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干渉水域

作者: 宵町あかり

『夏のホラー2025』企画応募作品をお届けします。


現実と虚構の境界が曖昧になる、SF的ホラー短編「干渉水域」。

洗面所の鏡に映る「もう一人の自分」との奇妙な交流から始まる、

アイデンティティクライシスと現実侵食の恐怖をお楽しみください。


お楽しみください!

シャワーを浴びるのは、私にとって一日の終わりの儀式だった。


 午後十時。いつものように熱めのお湯を浴びて、一日の疲れと汚れを洗い流す。仕事の書類、電車の排気ガス、同僚の視線、すべてを湯気の向こうに追いやって、清潔な自分に戻る時間。


 最近、その同僚の視線が私を素通りするようになった。朝の挨拶も、昼休みの会話も、まるで私が透明人間になったかのように。母に最後に電話をしたのは、いつだったろう。三ヶ月前か、もっと前か。あの時、母は「また今度でいいから」と言った。母はいつも忙しくて、私の声など聞こえないようだった。今度は、いつ来るのだろう。


 その朝、カレンダーの日付が昨日と違う気がした。二十三日のはずなのに、二十四日になっている。記憶違いだろうか。それとも、私が一日を失ったのだろうか。


 洗面台の鏡を見る。くたびれた顔の自分が映っている。歯を磨き、洗顔をして、髭を剃る。毎日同じ順序、同じ動作。変わることのない、安心できる日常。


 しかし、その夜は違った。


 歯を磨きながら鏡を見ていると、映っている洗面所がいつもと微妙に違うことに気づいた。


 私の洗面所には、右側の壁にタオル掛けがあり、その隣に小さな観葉植物を置いている。左側にはシャンプーボトルが三本並んでいる。


 だが鏡の中の洗面所では、タオル掛けが左側にあり、観葉植物の代わりに小さな写真立てが置かれていた。シャンプーボトルは四本。


 歯ブラシを止めて、鏡をじっと見つめた。


 鏡の中の自分も、同じように歯ブラシを止めて、こちらを見つめていた。


 ゆっくりと右手を上げる。鏡の中の自分も右手を上げた。しかし、その手が向かう先は、私が実際に触れようとしている場所とは微妙にずれていた。


 心拍数が上がった。


 鏡に手を近づけると、反射した私の手も近づく。しかし、触れる瞬間、鏡面に小さな波紋が広がった。


 まるで、水面に触れたかのように。


 鏡の奥から歌うような、泣くような音が響いた。次元の境界が軋んでいるような、不自然な音。


 慌てて手を引いた。鏡面は元通りの固いガラスに戻っている。軋み音も消えた。


 きっと疲れているんだ。残業続きで、幻覚でも見ているのだろう。そう自分に言い聞かせて、歯磨きを終えて寝室に向かった。


 しかし、寝る前にもう一度洗面所に戻って鏡を確認してしまった。


 今度は、いつも通りの洗面所が映っていた。タオル掛けは右側、観葉植物もシャンプーボトルも、すべて正しい位置にある。


 安堵の息をついて、ベッドに向かった。


◆◇◆


 翌日の夜、再び洗面所に立った。


 昨夜のことは、やはり疲労による幻覚だったのだろう。そう思いながら、いつものように歯を磨き始めた。


 だが、鏡を見た瞬間、また同じ現象が起きた。


 今度は、さらに詳細に観察できた。鏡の中の洗面所は、確実に私の洗面所とは違っていた。壁の色が微妙に明るく、床のタイルの模様も異なっている。照明も、私のものより上質で温かみがある。


 そして、鏡の中の私の服装も違っていた。


 私は白いTシャツを着ているのに、鏡の中の私は薄いブルーのシャツを着ていた。生地も、私が着ているものより明らかに高級そうだった。


 鏡に向かって手を振ってみた。鏡の中の私も手を振り返す。しかし、その動きは完全に同期していない。わずかな遅れ、わずかなずれがある。


 そして、その瞬きが不規則だった。まるで、意識的に私とは違うタイミングで瞬きをしているかのように。


 恐る恐る鏡に手を近づけた。


 今度ははっきりと分かった。鏡面が液体のように波打っている。指先が触れると、まるで静かな水面に触れるように、小さな波紋が広がった。


 囁くような音が響いた。水の中から聞こえる、遠い声のような。


 向こう側の私も、同じように手を近づけている。


 その時、驚くべきことが起きた。


 鏡の表面を通して、向こう側の私の指先に触れたのだ。


 冷たく、湿った感触。確実に、もう一つの現実の感触だった。


 慌てて手を引くと、鏡面はゆらゆらと波打ちながら、やがて平静を取り戻した。


 私は息を切らしながら鏡を見つめた。向こうの私も、同じように息を切らしている。


 しかし、その表情に、私は言いようのない違和感を覚えた。


 それは確かに私の顔だった。しかし、微妙に違った。目つきがより鋭く、口元により確信に満ちた表情が浮かんでいる。肌の艶も良く、疲れた様子がない。


 まるで、私よりもずっと充実した生活を送っているかのような。


 そして、その口元に不気味な笑みが浮かんだ。


 鏡の中の私が口を動かした。声は聞こえないが、その唇の動きから言葉を読み取ることができた。


「君は誰だ?」


 私の心臓が跳ね上がった。


 そして、気づいてしまった。


 私は、鏡の中の私に話しかけられた。しかし、私自身はまだ何も話していない。


 つまり、私と鏡の中の私は、もはや完全に同一の存在ではないということだった。


◆◇◆


 三日目の夜。


 私は意を決して、もう一度洗面所に向かった。


 鏡の中の世界は、日に日にはっきりとしてきていた。そして、私の現実にも変化が現れ始めていた。


 今朝、シャンプーボトルが四本に増えていることに気づいた。昨日まで三本だったはずなのに。ラベルも、私が買った覚えのない高級ブランドに変わっている。


 タオル掛けの位置も、心なしか中央寄りに移動しているような気がする。


 職場でも、同僚が私の髪型を「新しくしたね」と言った。しかし、私は髪を切っていない。その同僚は、昨日まで私を見ていなかったはずなのに、今日は親しげに話しかけてくる。


 現実が、少しずつ変化している。


 鏡の前に立つと、すぐに向こう側の私が現れた。今夜は、その違いがさらに明確だった。


 向こうの私は、明らかに私よりも良い服を着ている。シャツもズボンも、私の持っていないブランドのものだった。髪型も整い、顔色も良い。


 そして、洗面所の背景も、私のものよりもずっと豪華だった。


 しかし、その体の動きが歪んでいた。まるで、関節が正常でないかのように、微妙に不自然な角度で腕を動かす。首の動きも、人間のものとは思えないほど滑らかで、機械的だった。


 鏡に手を当てた。水面のような感触で、向こう側の手と触れ合う。


 今度は、向こう側の私が話しかけてきた。音は聞こえないが、口の動きで理解できた。


「交換しないか?」


 私は首を振った。


「何を交換するって?」


「生活だよ。君の世界と、僕の世界を。君の世界を奪えば、私は自由になれる」


 鏡の向こうの私は、歪んだ笑みを浮かべた。その表情は不自然で、口の端が異常に吊り上がっている。まるで、獲物を見つけた捕食者のような。


「君の世界は窮屈そうだ。僕の世界の方がずっと良い。見てごらん」


 向こうの私が振り返ると、洗面所の奥に豪華なリビングルームが見えた。大きなソファ、高級なテレビ、書棚には整然と並んだ本。壁には美術品らしき絵画も掛かっている。


 私の狭いアパートとは比較にならないほど快適そうな空間だった。


「僕と場所を交換すれば、君はこの生活を手に入れることができる」


 向こうの私の提案に、心が大きく揺れた。


 確かに、向こうの世界は魅力的に見えた。より良い服、より良い家、きっとより良い仕事もあるのだろう。同僚に無視されることもない生活。母からの電話を待つ必要もない生活。


「でも、それは本当に私の人生なのか?」


 私は口を動かして尋ねた。


「人生なんて、所詮は選択の結果だ。君が選ばなかった道を、僕が歩んでいる。それだけの違いさ」


 向こうの私の言葉に、妙な説得力があった。


「どうやって?」


「簡単だ。お互いに鏡を通り抜けるだけ」


 向こうの私が鏡に両手を当てた。鏡面がゆらゆらと波打ち、その手が少しずつ鏡面を貫通してくる。


 私も、恐る恐る手を伸ばした。


 向こうの私と手を握った瞬間、強い引力を感じた。


 そして、鏡の液体が私の体に流れ込んできた。


 冷たい感触が指先から腕を上り、肩を通って心臓に達する。鏡の液体が血管を通り、骨まで染みる感覚。


 心臓が締めつけられる。


 溺れる。


 死ぬ。


 いや、死んでも生きている。


 鏡面がまるで液体のように私たちを包み込み、境界が曖昧になっていく。


 次元が軋み、現実が歪む。


 そして気がつくと、私は鏡の向こう側にいた。


 豪華な洗面所で、高級なシャツを着て、鏡に映る私を見つめている。


 鏡の向こうには、私がいたはずの狭い洗面所と、そこに立つもう一人の私がいた。


 向こうの私は自信に満ちた笑みを浮かべ、満足そうに手を振った。


 私は自分の体を見下ろした。確かに、向こうの私が着ていた服を着ている。手触りの良い生地、上質な作り。手も、私の手より綺麗で、疲れていない。


 振り返ると、想像していた通りの豪華なリビングルームが広がっていた。


 しかし、なぜか心の底に、言いようのない不安が湧き上がってきた。


 これは本当に私の体なのだろうか?


 この記憶は、本当に私の記憶なのだろうか?


 鏡を振り返ると、向こう側の私は既に姿を消していた。私の元の洗面所には、誰もいない。


 しかし、洗面台の上に、私が確かに持っていなかった写真立てがあった。


 写真には、私によく似た人物が写っていた。しかし、その人物の服装は、私が今着ているものと同じだった。そして、その人物の表情は、私よりもずっと幸せそうだった。


 写真の裏に小さな文字で書かれていた。


「本物の私へ。いつか必ず戻ってくる。君の人生を生きさせてもらう」


 私の手が震えた。


 写真の人物の顔をよく見ると、確かに私に似ていた。しかし、目つきが微妙に違った。より鋭く、より確信に満ちていた。まるで、すべてを計画していたかのような。


 そして私は、恐ろしい可能性に思い至った。


 もしかすると、私は本物の彼の世界に入り込んでしまったのではないか?


 本物の彼は、どこか別の場所にいて、私が彼の生活を乗っ取ってしまったのではないか?


 それとも、私が見ていた「向こう側の私」が本物で、私こそが偽物だったのか?


 もう、何が現実で何が幻想なのか、わからなくなってしまった。


 私は誰なのか?


 この記憶は誰のものなのか?


 この体は、本当に私のものなのか?


◆◇◆


 翌朝。


 豪華なベッドで目を覚ました私は、鏡の前に立った。


 そこに映っているのは、私の顔だった。しかし、その表情はどこか自信に満ちていた。肌の艶も良く、疲れた様子がない。


 まるで、すべてが思い通りになったとでもいうような。


 ふと気づくと、洗面台の写真立てが消えていた。


 代わりに、小さなメモが置かれていた。


「戻れるのは一人だけだ。鏡は待っている」


 私は鏡を見つめた。


 しかし、もう向こう側には誰もいなかった。


 ただ、豪華な洗面所と、自信に満ちた表情の私だけが映っていた。


 そして私は気づいた。


 鏡面が、もう水のように波打つことはない。


 完全に固いガラスに戻っている。


 私は、この世界に取り残されてしまったのか?


 それとも、これこそが私の本当の世界だったのか?


 もう、わからない。


 わからないが、この豪華な生活に、少しずつ慣れていく自分がいる。


 元の狭いアパートのことも、だんだん曖昧になってきた。


 本当にあの生活は実在したのだろうか?


 もしかすると、すべては私の想像だったのかもしれない。


 鏡の中の私は、今日も自信に満ちた笑みを浮かべている。


 まるで、すべてが最初からこうだったとでもいうように。


 そして、時々思うのだ。


 いつか、この鏡の向こうに新しい誰かが現れるのではないかと。


 私と同じように、より良い人生を求める誰かが。


 その時、私は何をするのだろう。


 交換を提案するのだろうか。


 それとも、この幸せを守ろうとするのだろうか。


 鏡の中の私は、相変わらず微笑んでいる。


 その答えを知っているかのように。


 そして今朝も、鏡の奥で新たな影が揺れるのが見える。


 次の誰かが、現れようとしている。

『干渉水域』いかがでしたでしょうか?


鏡の向こうの世界との「交換」をテーマに、現実侵食の恐怖と

アイデンティティクライシスを描いたSF的ホラー作品です。


「私は誰なのか?」という根源的な問いかけと、

より良い人生への憧れが招く恐怖の結末。

そして最後に示唆される「循環する恐怖」の構造で、

読後に残る不安と余韻を表現しました。


『夏のホラー2025』企画の趣旨に沿った、

夏の夜の洗面所という身近な空間での恐怖体験として制作しました。


感想やご意見、いつでもお待ちしております。

評価・ブックマークもとても励みになります!


Xアカウント: https://x.com/yoimachi_akari

note: https://note.com/yoimachi_akari

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