近代世界史(ダイジェスト版)
豊臣秀吉と天海(明智光秀)が中心となって、交易経済、芸能を始めとする文化、技競べを起源とするスポーツによって、
「明るく楽しい世界征服」を成し遂げ、世界の盟主となった日本。
三百年弱の太平の世が経過し、ついに世界はゆらぎ始めたのであった。
身寄りを亡くした遠縁の少女、高須恭子が摂津職である多治比子爵家に引き取られたのは、十一歳のときだった。
多治比子爵家の次男広之は、そのとき十歳だったが、恭子をひと目見るなりその可愛らしさに一驚し、瞬時に恋をした。
高須恭子は、その年齢であっても高貴な雰囲気の気品を持った類い稀れな美少女だったのである。
年の近かった恭子と広之は直ぐに仲良くなった。
恭子は物静かではあったが、快活と言っていい気質でもあった。
広之にとって恭子は初恋の相手であった訳であるが、恭子は一歳年下であった広之に対してその種の感情は持たなかった。あくまでも仲の良い弟的な存在であった。
が、多治比家で暮らし始めてそれほどの時も経たない内に、恭子も恋をした。
その相手は恭子には三歳年上ということになる、広之の兄、多治比家の嫡子、長男の広雅であった。
広雅は頭脳明晰で、相当なレベルの美少年でもあった。
摂津職、多治比子爵家の嫡男広雅の優秀さ、その美少年ぶりは近在でも評判が高かった。
摂津は日本の首都、それだけにとどまらず世界の首都とも称されている大坂府の西に隣接している地域でもあったので、その評判は、日本と世界を統べる関白豊臣家の耳にも達し、広雅は摂津職、多治比子爵家の嫡男として参列を要する儀礼的な会合以外にも、現関白、豊臣秀斉の私的な拝謁の栄に浴したこともあったのであった。
そして、高須恭子もまた、十二歳、十三歳、十四歳と年齢を重ねるにしたがって、その美少女としての輝きを増していき、やはり近在では評判を呼ぶ存在となっていった。
が、多治比広雅はまだ年若い少年ではあったが、どちらかと言えば自分よりも年上の大人の女性により魅力を感じる心情の持主であったので、類い稀れな美少女ではあっても、恭子に恋愛感情を持つことはなかったのであった。
高須恭子が十四歳になった時、関白豊臣家から、その居館である明楽第の大奥に高須恭子を采女として仕えさせる旨の使いが、多治比子爵家を訪れた。
多治比子爵家当主、広雅、広之兄弟の父である広信にとっては、それは恭子の美少女としての評判が高まるにつれて、関白家よりいずれその旨の命があるのでは、と恐れていたことでもあった。
現関白豊臣秀斉は女性に対しては、豊臣家の始祖、秀吉と同様の性癖の持主であった。
ロリコンなのである。
まだ年端もいかない、おそらくはその経験もまだ無いであろう年代の少女を愛したのであった。
采女は、関白の日常生活のその身の回りの世話を務める役職である。
が、その制度が始まった飛鳥時代と同じく、主として地方豪族階級から募られ、美麗な容姿であることという厳格な規定があった。
采女として仕えるということが必ずしも関白のお手つきになるということでは無い。
明楽第には百の単位の采女がいるのであるから。
が、そうなってしまう可能性は極めて高かった。
次男の広之は、父に訴えた。
何か理由をつけて断ることはできないのか。あるいは恭子を子爵家から出して関白豊臣家の目の届かない場所に隠れ住ませることはできないのかと。
父、広信は子供に対して高圧的な態度を取る人物ではなく、優しい人柄の持主であった。
しかし、関白豊臣家の申し入れに対して、息子の心情を思いやって抵抗するというような気概を持った人物でもなかった。
「かつての中国の王朝では、後宮に何百人もの妃、寵姫がいた。後宮には入ったものの皇帝から声がかからず、生涯その相手を務めることがなかった女性も数多くいた。がそうであってもいったん後宮に入ったからには皇帝所有の女性として、皇帝崩御ののちも他家に嫁することは許されなかったと聞く。
が、関白豊臣家の大奥にはそれほどの厳しい縛りはない。関白の寵の無い、あるいは寵薄き女性については概ね20歳代の内に大奥を辞する、そののちは他家に嫁するも自由。
広之がそれほどまでに恭子のことを好いているというのであれば、その将来に希望を持って待てばよかろう。」
そして内心では
―恭子は、広之ではなく広雅が好きなように思えるがな
とも思ったが、それを口には出さなかった。
父の言葉は、広之に受け入れられることではなかった。
広之にとって恭子は、この世の誰も比較の対象にはならないような美少女であり、隔絶した美少女揃いと聞く関白の大奥の中に入ったとしても、その美は一等抜きん出た存在となるであろう。
関白の寵が無い、寵が薄いと言うことはあり得ない。
が、父の意向がそうである以上、十三歳の広之にはどうすることもできなかった。
恭子とともに手を携えて逃げようか、そんなことも考えたが、どうやって暮らしていくのか、広之にその算段は無かったし、また恭子は広之に対して、広之が持っているような気持ちを持っているわけではないということは、広之にも分かっていた。
結局、広之には何もできなかったのである。
関白家の大奥に仕えるように、との命は当の本人、恭子にとっては、もちろん大きな衝撃であった。
が、自らと社会について客観視する賢明さを持っている恭子は、広信同様、それは自らのあり得る将来として予測の範囲内の出来事でもあった。
恭子は物事についてできるだけ明るく、いい方に考えようという賢明さも併せ持っていた。
采女になるということは、自らが厳選された美少女であるという、その証を手に入れたということである。
関白の寵幸篤く、子を産むことがあれば、ある種の権力を手に入れることも可能。
また将来、大奥を辞することになっても、采女の経歴があれば、それなりの地位にある男性に嫁ぐことも可能である。
が、ただひとつ、自分の人生での初めての相手が、老という形容詞を付けてもおかしくはない、あの五十歳を越えた中年男となる、
それだけは受け入れられなかった。
大奥に入ることになる日の数日前の夜、恭子は、広雅の私室に行った。
そして己の気持ちを打ち明け、抱いてほしいと訴えた。
広雅は、恭子に対する広之の気持ちは知っていたし、まだ十七歳ではあっても大人の女性を好む広雅にとって十四歳の少女というのは、本来であれば範疇外のはずであった。
が、恭子のずば抜けた美貌を直視すると、この申し入れを拒絶するのは難しかった。
その夜、広雅は着衣を全て脱ぎ捨てた恭子を抱いた。
が、初めて関白に寵されたとき、処女の徴が無くなってしまうことを慮って、その最終行為だけは行わなかった。
恭子は大奥に入った。
数多の采女の中でも、恭子のその美は抜きん出ていた。
豊臣秀斉は恭子に魅せられ、毎夜のように恭子を寵した。
その寵幸は数ヶ月続き、恭子は懐妊し女の子を生んだ。恭子は十五歳で母となり、秀斉の正規の側室のひとりとなった。
それは、かつて広信が広之に語ったこと。
恭子がその後の人生においても大奥を辞したり、他家に嫁ぐことは、もう許されなくなった、ということを意味した。
母となって以降、恭子は秀斉に数度寵されたが、寵幸はそれで止み、恭子はもう寵されることは無くなった。
恭子は采女となってから以降、初めての宿下がりを許され、数日間を多治比家で過ごした。
その宿下がりの間、恭子は毎夜広雅に抱かれ、最終行為も含めてという意味では、初めて広雅と結ばれたのであった。
が、広雅には恭子に対して同様の思いがあったわけではない。それほど望んでくれるのであればと、恭子の思いに応えただけであった。
その翌年、広雅は関白豊臣秀斉の息女、貴子を妻に迎えた。
摂津職である多治比家は、本来であれば、関白の息女が嫁ぐような家格ではない。
が、秀斉には二十人を超える息女がいた。
多治比家嫡男が、関白の息女を妻として迎えることになったのは、広雅が頭脳明晰で優秀、なおかつ美少年との評判が高かったこと。
そして、貴子が決して美少女とは言えない地味な容姿であり、母の身分も低かったことに拠った。
しかし貴子は、読書好きで博覧強記の少女であった。
広雅は、学問の面で充分に語るに足る知識を持っていたこの二歳年下の妻を愛したのであった。
交易、そして芸能、技競べによって、豊臣秀吉と天海(明智光秀)が中心となって進めた「明るく楽しい世界征服」は実現した。
以降、日の本は世界の中心、盟主と言える国家となったのであった(作者注 その経緯についてご興味のある方は、投稿済の拙作「太閤秀吉」をご参照ください)。
世界の盟主となった日の本(日本)。
が、世界征服といっても、世界の全てをその領土としたわけではない。
経済と文化により、世界を圧倒する力を持ったのである。
その国民性は進取の気性を持ち続け、時を経て、蒸気機関の発明によって始まった産業革命の発生地ともなり、最先端の技術を持つ国ともなった。
西洋人には、アメリカ大陸と呼ばれる土地、
オセアニアと呼ばれるオーストラリア、ニュージーランドを含めた太平洋諸島、さらにはアフリカは、日本の植民地となった。
世界の盟主である日本の第一人者であっても豊臣は、関白の称号を変えることはしなかった。
ただ日本国内では関白であっても、海外にあってはその訳は皇帝であり、本来は殿下である関白の
敬称は陛下とされた。
なお、日の本の歴史において、古来より続く天皇家は京都御所にそのまま居住し、その伝統と格式は守られた。が、天皇という称号は廃され、その称号は大君となった。
関白は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次家の世襲となった。
次席である左大臣は、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長家の世襲となった。
尚、右大臣は、豊臣宗家に血筋が近く、その時代、時代で見識豊かな人物が務めるということが慣例となった。
関白豊臣家、左府(左大臣)豊臣家、右府(右大臣)豊臣がトップスリーであるが、それに続くのは、
内府(内大臣)徳川家
大納言前田家
中納言宇喜多家
中納言毛利家
中納言上杉家
であり、この五家は五大老と呼ばれた。
五大老は対外的には公爵であった。
それに続いては戦国の有力大名や、有力公卿を祖とする家々が、その家格によって、侯爵あるいは伯爵となった。
また日本において最高位を占める有力家は、海外の各地域の総督ともなったが、植民地以外の地域においては名目だけの総督号であり、現地に赴任するわけではない。植民地を除いては各地域の自治は保たれていたのである。
が、植民地においては、総督家が現地の有力者の協力を得て直接統治した。
各地域の総督、及び現状は以下の通りである。
・琉球
総督は島津家(参議、侯爵)。
琉球王国(国王、尚氏)による自治。
ただし琉球総督の権限大
・台湾
総督は島津家(参議、侯爵)。
・朝鮮
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
朝鮮王国(国王、李氏)による自治。
・満洲
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
満洲帝国(皇帝、愛新覚羅家)による自治。
ただし満洲総督の権限大
・中国
総督は豊臣家。
大華帝国(皇帝、黄蔡丕。宰相、遼周庶)による自治。
・香港
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
・モンゴル
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
・ウイグル
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
・チベット
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
ダライ・ラマによる自治。
・東南亜細亜
総督は小早川家(参議、侯爵)。
歴史的経緯による各領邦による自治。
それをまとめる者として東南亜細亜総督の権限大。
・南亜細亜(印度)
印度総督は宇喜多家(中納言、公爵)。
多くの藩王による分割自治。
それをまとめる者として印度総督の権限大。
・西南亜細亜
総督は毛利家(中納言、公爵)。
スルタン=カリフ制を敷くイスラム帝国による自治。
総督は名目上のみの存在。
・鄂霍次克(オホーツク:カムチャッカ半島、樺太を含むオホーツク海沿岸地域:カムチャッカ、チュクチ、マガダン、ハバロフスク、沿岸地方、樺太)
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
植民地。
樺太は総人口の内、日系人が約六割。
その他の地域は総人口の内、日系人は約0.5%
→ のちに、ロシア極東連邦管区、アラスカ、カナダユーコン準州・ノースウェスト準州・ヌナブト準州、グリーンランドを統合して、北方領となる。
・露西亜
総督は上杉家(中納言、公爵)。
人民の平等を唱える社会主義の活動が盛ん。
豊臣体制からの離脱、総督追放の動きあり。
・欧洲
総督は豊臣家。
日本に次いで経済力を持つ地域。
歴史的経緯による各国家の自治。
総督は名目だけの存在。
・阿弗利加
総督は前田家(大納言、公爵)。
植民地。
日系人は阿弗利加全体で1万人にも満たない。
欧洲諸国家の影響力が大きく、総督は名目だけの存在。
・布哇 (ハワイ)
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
植民地。
総人口の内、日系人は約四割。
・大洋洲(オーストラリア、ニュージーランド、布哇以外の太平洋諸島)
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命
植民地。
オーストラリア、ニュージーランドは、 総人口の内、日系人は約三割。
その他の地域は、総人口の内、日系人は約0.7%
・北米
総督は豊臣家。
植民地。
総人口の内、日系人は約三割。
・中米
総督は伊達家(参議、 侯爵)。
植民地。
総人口の内、日系人は約1%
・南米
総督は徳川家(内大臣、公爵)。
植民地。
総人口の内、日系人は約3%
・南極
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命
植民地
日本が盟主となる関白豊臣家体制。
その原動力となったのは、交易・経済及び芸能・文化そして技競べから発展したスポーツであった。
三百年近くの年月、時に地域的紛争は発生したが、世界はほぼ平和な時代を謳歌したのであった。
が、近年になり、大華帝国、イスラム帝国が明確な自治を獲得。
また露西亜の地には人民の平等を唱える新たな思想の発生があった。
関白豊臣家体制は大きくゆらぎ始めたのであった。
世界における関白豊臣家体制を崩壊させる。
そう志を立てたのは、大華帝国宰相、遼周庶であった。
遼周庶を見出し、帝国宰相としたのは皇帝、黄蔡丕である。
皇帝は、遼周庶の才能、そしてその人柄に惚れ込んだ。
「遼周庶なき黄蔡丕に意味はない。遼周庶あって黄蔡丕は初めてその存在の意味を見出した」
巷間に伝わる皇帝の言葉である。
三百年近く続き、概ね平和な世界を保った日本の関白豊臣家体制を崩壊させることが可能なのか。
そう問い質した皇帝に、宰相は答えた。
「日本が世界において主導的国家となってまもなく三百年の時が流れようとしています。その間世界は概ね平和で安全であり、絶対的な貧困は根絶され、言論の自由も保証されています。関白豊臣家体制により日本はそのような世界を作り上げました。そうであるがゆえに、世界は今の体制を受け入れてきました。
平和で安全な社会。誰もが飢えることがない社会。言論の自由が保証された社会。
世界がどのような政治体制で統治されることになろうとも、それらは人類が守らなければならない普遍的な価値である。これは人類共通の認識として、これから来たるべき時代においてももう変えることはできないでしょう」
「ではその体制を崩壊させることはもう無理であり、人類全体の益にはならない、ということではないのか」
「はい、しかし確立されたその普遍的な価値を、これまでと同様今後とも日本という国ただひとつが主導し続け、世界の他の国、地域がその支配に服し続けなければならないということにはなりませんでしょう。
さらに日本の支配層が保持するべき倫理的価値観として唱えてきた謙抑、受容のこころに基づく謙譲の美徳。無私の精神。清貧の思想。高潔な人格主義、高いレベルの教養主義については、今の日本の上級階層であっても崩れはじめていると言えましょう。
そうそれらは人間の誰もがもつ本能的欲望を排除した、人工的な無理を重ねた価値観です。
今、世界の各地に現在の体制崩壊の兆しが胎動しております。
日本の意向に従うことなく、ほぼ完全な自治権を獲得した我が大華帝国。
アラーという唯一絶対神をいただくイスラム帝国。
十七世紀の日本人の大量移民の時代から時を経て、今は総人口に占める日系人の割合が三割程度にまで低下し、その支配をよしとしない日系人以外の有色人種、白人系民族が三分の二以上を占めるようになった北米とオセアニア。
日本に準じる経済力を持つに至った欧洲諸国。
欧州諸国の影響力が大きい阿弗利加。
そして人々の平等、人民主権を唱える社会主義が大きな勢力となっている露西亜。
これら諸地域が大同団結して、対日大同盟を結成すれば、日本に勝利することができます。世界に新たな秩序が生まれます。日本という国ただひとつが支配するのでなく、この世界の各地域にいくつかの大きな勢力を持つ国家が生まれる多極化された世界。その新しい世界の中で我が大華帝国もひとつの極となる。そのような世界を作り上げるのです」
「うむ分かった。素晴らしいではないか、遼周庶。だがその対日大同盟をどうやって各地域に提議するのだ」
「我が国においても最優秀の外交官たちを各地域に派遣して説かせます。特に重要な地域、イスラム帝国、欧洲、露西亜には史家の三兄弟を派遣します」
「おお、史家の三兄弟か。彼らであれば」
皇帝、黄蔡丕は、宰相の提議を採可した。
現代の孔子。そう激賞される高潔かつ碩学の思想家、楊蒙材。
史家の三兄弟は、その楊門にあって、最優秀の高弟と評価されていた。
長男は史庸呉。
次男は史庸柱。
三男は史庸善。
三人は、三つ子なのでは、と疑われるに足るほど、その容貌は似ていた。
が、いかなる遺伝子のいたずらなのか。
その毛髪の量がまるで異なっていた。
長男の史庸呉は、ふさふさ。
次男の史庸柱は、薄禿げ。
三男の史庸善は、丸禿げ。
なのであった。
したがって、兄弟のその順番をまるで逆に思われることが多かったのであった。
イスラム帝国には長男の史庸呉が赴き、スルタン=カリフ、ムスタファ・メフメトに謁見した。
ムスタファ・メフメトはその前年、当地を訪れた大華帝国宰相、遼周庶と時間をかけた会談を実施済だった。
ともに壮年、四十歳代の二人は、その会談で意気投合し、お互いの人間的器量を認めあったのであった。
従ってムスタファ・メフメトと遼周庶の間では、対日大同盟結成については、既に合意済であった。
今回の史庸呉の訪問は、その実施方策の詳細を詰めるのがその主目的であった。
欧洲に派遣されたのは、史庸柱。
会ったのは欧洲地域にあって最有力であったドイツ帝国宰相、パウル・フォン・エーベルトであった。史庸柱は欧洲にとどまり、エーベルトの欧洲内のその他の有力国家に対日大同盟への参画を求める外交活動に参与した。
露西亜に派遣されたのは、史庸善。
社会主義が胎動している露西亜にあっても、その勢力は、徹底的な人民革命を唱える純理派と、社会改革を漸進的に進めていこうとする穏健派に二分されていた。
史庸善が面談を求めたのは、穏健派の領袖、まだ三十歳を過ぎたばかりの女性活動家、スベトラーナ・ザギトワだった。
大華帝国の潤沢な資金が、穏健派に流れ、露西亜社会主義の主流となっていった。
対日大同盟は結成され、同盟側が企図した地域的紛争を契機として対日戦は開始され、短期間で対日大同盟側の勝利となった。
対日大同盟連合軍が日本に駐留し、日本は三百年弱継続した世界の盟主の座から転落し、一地方的小国家となった。
関白豊臣家、左府豊臣家、五大老家を始めとする日本を支配する上層階級の人々は処刑されることはなかったが、その特権と財産を剥奪された。
日本の国から、貴族はその存在をなくした。
豊臣の姓をそのままに名乗ることは許されず、秀吉の甥、豊臣秀次を始祖とする関白豊臣家の係累は「三好」。
秀吉の弟、豊臣秀長を始祖とする左府豊臣家の係累は「木下」を名乗ることとなった。
秀吉の正妻、寧々の実家であった浅野家の子孫も、関白豊臣家体制下において一定の勢力を持ち、時代の経過の中で「豊臣」姓の名乗りを許させる者も現れたが、その係累は元の「浅野」姓に戻った。
また、豊臣家男子の代名詞ともいうべき名における
「秀」の文字は、「栄」あるいは「英」への変更を求められた。
対日大同盟進駐軍の指示により、
関白豊臣総本宗家は満洲帝国の首都、新京市に。
左府豊臣総本宗家は台湾共和国の首都、台北市に。
その居住地を定められたのであった。
一地方小国家となった日本の、せめてもの伝統保持のため、大君がその統合の象徴的存在として復活した。
かつての天皇の称号の復活も図られたが、帝国をイメージするその称号の復活は、日本に駐留する対日大同盟連合軍の承認は得られなかった。
そのとき十九歳になっていた高須恭子は、関白豊臣秀斉(三好栄斉に改名して、満洲帝国新京市にて余生を過ごした)の元から放逐された。
その恭子を妻として迎えたのは、一介の平民となった多治比広之だった。
恭子には豊臣秀斉との間にできた娘、四歳になる博子がいたが、博子は多治比広之の養女となった。
中学を四修で終えた広之は、そのとき京都の第三高等学校の三年生となっていた。
四歳年上の兄、広雅も中学は四修で終え、その時点で既に京都帝国大学を卒業していたが、子爵であり摂津職であった多治比家は、公務員となって政府機関で職を得ることは適わなかった。
また広雅は大学は法学部であったが、その心の中では将来は歴史学者となることを秘かに夢みていた。
が、かつての日本で貴族であった人物が歴史を学び、語ることは望ましからずと、その希望も認められなかった。
広雅はやむなく民間企業、総合商社の泉屋商事に職を得た。
また後日、国家の興亡、政治的指導者、偉人を主として扱う古典的歴史。古典的哲学・思想以外の学問であれば、その習得は許可されたので、広雅は大阪文科高等専門学校社会史学科の通信制の学生ともなり、庶民史、日常生活に立脚した風俗史、地方史を学んだのであった。
妻の貴子は広雅の傍らに変わることなく寄り添っていたが、ふたりの間にまだ子供はいなかった。
貴子は大阪社会高等専門学校民俗学科の全日制に入学した。
そして家庭教師のアルバイトにも励んだのであった。
第三高等学校三年生で母校を失った多治比広之は、京阪神地区一円に鉄道網を持つ関西鉄道会社に職を得た。
と同時に京都高等商業学校の通信制に入学した。
(作者注: 当該小説の本編を書くとしたら、作者が主要なキャラクターとして考えていたのは、
・多治比広雅と貴子夫妻
・多治比広之と恭子夫妻
そして新たに
・満洲帝国新京市に居住することになった三好栄斉(豊臣秀斉)の側室の息子で新京市内の中学に通学することとなった14歳の三好栄親(豊臣秀親から改名))
・やはり新京市に居住し、同じ中学に通学することになった三好栄親とも血縁のある同年齢の友人、浅野英満(豊臣秀満から改名)
・台湾共和国台北市に居住することになった左府豊臣家当主で左大臣であった木下英興(豊臣秀興から改名)の正室の次男、台北市内の高等学校に通学することになった18歳の木下英政(豊臣秀政から改名)
といったところでした。
が、様々な別の世界、架空の歴史の設定を考えるのは好きなのですが、その世界の中で、物語的にキャラクターを動かすというのは苦手で、そのことに費やす精力にも欠けておりますので、当該小説の本編を書くことはないかと思います 。)
(以下 2025年9月30日 記 以降随時追記)
・関白豊臣家体制下での日本の教育制度
尋常小学校6年間(4月1日時点(以下同)で6〜11歳)が義務教育。
但し尋常小学校卒業後、中学に進学しない場合は高等小学校2年間(12〜13歳)も義務教育となる。
中学は5年間(12〜16歳)。
中学に進学するものは同学年人口の15%程度である。
中学卒業後の進学先は、高等学校(17〜19歳)か、私立大学(18〜21歳、予科(17歳))か、高等専門学校(概ね17〜21歳)
高等学校は、以下のナンバースクールと呼ばれる八校及びネームスクールと呼ばれる所在地を名称とする十八校のみである。
なお、中学での成績優秀者は、4年終了時点での
高等学校受験も可能である(四修)。
第一高等学校(東京)
第二高等学校(仙台)
第三高等学校(京都)
第四高等学校(金沢)
第五高等学校(熊本)
第六高等学校(岡山)
第七高等学校(鹿児島)
第八高等学校(名古屋)
山口高等学校
新潟高等学校
松本高等学校
松山高等学校
水戸高等学校
山形高等学校
佐賀高等学校
弘前高等学校
松江高等学校
大坂高等学校
浦和高等学校
福岡高等学校
静岡高等学校
高知高等学校
姫路高等学校
広島高等学校
旅順高等学校
富山高等学校
高等学校出身者はよほど成績が劣悪でなければ、卒業後は帝国大学に進学する。
帝国大学は3年間(20〜22歳)
高等学校出身者以外も学齢に達して以降は帝国大学受験は可能であるが、その合格率はかなり低い。
帝国大学は、以下の八校
北海道帝国大学
東北帝国大学
東京帝国大学
名古屋帝国大学
京都帝国大学
大坂帝国大学
九州帝国大学
台北帝国大学
一般的には上記の中でも京都帝国大学が最優秀。
それに準じるのが、大坂帝国大学と東京帝国大学と言われる。
帝国大学は、以下の学部を持つ
法学部
経済学部
教育学部
社会学部
理学部
工学部
医学部
農学部
なお、人文系、芸術系の学部は帝国大学には存在しない。
上記を志す学生は、その種の学部を持つ私立大学か、人文系高等専門学校、芸術系高等専門学校に進学する。
これについては、日本が世界における主導的国家となっていく過程において、国家が国費をもって養成するべきは、実学を基盤として国家と世界に実際的実務的貢献。具体的な経済的効果、効用。具体的な生活の質の改善を将来もたらすであろうことが期待される優秀な人材である、という理念があったからである。
精神的なものに関わる教養をもたらす人文系学門。各人各様の美的感覚による創作活動、創造行為、各種パフォーマンスがその基調となる芸術系各ジャンル。
それらに秀でた才能を持つ人材に対しての補助は、貴族階級、富裕層、企業等の組織が、その趣味と必要に応じて行われたのであった。
高等学校に進学する者の割合は、同学年人口の1%に満たない。男女共学であるが入学者の男女比は概ね8対2である。
高等学校は日本人以外の他国籍人も入学を受け入れていたが、その比率は関白豊臣家体制の最晩期においても全学生の3%以内と定められていた。
高等学校において自宅通学者はわずかであり、大半は寮生活を送った。
高等学校においては入学試験が厳格に適用されており、貴族階級にも特権はない。この入学試験に合格しない限り、豊臣家をはじめとしてどんな高位の貴族階級の子弟といえども入学できない。
貴族階級の子弟の大半は、中学卒業後は貴族階級しか入学できない私立大学に進学した。
また陸軍士官学校、海軍兵学校に入学するものの割合もかなり高かった。
高等学校で、そして貴族階級しか入学できない私立大学で、先ず最優先で教えられたのは、
「ノブレス・オブリージュ、高貴なるものの義務」
「一般民衆と社会全体への奉仕」
の理念であった。
高等学校では、加えて
「清貧であれ」
ということも求められることになる。
高等学校、そして帝国大学の卒業生は、そのほとんどが社会に出てからは、各人が進路として選んだ各分野においてトップクラスのエリートとなった。
各年代で各々の職務において、多大な権限を持つことになる訳であるが、その報酬は国民全般の平均を上回ってはいたが、大きく超えてはいなかった。
40歳代、50歳代となり、各分野で、リーダー、トップとしての権限を持っても、経済的階級においては中の上の暮らしができる程度の収入しかなかった。
高等学校、帝国大学卒業生が、もし華美で贅沢な暮らしをしたならば、同じ経歴を持つその他卒業生たちから軽蔑
されてしまう。
そのような精神的風土があったのである。
高等学校、帝国大学卒業生にとって、ともに学んだ同窓生からの軽蔑こそ、彼らにとっては、最も大きな恥だったのである。
高等学校、帝国大学卒業生には、むろんその出自が富裕層である、あるいは貴族であっても入学試験に合格してその進路を選択するものもいたが、そのような出自で、裕福な家庭の出身者であっても、当の本人とその家族は、高等学校、帝国大学卒業生に相応しい暮らしをしたのであった。
高等学校、帝国大学出身者は、名誉と権力を得るが、財産は得られない。
それは国民全般の間でも周知のことであったので、彼らエリートたちは、一般大衆からは無条件の尊敬を受けていたのである。
そして、それは世界の人びとの間でも周知のことであった。
高等学校生は、前述したように、将来国家と世界において指導的立場となるエリートであるが、歴史、思想・哲学、宗教、文学・芸術の高度な教養は不可欠なものとされた。
高等学校寮内においては、それらのジャンルに関して日常的に寮生の間で活発な議論がなされ、それが談論風発の高等学校的風土を形成していた。
高等学校生は、エリートとしての理念とともに、それらジャンルの高度な教養をも基調として、進学した帝国大学において各人が志望した実際的学問を学んだのである。
高等小学校卒業後、進学を希望するものは、その時点で中学を受験することも可能であるが、ほぼ商業中学、工業中学、農林中学、水産中学等の実業中学(14〜18歳)に進学する。あるいは高等小学校卒業生を入学対象者とした私立中学(14〜18歳)に進学する。
実業中学、私立中学卒業後、さらに進学を希望する場合は、私立大学本科あるいは高等専門学校に進学する。
尋常小学校、高等小学校の初等教育の教員を目指す者は、高等小学校卒業後、師範学校(14〜18歳)に進学する。
中学、実業中学、私立中学の中等教育の教員を目指す者は、さらに高等師範学校(19〜21歳)に進学する。
幹部軍人養成機関として、陸軍士官学校(17〜19歳)、海軍兵学校(17〜19歳)がある。
中学卒業生が受験可能である。
さらに参謀養成を主眼とする陸軍大学校(20〜22歳)、海軍大学校(20〜22歳)がある。
注: 義務教育以外の表記年齢は現役合格の場合
文化と経済、そして各時代において、最先端技術、科学の発信地となることによって世界に君臨した関白豊臣家体制が何故、対日大同盟に抗しえず崩壊したのか。
それはその体制の最終完成形となるはずだった、体制のエリートたちの、名誉、権力と財産を分離する高潔な人格主義。そして高いレベルの教養主義。それらの精神主義が、日本以外の世界各地域では、結局主流的価値観となり得なかったこと。
そして日本国内であっても、その価値観が次第に綻んでいったから、というのが大きな理由であったろう。
(以下 2025年11月5日 記 以降随時追記)
関白豊臣家体制が崩壊した際、高等学校及び帝国大学は、誤ったエリート意識をもたらしたとの名目の下に廃絶された。
帝国大学は所在地である、札幌、仙台、東京、名古屋、京都、大阪(大坂から改称)、福岡の名を冠して、
法学部 → 法科高等専門学校
経済学部 → 高等商業学校
教育学部 → 教育高等専門学校
社会学部 → 社会高等専門学校
理学部 → 理科高等専門学校
工学部 → 工業高等専門学校
医学部 → 医科高等専門学校
農学部 → 農業高等専門学校
となった。
但し、東京帝国大学経済学部のみは上記の改称と異なり、東京経済高等専門学校となった。東京高等商業学校が既に存在していたからである。
尚、台北帝国大学は、帝国の名を外して台北大学となった。
高等学校。ナンバースクール八校及びネームスクール十八校の敷地、建物は、既存のその他教育施設として利用されるか、市民公園や、美術館、博物館、図書館などの文化施設に転用された。
そして尋常小学校(6〜11歳)から高等小学校(12、13歳)を経由することなく、直接進学する中学(12〜16歳)も廃絶となったのであった。
高等学校、帝国大学、中学(12〜16歳)廃絶後の各種学校進学率
(特別支援学校(福祉政策に基づく懇篤な支援あり)を除く。)
( )内の年齢は現役合格の場合
尋常小学校(6〜11歳) 100%
↓
高等小学校(12、13歳) 100%
↓
普通中等学校(14〜18歳) 18%
↓ ↓
大学(19〜22歳) 2% 高等専門学校(19〜22歳) 1%
中等学校
↓ ↓
陸軍士官学校(19〜21歳) 0% 海軍兵学校(19〜21歳)0%
一学年定員 800人 一学年定員 200人
↓ ↓
陸軍大学校(22、23歳) 0% 海軍大学校(22、23歳) 0%
一学年定員 60人 一学年定員 25人
高等小学校(12、13歳)
↓
実業、専門系中学(14〜18歳) 42%
↓ ↓
大学(19〜22歳)2% 高等専門学校(19〜22歳)4%
高等小学校(12、13歳)
↓
師範学校(14〜18歳)1%
↓
高等師範学校(19〜22歳)0.2%
最終学歴
高等小学校(12、13歳)卒 39%
実業中学(14〜18.歳)卒 36%
普通中等学校(14〜18歳)卒 15%
師範学校(14〜18歳)卒 1%
高等師範学校(19〜22歳)卒 0.2%
高等専門学校(19〜22歳)卒 5%
大学(19〜22歳)卒 4%
関白豊臣家体制下においては、中等学校(12〜16歳)進学者はほとんどが卒業後は大学等に進学したので、最終学歴が中等学校(12〜16歳)卒という者は稀であった。
が、高等学校、帝国大学さらに中等学校(12〜16歳)廃絶後は、普通中学と俗称されるようになった実業中学以外の中等学校(14〜18歳)は、卒業後の進学を前提としない入学者がむしろ多数となった。
中等学校卒業後、旧帝国大学系等難易度の高い高等専門学校、難易度の高い大学への進学を志すものは普通中学よりも、将来の志望学科に関連した実業中学あるいは専門系中学に進学する者のほうがむしろ多数となった。
関白豊臣家体制においては、エリートはその知識、教養において高度なゼネラリストであることが大前提とされた。が、関白豊臣家体制崩壊後の日本においては、その前提を求められる国家としての基幹、精神的風土もまた崩壊したのであった。
主な高等専門学校、大学
関白豊臣家体制下において独立した行政区域であった大坂府、京都府、東京府は、体制崩壊後、各々摂津国、山城国、武蔵国に併合され、市名は各々大阪市、山背市、江戸市となった。
以下に列挙する学校名。東京、京都が冠されている学校については、その正式名称は、東京→江戸、京都→山背となったわけであるが、通称としてはそのまま東京、京都が使われることのほうが多かった。
▽ 旧帝国大学系高等専門学校
札幌法科高等専門学校
札幌高等商業学校
札幌教育高等専門学校
札幌社会高等専門学校
札幌理科高等専門学校
札幌工業高等専門学校
札幌医科高等専門学校
札幌農業高等専門学校
仙台法科高等専門学校
仙台高等商業学校
仙台教育高等専門学校
仙台社会高等専門学校
仙台理科高等専門学校
仙台工業高等専門学校
仙台医科高等専門学校
仙台農業高等専門学校
東京法科高等専門学校
東京経済高等専門学校
東京教育高等専門学校
東京社会高等専門学校
東京理科高等専門学校
東京工業高等専門学校
東京医科高等専門学校
東京農業高等専門学校
名古屋法科高等専門学校
名古屋高等商業学校
名古屋教育高等専門学校
名古屋社会高等専門学校
名古屋理科高等専門学校
名古屋工業高等専門学校
名古屋医科高等専門学校
名古屋農業高等専門学校
京都法科高等専門学校
京都高等商業学校
京都教育高等専門学校
京都社会高等専門学校
京都理科高等専門学校
京都工業高等専門学校
京都医科高等専門学校
京都農業高等専門学校
大阪法科高等専門学校
大阪高等商業学校
大阪教育高等専門学校
大阪社会高等専門学校
大阪理科高等専門学校
大阪工業高等専門学校
大阪医科高等専門学校
大阪農業高等専門学校
福岡法科高等専門学校
福岡高等商業学校
福岡教育高等専門学校
福岡社会高等専門学校
福岡理科高等専門学校
福岡工業高等専門学校
福岡医科高等専門学校
福岡農業高等専門学校
▽高等専門学校
東京高等商業学校
神戸高等商業学校
東京物理学校
東京美術学校
東京音楽学校
京都美術学校
京都音楽学校
札幌文科高等専門学校
仙台文科高等専門学校
東京文科高等専門学校
名古屋文科高等専門学校
京都文科高等専門学校
大阪文科高等専門学校
福岡文科高等専門学校
▽ 国立大学
小樽商科大学
弘前大学
秋田大学
千葉大学
埼玉大学
お茶の水女子大学
東京工業大学
横浜国立大学
金沢大学
信州大学
静岡大学
和歌山大学
奈良女子大学
岡山大学
広島大学
徳島大学
熊本大学
鹿児島大学
琉球大学
▽ 公立大学
東京府立大学
京都府立大学
大阪府立大学
大阪市立大学
神戸商科大学
▽ 私立大学
青山学院大学
学習院大学
慶應義塾大学
國學院大学
駒澤大学
上智大学
専修大学
中央大学
津田塾大学
東海大学
東京農業大学
東洋大学
日本大学
日本体育大学
明治大学
法政大学
立教大学
京都産業大学
同志社大学
立命館大学
龍谷大学
大阪経済大学
関西大学
関西学院大学
近畿大学
甲南大学
西南学院大学
福岡大学
ある年の全国中等学校野球選手権大会出場校
( )内は地域予選の区域
・北海中学*(北海道、千島)
・弘前実業(陸奥、陸中)
・秋田中学(羽後、羽前)
・東北中学*(陸前、磐城、岩代)
・桐生中学(上野、下野)
・銚子商業(常陸、下総、上総、安房)
・慶應義塾普通部*(武蔵国旧東京府域)
・法政二中*(相模)
・甲府商業(武蔵、甲斐)
・静岡商業(伊豆、駿河、遠江)
・高岡商業(越後、越中、佐渡)
・敦賀中学(加賀、能登、越前、若狭)
・松本商業*(信濃)
・中京商業*(三河、尾張)
・岐阜商業(美濃、飛騨、伊勢、伊賀、志摩)
・平安中学*(山城、丹後、近江)
・和歌山中学(紀伊、大和)
・浪華商業*(摂津国旧大坂府域、河内、和泉)
・甲陽学院中学*(摂津)
・明石中学(播磨、丹波、但馬、淡路)
・岡山東商業(備前、備中、美作、因幡、伯耆)
・広島商業(備後、安芸)
・下関商業(周防、長門、出雲、石見、隠岐)
・松山商業(讃岐、伊予)
・徳島商業(阿波、土佐)
・小倉中学(筑前、筑後)
・佐賀商業(肥前、対馬、壱岐)
・熊本工業(肥後、豊前、豊後)
・鹿児島実業*(薩摩、大隅、日向)
・沖縄水産中学(琉球)
出場30校
内訳
私立中学 10 *印が該当
公立中学 20
(以下公立中学内訳)
普通中学 6
商業中学 11
工業中学 1
実業中学 1
水産中学 1
優勝候補
中京商業
平安中学
広島商業
松山商業
第2グループ
慶應義塾普通部
法政二中
岐阜商業
浪華商業
甲陽学院中学
小倉中学
第3グループ
静岡商業
明石中学
和歌山中学
徳島商業
熊本工業
一回戦
1日目
桐生中学 2 - 3 下関商業
東北中学 2 - 5熊本工業
高岡商業 2 - 0 静岡商業
2日目
北海中学 3 - 6 甲陽学院中学
浪華商業 2 - 1 徳島商業
銚子商業 0 - 5 広島商業
弘前実業 1 - 8 佐賀商業
3日目
和歌山中学 7 - 2 沖縄水産中学
慶應義塾普通部 2 - 1 敦賀中学
秋田中学 1 - 3 平安中学
4日目
法政二中 6 - 5 鹿児島実業
松本商業 2 - 4 岐阜商業
甲府商業 0 - 1 岡山東商業
5日目
松山商業 4 - 3 小倉中学
二回戦
中京商業 0 - 1 明石中学
浪華商業 5 - 2 慶應義塾普通部
6日目
下関商業 2 - 0 高岡商業
甲陽学院中学 0 - 4平安中学
広島商業 4- 1法政二中
7日目
熊本工業 2 - 3 松山商業
佐賀商業 0 - 2 岡山東商業
和歌山中学 1 - 2岐阜商業
8日目 準々決勝
下関商業 0- 2 平安中学
明石中学 4 - 0 岡山東商業
浪華商業 3 - 5 松山商業
広島商業 1 - 2 岐阜商業
.9日目 準決勝
明石中学 1 - 2広島商業
平安中学 2- 4 松山商業
10日目 決勝
広島商業 4 - 3 松山商業
(以下 2026年1月9日 記 以降随時追記)
関白豊臣家体制崩壊後の日本
関白豊臣家体制崩壊後、日本においては、かつて世界を主導する国家であったその栄光の時代の否定的思潮が主流となった。
栄光に満ちた大日本帝国の歴史、その歴史を担った最上級階層の人たちのノブレス・オブリージュの概念も、誤ったエリート意識として否定的にとらえられるようになった。
が、平和で安全な社会。絶対的な貧困が根絶された社会。言論が自由な社会という概念は、世界の中で共通する普遍的な価値として守り続けられた。
必然的に日本は、日常生活を大切にした、ささやかな幸せを守っていく小市民的心情が重視される国柄となった。
関白豊臣家体制末期には、日本はすでに最先端科学技術を独占する国家ではなく、多くのジャンルで他の諸国家との逆転現象も起こっていた。
日本は第一次産業のウエイトが高くなり、国内でほぼ自足する一国完結的な経済・産業を基盤とする周辺的小国家となった。
日本は新たな世界における主要諸国の経済・産業の競争の場から自ら去っていったのであった。
時がさらに経過していくにつれて、日本国内における最優秀な学徒。頭脳だけではなく、将来は日本国内にとどまらず、世界を相手に広く活躍したいという気概をもつ学徒たちは、満洲帝国、台湾共和国、朝鮮王国、大華帝国、香港共和国、ベトナム共和国、フィリピン共和国、シンガポール共和国、オホーツク連邦(→北方連邦)、ハワイ共和国などに所在する大学に留学する者が多くなっていったのであった。
日本では廃絶された高等学校制度が、満州帝国、台湾共和国、朝鮮王国、大華帝国、香港共和国、ベトナム共和国、フィリピン共和国、シンガポール共和国、オホーツク連邦(→北方連邦)、ハワイ共和国において継承され、関白豊臣家体制下的エリート教育が存続した。
そして高等学校卒業後の進路として、
満洲帝国の
大連帝国大学
奉天帝国大学
吉林帝国大学
新京帝国大学
哈爾浜帝国大学
台湾共和国の
台北大学
朝鮮王国の
京城王立大学
平壌王立大学
大華帝国の
北京帝国大学
上海帝国大学
広州帝国大学
南京帝国大学
武漢帝国大学
重慶帝国大学
成都帝国大学
香港共和国の
香港大学
ベトナム共和国の
ハノイ国立大学
サイゴン国立大学
フィリピン共和国の
フィリピン大学
シンガポール共和国の
シンガポール国立大学
オホーツク連邦(→北方連邦)の
樺太国立総合大学(所在地:豊原)
太平洋国立大学(所在地:ハバロフスク)
極東連邦大学(所在地:ウラジオストク)
ハワイ共和国の
ハワイ大学
が、かつての日本において八帝大と称された八つの帝国大学的ポジションを占めるようになったのであった。
(職業野球、大相撲)
関白豊臣家体制崩壊時点では、野球、相撲ともに日本がまだ最強豪国、最強豪力士排出国家の地位を保っていたが、時の経過とともに、その地位を失っていったのであった。
職業野球について
野球においては、アジアの中で満洲帝国、朝鮮王国が二大強国。それに準じるのが台湾共和国。
日本はその強さにおいては、大華帝国、オーストラリア連邦とともに第2グループとなった。
日本には12の職業野球チームが存在するが、
それ以外に
満洲帝国 11
北方連邦1
(以上 満洲・北方連邦職業野球連盟)
朝鮮王国 12
台湾共和国 8
大華帝国 6
オーストラリア連邦 6
ハワイ共和国 4
の職業野球チームが存在した。
各国の職業野球連盟にて、毎年各チーム100を超える試合数でのレギュラーシーズンの優勝争いが行われた。
そしてレギュラーシーズン前には、7連盟を形成する8ヶ国(満洲帝国と北方連邦は各々独立して参加)による国別での東アジア・太平洋カップ戦が実施された。
そしてシーズン後には、7連盟の各優勝チームによる東アジア・太平洋チャンピオンシリーズ戦が実施された。
日本の職業野球のトップクラスの選手、将来有望な若手選手が大挙して、満洲リーグ、朝鮮リーグ、台湾リーグ等に転籍した翌年、
日本職業野球のマイナーリーグ化元年とも言われたシーズンは、
ナショナルリーグは、甲子園球場を本拠地とする摂津ペガサスが、64勝41敗6引分で、
ジャパンリーグは、西宮球場を本拠地とする関西ナイツが、68勝39敗4引分で、
優勝した。
(同一リーグの他の5球団とは15回戦、他リーグの6球団とは6回戦のシーズン111試合制)
そのシーズンの両チームの主場選手、標準的なラインナップは、以下のとおりである。
(年齢は当該シーズン開始時)
摂津ペガサス
一番 ショート 椎葉 真幸 26歳 背番号4 右右
.267 5本(本塁打、以下同)
二番 セカンド 雨宮 鮎太 25歳 背番号6 右右
.274 1本
三番 レフト 平沼 速雄 26歳 背番号8 左左
.292 2本
四番 ライト 結城 正 28歳 背番号9 右左
.286 7本
五番 サード 芦名 清 28歳 背番号25 右右
.258 12本
六番 キャッチャー 朝倉 虎三郎 27歳 背番号2 右右
.253 4本
七番 ファースト 朝比奈 輝一 36歳 背番号10 右右
.225 2本
ハ番 センター 朝比奈 昇二 34歳 背番号12 右右
.196 1本
九番 ピッチャー 朝香 松彦 35歳 背番号22 右右
0勝6敗
当該シーズン後引退
ピッチャー 兼 バッター
秋月 槇 35歳 背番号26 右左
0勝2敗
.218 0本
当該シーズン後引退
神 光雄 35歳 背番号24 右右
0勝1敗
.185 0本
当該シーズン後引退
ピッチャー
飛鳥 祐造 36歳 背番号28 右右
6勝4敗
朝比奈 陽三 32歳 背番号18 右右
6勝3敗
斯波 義雄 31歳 背番号21 右右
1勝3敗
諏訪 頼親 31歳 背番号23 右右
4勝2敗
日高 順 31歳 背番号20 右右
18勝8敗
立原 実嗣 30歳 背番号16 右右
13勝7敗
秋里 了 28歳 背番号14 左左
16勝5敗
その他 出場選手
白鳥 忠 31歳 背番号29 右右
.125 0本
当該シーズン後引退
保科 信国 30歳 背番号27 右右
.222 0本
関西ナイツ
一番 センター 日夏 伸通 26歳 背番号7 右両
.259 13本
二番 ショート 賀集 正次 26歳 背番号2 右右
.280 5本
三番 サード 白鳥 明 35歳 背番号6 右右
.244 6本
四番 ファースト 秋葉 敏治 32歳 背番号4 左左
.295 14本
五番 キャッチャー 高梨 浩介 27歳背番号5 右右
.253 10本
六番 レフト 美馬 靖夫 24歳 背番号9 右左
.290 3本
七番 ライト 岩倉 正彦 31歳 背番号3 右左
.250 4本
ハ番 セカンド 遊佐 充 31歳 背番号1 右右
.212 1本
九番ピッチャー 真柴 輝幸 34歳 背番号18 右右
13勝8敗
ピッチャー 兼 バッター
沢渡 敬介 35歳 背番号24 右左
0勝3敗
.234 0本
当該シーズン後引退
ピッチャー
真木 久司 23歳 背番号19 左左
12勝7敗
椎名 智清 30歳 背番号21 右右
15勝7敗
御厨 昌一郎 25歳 背番号16 右右
18勝6敗
南雲 泰輔 27歳 背番号15 右右
10勝8敗
その他 出場選手
朝比奈 稔 37歳 背番号8 右右
.226 0本
当該シーズン後引退
大相撲について
相撲は日本から、満洲帝国、朝鮮王国、台湾共和国、モンゴル国にも大きく普及していった。
そして上記4ヶ国によるアジア相撲協会が結成された。
満洲帝国の首都である新京に、収容人員が1万4千人を超える常設の相撲競技会館が建設された。
1月 新京
3月 台北
5月 新京
7月 大連
9月 新京
11月 京城
を開催場所とする年6場所制(1場所15日制)の興行が実施された。
アジア相撲協会創設後5年を経過した時点で国籍別の力士数は
満洲帝国 411
朝鮮王国 86
モンゴル国 55
台湾共和国 50
大華帝国 19
北方連邦 12
ハワイ共和国 9
日本 31
その他の国 12
計 685
であった。
尚、大相撲における様式、所作、衣装、風俗等は、日本古来からの伝統が守られた。
力士の四股名、年寄名もほぼ漢字が使用された。
が、国家としての経済規模を起因とした収入格差により、アジア相撲協会がメジャー、日本相撲協会がマイナー的なポジションとなった。
日本相撲協会の中での強豪力士は、ほぼアジア相撲協会に転籍した。
また日本の学生相撲において顕著な成績を残し、将来有望とみなされる力士も、初めからアジア相撲協会に入門することが通常になったのであった。
日本相撲協会 年2場所開催(1場所11日制)
1月 大阪国技館
5月 大阪国技館
*大関以上の力士、優勝経験者、次代を担うとみなされた若手有望力士が大挙してアジア相撲協会に転籍した直後の番付(十両以上 力士総数392人)。
*三役は、関脇・小結在位場所数等の幕内力士としてのそれまでの実績に、直前場所の成績を加味して番付編成。
東大関 天藍 35歳 鳴尾部屋 北海道 184cm 112kg
西大関 神剣 31歳 学文部屋 摂津 177cm 104kg
東関脇 芙蓉峰 32歳 沢渡部屋 甲斐 180cm 117kg
西関脇 秋月 31歳 鳴尾部屋 筑前 175cm 92kg
東小結 初雁 29歳 鳴尾部屋 武蔵 178cm 111kg
西小結 夕霧 28歳 沢渡部屋 北海道 176cm 114kg
東前頭1 通し矢 27歳 飛騨部屋 山城 178cm 95kg
西前頭1 早蕨 31歳 志摩部屋 大和 170cm 95kg
東前頭2 神王 改名→神嶽 28歳 学文部屋 摂津 177cm 84kg
西前頭2 青翔 改名→青輝光 29歳 白鳥部屋 北海道187cm 105kg
東前頭3 村雨 27歳 吉井川部屋 摂津 173cm 106kg
西前頭3 早桜舞 29歳 朝桜部屋 武蔵 179cm 112kg
東前頭4 神優 改名→神龍 28歳 学文部屋 大隅185cm 118kg
西前頭4 神翔 改名→神洋 26歳 学文部屋 摂津 178cm 91kg
東前頭5 安曇野 29歳 出雲部屋 信濃 175cm 92kg
西前頭5村里 33歳 柵原部屋 美作181cm 93kg
東前頭6 雪桜 33歳 朝桜部屋 磐城 174cm 106kg
西前頭6 月桜 33歳 朝桜部屋 磐城 174cm 108kg
東前頭7 松風 28歳 吉井川部屋 津軽 170cm 88kg
西前頭7 浅縹 27歳 壱岐部屋 肥前 171cm 105kg
東前頭8 初雪 28歳 鳴尾部屋 羽後 169cm 86kg
西前頭8 獅子王 改名→獅子勇 25歳 飛鳥部屋 越中 177cm 97kg
東前頭9白光 35歳 白鳥部屋 駿河 180cm 118kg
西前頭9 光静 34歳 若草部屋 薩摩166cm 90kg
東十両1 飛鳥王 改名→飛鳥川 29歳 飛鳥部屋 大和 172cm 85kg
西十両1 野分 22歳 志摩部屋 豊後 171cm 107kg
東十両2 立葵 21歳 久賀部屋 伊予165cm 82kg
西十両2 光将 35歳 若草部屋 越前183cm 142kg
東十両3 芦刈 28歳 久賀部屋 周防 175cm 96kg
西十両3 北斗王 改名→北斗志 24歳 飛鳥部屋 北海道 181cm 128kg
東十両4 萌黄野 26歳 出雲部屋 出雲178cm 109kg
西十両4 光遊 31歳 若草部屋 肥後 168cm 112kg
東十両5 朝香王 改名→朝香山 35歳 飛鳥部屋 周防 177cm 90kg
西十両5 秋ノ里 30歳 柵原部屋 備前 173cm 108kg
東十両6 高千穂 30歳 出雲部屋 日向 172cm 78kg
西十両6 紅桔梗31歳 久賀部屋 美濃170cm 122kg
東十両7 檜扇 25歳 津山部屋 山城 168cm 120kg
西十両7 杜若 30歳 久賀部屋 三河172cm 104kg
東十両8 青海波 23歳 沢渡部屋 讃岐 174cm 120kg
西十両8深縹 26歳 壱岐部屋 若狭167cm 97kg
東十両9 梅ヶ枝 24歳 志摩部屋 陸中 172cm 114kg
西十両9 印南野 31歳 出雲部屋 播磨 174cm 115kg
東十両10 射干玉 25歳 沢渡部屋 肥前 167cm 116kg
西十両10 上総洋 23歳 出雲部屋 上総 180cm 107kg
東大関 天藍てんらん 35歳 鳴尾部屋 北海道 184cm 112kg
初日 神剣 ○
二日目 芙蓉峰●
三日目 夕霧 ●
四日目 通し矢●
五日目 早蕨 ○
六日目 神嶽 ●
七日目 青輝光●
八日目 村雨 ○
九日目 早桜舞○
十日目 神龍 ●
千秋楽 安曇野●
4勝7敗
西大関 神剣みつるぎ 31歳 学文部屋 摂津 177cm 104kg
初日 天藍 ●
二日目 秋月 ○
三日目 芙蓉峰○
四日目 初雁 ●
五日目 夕霧 ○
六日目 通し矢 ●
七日目 早蕨 ●
八日目 早桜舞 ○
九日目 安曇野 ○
十日目 青輝光 ●
千秋楽 初雪 ●
5勝6敗
東関脇 芙蓉峰 32歳 沢渡部屋 甲斐 180cm 117kg
初日 秋月 ○
二日目 天藍 ○
三日目 神剣 ●
四日目 早蕨 ●
五日目 初雁 ○
六日目 青輝光 ●
七日目 通し矢 ○
八日目 神嶽 ○
九日目 月桜 ○
十日目 浅縹 ●
千秋楽 松風 ○
7勝4敗
西関脇 秋月 31歳 鳴尾部屋 筑前 175cm 92kg
初日 芙蓉峰●
二日目 神剣 ●
三日目 通し矢 ●
四日目 夕霧 ○
五日目 神嶽 ○
六日目 早蕨 ●
七日目 村雨 ●
八日目 神龍 ●
九日目 雪桜 ○
十日目 早桜舞○
千秋楽 神洋 ○
5勝6敗
東小結 初雁 29歳 鳴尾部屋 武蔵 178cm 111kg
初日 夕霧 ○
二日目 通し矢●
三日目 早蕨 ○
四日目 神剣 ○
五日目 芙蓉峰●
六日目 村雨 ●
七日目 神嶽 ○
八日目 安曇野○
九日目 松風 ●
十日目 雪桜 ●
千秋楽 浅縹 ○
6勝5敗
西小結 夕霧 28歳 沢渡部屋 北海道 176cm 114kg
初日 初雁 ●
二日目 早蕨 ○
三日目 天藍 ○
四日目 秋月 ●
五日目 神剣 ●
六日目 早桜舞○
七日目 神龍 ○
八日目 村里 ○
九日目 獅子勇●
十日目 初雪 ○
千秋楽 雪桜 ●
6勝5敗
東前頭1 通し矢 27歳 飛騨部屋 山城 178cm 95kg
初日 早蕨 ●
二日目 初雁 ○
三日目 秋月 ○
四日目 天藍 ○
五日目 青輝光○
六日目 神剣 ○
七日目 芙蓉峰●
八日目 浅縹 ○
九日目 村雨 ●
十日目 月桜 ○
千秋楽 獅子勇○
8勝3敗
西前頭1 早蕨 31歳 志摩部屋 大和 170cm 95kg
初日 通し矢○
二日目 夕霧 ●
三日目 初雁 ●
四日目 芙蓉峰○
五日目 天藍 ●
六日目 秋月 ○
七日目 神剣 ○
八日目 光静 ○
九日目 神龍 ○
十日目 神洋 ●
千秋楽 青輝光●
6勝5敗
東前頭2 神王 改名→神嶽しんがく 28歳 学文部屋 摂津 177cm 84kg
初日 青輝光●
二日目 村雨 ●
三日目 早桜舞○
四日目 雪桜 ●
五日目 秋月 ●
六日目 天藍 ○
七日目 初雁 ●
八日目 芙蓉峰●
九日目 光静 ●
十日目 村里 ○
千秋楽 白光 ○
4勝7敗
西前頭2 青翔 改名→青輝光せいきこう 29歳 白鳥部屋 北海道187cm 105kg
初日 神嶽 ○
二日目 早桜舞 ○
三日目 村雨 ●
四日目 安曇野 ○
五日目 通し矢 ●
六日目 芙蓉峰 ○
七日目 天藍 ○
八日目 獅子勇 ●
九日目 浅縹 ○
十日目 神剣 ○
千秋楽 早蕨 ○
8勝3敗
東前頭3 村雨 27歳 吉井川部屋 摂津 173cm 106kg
初日 早桜舞○
二日目 神嶽 ○
三日目 青輝光○
四日目 浅縹 ●
五日目 初雪 ●
六日目 初雁 ○
七日目 秋月 ○
八日目 天藍 ●
九日目 通し矢○
十日目 白光 ○
千秋楽 月桜 ○
8勝3敗
西前頭3 早桜舞はやおうぶ 29歳 朝桜部屋 東京府179cm 112kg
初日 村雨 ●
二日目 青輝光 ●
三日目 神嶽 ●
四日目 神洋 ○
五日目 安曇野●
六日目 夕霧 ●
七日目 松風 ●
八日目 神剣 ●
九日目 天藍 ●
十日目 秋月 ●
千秋楽 村里 ○
2勝9敗
東前頭4 神優 改名→神龍じんりゅう 28歳 学文部屋 大隅185cm 118kg
初日 安曇野●
二日目 村里 ○
三日目 雪桜 ○
四日目 獅子勇●
五日目 浅縹 ○
六日目 月桜 ○
七日目 夕霧 ●
八日目 秋月 ○
九日目 早蕨 ●
十日目 天藍 ○
千秋楽 光静 ●
6勝5敗
西前頭4 神翔 改名→神洋しんよう 26歳 学文部屋 摂津 178cm 91kg
初日 村里 ●
二日目 安曇野●
三日目 月桜 ●
四日目 早桜舞●
五日目 獅子勇●
六日目 光静 ●
七日目 雪桜 ●
八日目 松風 ●
九日目 白光 ○
十日目 早蕨 ○
千秋楽 秋月 ●
2勝9敗
東前頭5 安曇野 29歳 出雲部屋 信濃 175cm 92kg
初日 神龍 ○
二日目 神洋 ○
三日目 村里 ●
四日目 青輝光●
五日目 早桜舞○
六日目 松風 ●
七日目 白光 ●
八日目 初雁 ●
九日目 神剣 ●
十日目 光静 ○
千秋楽 天藍 ○
5勝6敗
西前頭5 村里 33歳 柵原部屋 美作181cm 93kg
初日 神洋 ○
二日目 神龍 ●
三日目 安曇野○
四日目 白光 ●
五日目 月桜 ●
六日目 獅子勇●
七日目 光静 ●
八日目 夕霧 ●
九日目 初雪 ●
十日目 神嶽 ●
千秋楽 早桜舞●
2勝9敗
東前頭6 雪桜せつおう 33歳 朝桜部屋 磐城 174cm 106kg
初日 松風 ●
二日目 浅縹 ●
三日目 神龍 ●
四日目 神嶽 ○
五日目 光静 ○
六日目 白光 ●
七日目 神洋 ○
八日目 初雪 ●
九日目 秋月 ●
十日目 初雁 ○
千秋楽 夕霧 ○
5勝6敗
西前頭6 月桜げつおう 33歳 朝桜部屋 磐城 174cm 108kg
初日 浅縹 ●
二日目 松風 ○
三日目 神洋 ○
四日目 光静 ○
五日目 村里 ○
六日目 神龍 ●
七日目 初雪 ○
八日目 白光 ○
九日目 芙蓉峰●
十日目 通し矢●
千秋楽 村雨 ●
6勝5敗
東前頭7 松風 28歳 吉井川部屋 津軽 170cm 88kg
初日 雪桜 ○
二日目 月桜 ●
三日目 浅縹 ●
四日目 初雪 ○
五日目 白光 ○
六日目 安曇野○
七日目 早桜舞○
八日目 神洋 ○
九日目 初雁 ○
十日目 獅子勇 ○
千秋楽 芙蓉峰 ●
8勝3敗
西前頭7 浅縹あさはなだ 27歳 壱岐部屋 肥前 171cm 105kg
初日 月桜 ○
二日目 雪桜 ○
三日目 松風 ○
四日目 村雨 ○
五日目 神龍 ●
六日目 初雪 ○
七日目 獅子勇○
八日目 通し矢●
九日目 青輝光●
十日目 芙蓉峰○
千秋楽 初雁 ●
7勝4敗
東前頭8 初雪 28歳 鳴尾部屋 羽後 169cm 86kg
初日 獅子勇○
二日目 白光 ○
三日目 光静 ○
四日目 松風 ●
五日目 村雨 ○
六日目 浅縹 ●
七日目 月桜 ●
八日目 雪桜 ○
九日目 村里 ○
十日目 夕霧 ●
千秋楽 神剣 ○
7勝4敗
西前頭8 獅子王 改名→獅子勇ししいさみ 25歳 飛鳥部屋 越中 177cm 97kg
初日 初雪 ●
二日目 光静 ○
三日目 白光 ○
四日目 神龍 ○
五日目 神洋 ○
六日目 村里 ○
七日目 浅縹 ●
八日目 青輝光○
九日目 夕霧 ○
十日目 松風 ●
千秋楽 通し矢●
7勝4敗
東前頭9 白光びゃっこう 35歳 白鳥部屋 駿河 180cm 118kg
初日 光静 ○
二日目 初雪 ●
三日目 獅子勇●
四日目 村里 ○
五日目 松風 ●
六日目 雪桜 ○
七日目 安曇野 ○
八日目 月桜 ●
九日目 神洋 ●
十日目 村雨 ●
千秋楽 神嶽 ●
4勝7敗
西前頭9 光静こうせい 34歳 若草部屋 薩摩166cm 90kg
初日 白光 ●
二日目 獅子勇●
三日目 初雪 ●
四日目 月桜 ●
五日目 雪桜 ●
六日目 神洋 ○
七日目 村里 ○
八日目 早蕨 ●
九日目 神嶽 ○
十日目 安曇野 ●
千秋楽 神龍 ○
4勝7敗
翌場所の番付
東大関 芙蓉峰(新大関)
西大関 通し矢(新大関)
東関脇 青輝光(新関脇)
西関脇 村雨 (新関脇)
東小結 初雁
西小結 夕霧
東前頭1 早蕨
西前頭1 神剣 (陥落) 翌場所前引退
東前頭2 秋月 (陥落) 翌場所前引退
西前頭2 天藍 (陥落) 翌場所前引退
東前頭3 松風
西前頭3 神龍
東前頭4 浅縹
西前頭4 初雪
東前頭5 月桜
西前頭5 獅子勇
東前頭6 神嶽
西前頭6 安曇野
東前頭7 雪桜
西前頭7 飛鳥川(再入幕)
東前頭8 北斗志(新入幕)
西前頭8 立葵 (新入幕)
東前頭9 野分 (新入幕)
西前頭9 青海波(新入幕)




