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夕方の目覚まし時計

作者: P4rn0s

日が沈みかけていた。どこからか流れてくるオルゴールのような音が、町の端っこで、誰かの一日をそっと区切っている。スピーカーから鳴るそのメロディが、どうしても耳につく。けれど、それが何時の合図なのか、もう何日もまともに時間を気にしていなかった。


畳の目をぼんやりと数えながら、体を起こすのに何分もかかった。寝たのか起きていたのかも定かではなく、時計を見れば17時を少し過ぎている。ああ、まただ。今日もこうして、空の色が変わり始めてから動き出す。窓を開けると、湿った風と夕焼けが入り込んできた。遠くの団地に夕陽が反射してまぶしい。その光の向こう、歩道橋の影から制服の子どもたちが笑い声とともに現れる。


中学生だ。部活帰りの、汗まみれのジャージ姿。鞄を背負って、ふざけながら歩くその様子は、何かドラマのワンシーンのようにも見えた。けれど、それは決してフィクションではない。彼らは本当にこの町にいて、本当に今日を生きている。


ぼくにも、そんな時期があったのだと、頭の奥で思い出す。だけど、思い出そうとすればするほど、手のひらから水がこぼれるように、何もかもが曖昧だ。毎日が同じに見えたあの頃、目の前の景色がどんなに貴重だったのかなんて気づきもしなかった。朝起きて、制服を着て、眠い目をこすりながら教室に向かう。授業を聞いたふりをして、放課後に友達と歩いた通学路。そんな何でもない日々が、今ではどこを探しても見つからない。


だらしない毎日だとわかってはいる。昼過ぎまで眠って、空腹でようやく起きて、何かを始めようとしても気力が湧かない。買っただけのインスタントの食事をレンジで温め、誰とも話さずに食べる。そんな生活が、どれだけ心を鈍らせてしまったのか、すでに実感すらしなくなっている。まるで深い海の底で、誰にも見つからずに静かに沈んでいくみたいだった。


子どもたちの笑い声が窓の外から聞こえるたび、胸の奥がじくりと痛む。妬ましいわけではない。ただ、何か大切なものを置き去りにしてきたという事実だけが、心に鈍い重さを与えるのだ。


夕焼けはゆっくりと色を変えて、オレンジから紫へと移ろっていく。カーテンが風に揺れて、部屋の中に影を落とす。思えばこの部屋に越してきてから、季節がいくつ過ぎたのだろう。カレンダーの日付は剥がされずに6月のまま。もうとっくに7月も終わりかけているのに。何もかもが止まってしまっているのは、時計ではなく自分自身なのだと、今さらながらに思う。


ふと、携帯電話に目を向ける。通知も、着信も、何もない。それなのに、なぜか手に取ってしまう癖が抜けない。SNSを開いても、誰かの投稿が流れてくるだけで、自分がどこにもいないような感覚がする。スクロールすればするほど、自分が誰だったのか、わからなくなっていく。


昔は、もっと色んなことに期待していた気がする。夏休みが始まる前の、あの胸の高鳴り。新しいノートに名前を書くときの緊張。何気なく笑っていた友達の顔。そのどれもが、今はぼんやりとした影のように遠い。手を伸ばせば届くような気もするのに、実際にはどこにも存在していない幻のようだ。


テレビをつければ、バラエティ番組の音が部屋に溢れる。でも誰の笑い声も、もう心には響かない。うるさいだけで、すぐに消してしまった。静寂の中で、また外の空気だけが優しく流れている。


自分は本当にダメなやつだな、と思う。でも、だからといってすぐに何かが変わるわけではない。反省すればするほど、自分に対する無力感だけが募っていく。何かを始めるのは、こんなにも難しいことだっただろうか。


気がつけば、空はすっかり暗くなっていた。街灯がともり、さっきの中学生たちの姿ももう見えない。代わりに、遠くで誰かが自転車のベルを鳴らす音が響いた。日常は、変わらず続いているのだ。自分が立ち止まっていても、時間は待ってはくれない。


それでも、せめて今、この瞬間だけは、しっかりと胸に刻んでおきたいと思った。何もしていない一日でも、窓から見えた夕暮れと、通り過ぎていった子どもたちの声だけは、どこかに残しておきたい。忘れてしまわないように、ただ、そっと、心の隅に。


また、明日も同じような一日が来るかもしれない。でも、たまには今日のことを思い出して、少しだけでも、自分を責めずにいられる時間があるといい。何もできなくても、何も始められなくても、それでも、こうして感じたことを大事にできる自分でいたいと、どこかで思っていた。

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