白蛇伝の主役である白蛇と薬師だ。関節が動くようになっていて、手脚に細い竹の操り棒が付いていた。


 カサカサという音も、竹の葉が風に擦れ合う音に聞こえてくる。この箱を貰った時に聞いた情景が思い出された。箱をくれた天竹は、中国の竹林で不思議な体験をしたのだ。渓流沿いに歩いていたら、青い衣を着た女性がいた。彼女は古琴の調べにのせて、有名な物語「白蛇伝」を謳い語ったのだという。


 女性が謳い始めると、虚空から現れた人形達が操り手も無いまま皮影戯を演じたのだそうだ。琴の調べと青い女性の語り歌が終わると同時に、人形たちはまた空気の中に溶けるように消えてしまった。



 笹谷は、殺虫剤を構えて素早く箱を覗き込む。その時、月光ははっきりと水音を立てて影絵人形を攫った。


「ああっ」


 笹谷はギョッとした。殺虫剤を片手に凍りつく。微かな女性の声がしたのだ。声は若い娘のもので、影絵人形から上がったようである。それだけではない。蒼白い波に呑まれた女性の人形を庇うように、男性の人形が腕を動かしたのだ。一対の人形は、抱き合うような形で月の川を流れてゆく。


 蒼白い川は笹谷の寝室をぐるりと一周すると、今度は大きく渦を巻く。それも治ると、笹谷は湖の上に立っていた。「白蛇伝」の故郷、浙江省(チェージャンショウ)にある西湖(シーフウ)のようだ。笹谷はかつて紀行番組で観たことがある。日本の湖とは桁違いの広さだ。ここにかかる橋の上で、白蛇と薬師は出会ったのだ。


 白蛇伝は古い説話で、中国各地にさまざまなヴァリエーションがあると聞く。その中で最も人気があるのが、この西湖を舞台とする白蛇伝だ。


「えっ、夢か?」


 笹谷は、自分で夢と認識できる夢を観たことがなかった。しかし、そういう夢が存在することは知っている。


「やぁぁぁ!」


 耳元で若者の声が響いた。ヤケクソのような雄叫びだ。見れば、影絵人形の薬師が飛びかかって来るではないか。薬籠を背に負っている。武人ではない。軟弱な若者だ。たとえ愛する人の正体が妖怪変化であろうとも守ろうとする必死さに、笹谷は胸を打たれた。



「いや、でも、なんで?」


 笹谷には心当たりがまるでない。


「あっ、やめろ」


 身に覚えのない攻撃を避けて、笹谷は湖上を走る。人形が襲って来ることも、自分が湖の上を走っていることも、突然西湖に来てしまったことも、全て頭から抜け落ちていた。今はただ、必死の形相で殴りかかる薬師の人形を()ける。


「何をするんだ?家に帰してくれよ」


 人形はキョトンとして攻撃をやめた。薬師が白蛇の元に走り寄る。白蛇の人形は若い娘の姿だ。ふたりは不安そうに顔を見合わせ、笹谷のほうを盗み見た。


「はあ。関係ない者を巻き込んではいけないよ」


 笹谷は諭すように言った。人形は胡乱な目付きで笹谷を見上げる。


「君たちの元となったふたりは、今生でまだ出会ってないそうだね」


 人形から殺気が漲った。笹谷は慌ててしゃがむ。人形から見れば、自分が巨大な怪物なのだと気がついたからである。


「出会って生涯を共にするかもしれない。もしかしたら、今生では出会わないのかもしれない」


 人形たちの眼が吊り上がる。


「まあ、待ちなさいよ。よくお聞き」


 笹谷青年は宥めすかすように、静かな声で言った。


「そのどちらでも幸せな人生だと思うんだ。彼等の初めの生涯だって、はたから見れば悲恋だけれど、そこまで愛し合える人と出逢えたのは、紛れもなく幸福だと言えるだろう?」


 人形は身じろぎした。薬師は騙されないぞ、という敵意を滲ませる。白蛇には迷いが伺えた。


「君たちは、遠い昔に愛し合った二人の影なのだから、今生出会いもしないのには不服かもしれない」


 薬師は厳しい表情で頷く。白蛇は不安そうに薬師の肩に己の手をのせた。


「でもね。今生の彼等には今生の彼等の生涯があるんだよ」


 悲恋に終わったふたりだから、来世での再会を望むことも不思議ではない。


「その二人は、君たちじゃないしね」


 彼等は、ただの影絵人形だ。生まれ変わりのふたりは、どこかでそれぞれの今生を生きている。


「かつての白蛇と薬師が、今、生まれ変わっていようと、そもそもが架空の存在だろうと、君たちは現代の観客たちから喝采を浴びる物語の主役だろう?それでいいじゃないか」


 影絵人形たちは、憑き物が落ちたように穏やかな表情になった。



 気がつくと、笹谷は朝の光の中で寝床に横たわっていた。横を見ると、フローリングの上に赤い箱が落ちている。蓋が開いた絹張りの箱に寄りかかるようにして、影絵人形が一対、笹谷のほうを向いている。


「箱は窮屈だったかい?」


 笹谷は箱と人形を拾うと、丁寧に棚の上に飾った。



 その日から、月光が部屋に流れ込む夜になると、人形たちは白蛇伝を上演してくれた。ただ、笹谷が不満に思うことがある。


「なんで高僧の役させるんだよ!ナレーション役でもいいじゃないか」


 毎回、笹谷が苦言を呈する。その度に人形夫婦は、おかしそうに笑い合うのだった。




お読みくださりありがとうございます

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― 新着の感想 ―
拝読させていただきました。 人形に魂がこもりましたか。 笹谷さんは人形たちの気持ちを導いたのに、損な役回りですね。
からくり人形さんたち、この頃からちゃんと生きているのですね。 今生には今生の……なんだか沁み入るような言葉ですね。 最後の笹谷さんのツッコミに、なんだか微笑ましい気持ちにさせてもらいました。 読ませて…
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