近代世界史(ダイジェスト版)
豊臣秀吉と天海(明智光秀)が中心となって、交易経済、芸能を始めとする文化、技競べを起源とするスポーツによって、
「明るく楽しい世界征服」を成し遂げ、世界の盟主となった日本。
三百年弱の太平の世が経過し、ついに世界はゆらぎ始めたのであった。
身寄りを亡くした遠縁の少女、高須恭子が摂津職である多治比子爵家に引き取られたのは、十一歳のときだった。
多治比子爵家の次男広之は、そのとき十歳だったが、恭子をひと目見るなりその可愛らしさに一驚し、瞬時に恋をした。
高須恭子は、その年齢であっても高貴な雰囲気の気品を持った類い稀れな美少女だったのである。
年の近かった恭子と広之は直ぐに仲良くなった。
恭子は物静かではあったが、快活と言っていい気質でもあった。
広之にとって恭子は初恋の相手であった訳であるが、恭子は一歳年下であった広之に対してその種の感情は持たなかった。あくまでも仲の良い弟的な存在であった。
が、多治比家で暮らし始めてそれほどの時も経たない内に、恭子も恋をした。
その相手は恭子には三歳年上ということになる、広之の兄、多治比家の嫡子、長男の広雅であった。
広雅は頭脳明晰で、相当なレベルの美少年でもあった。
摂津職、多治比子爵家の嫡男広雅の優秀さ、その美少年ぶりは近在でも評判が高かった。
摂津は日本の首都、それだけにとどまらず世界の首都とも称されている大坂府の西に隣接している地域でもあったので、その評判は、日本と世界を統べる関白豊臣家の耳にも達し、広雅は摂津職、多治比子爵家の嫡男として参列を要する儀礼的な会合以外にも、現関白、豊臣秀斉の私的な拝謁の栄に浴したこともあったのであった。
そして、高須恭子もまた、十二歳、十三歳、十四歳と年齢を重ねるにしたがって、その美少女としての輝きを増していき、やはり近在では評判を呼ぶ存在となっていった。
が、多治比広雅はまだ年若い少年ではあったが、どちらかと言えば自分よりも年上の大人の女性により魅力を感じる心情の持主であったので、類い稀れな美少女ではあっても、恭子に恋愛感情を持つことはなかったのであった。
高須恭子が十四歳になった時、関白豊臣家から、その居館である明楽第の大奥に高須恭子を采女として仕えさせる旨の使いが、多治比子爵家を訪れた。
多治比子爵家当主、広雅、広之兄弟の父である広信にとっては、それは恭子の美少女としての評判が高まるにつれて、関白家よりいずれその旨の命があるのでは、と恐れていたことでもあった。
現関白豊臣秀斉は女性に対しては、豊臣家の始祖、秀吉と同様の性癖の持主であった。
ロリコンなのである。
まだ年端もいかない、おそらくはその経験もまだ無いであろう年代の少女を愛したのであった。
采女は、関白の日常生活のその身の回りの世話を務める役職である。
が、その制度が始まった飛鳥時代と同じく、主として地方豪族階級から募られ、美麗な容姿であることという厳格な規定があった。
采女として仕えるということが必ずしも関白のお手つきになるということでは無い。
明楽第には百の単位の采女がいるのであるから。
が、そうなってしまう可能性は極めて高かった。
次男の広之は、父に訴えた。
何か理由をつけて断ることはできないのか。あるいは恭子を子爵家から出して関白豊臣家の目の届かない場所に隠れ住ませることはできないのかと。
父、広信は子供に対して高圧的な態度を取る人物ではなく、優しい人柄の持主であった。
しかし、関白豊臣家の申し入れに対して、息子の心情を思いやって抵抗するというような気概を持った人物でもなかった。
「かつての中国の王朝では、後宮に何百人もの妃、寵姫がいた。後宮には入ったものの皇帝から声がかからず、生涯その相手を務めることがなかった女性も数多くいた。がそうであってもいったん後宮に入ったからには皇帝所有の女性として、皇帝崩御ののちも他家に嫁することは許されなかったと聞く。
が、関白豊臣家の大奥にはそれほどの厳しい縛りはない。関白の寵の無い、あるいは寵薄き女性については概ね20歳代の内に大奥を辞する、そののちは他家に嫁するも自由。
広之がそれほどまでに恭子のことを好いているというのであれば、その将来に希望を持って待てばよかろう。」
そして内心では
―恭子は、広之ではなく広雅が好きなように思えるがな
とも思ったが、それを口には出さなかった。
父の言葉は、広之に受け入れられることではなかった。
広之にとって恭子は、この世の誰も比較の対象にはならないような美少女であり、隔絶した美少女揃いと聞く関白の大奥の中に入ったとしても、その美は一等抜きん出た存在となるであろう。
関白の寵が無い、寵が薄いと言うことはあり得ない。
が、父の意向がそうである以上、十三歳の広之にはどうすることもできなかった。
恭子とともに手を携えて逃げようか、そんなことも考えたが、どうやって暮らしていくのか、広之にその算段は無かったし、また恭子は広之に対して、広之が持っているような気持ちを持っているわけではないということは、広之にも分かっていた。
結局、広之には何もできなかったのである。
関白家の大奥に仕えるように、との命は当の本人、恭子にとっては、もちろん大きな衝撃であった。
が、自らと社会について客観視する賢明さを持っている恭子は、広信同様、それは自らのあり得る将来として予測の範囲内の出来事でもあった。
恭子は物事についてできるだけ明るく、いい方に考えようという賢明さも併せ持っていた。
采女になるということは、自らが厳選された美少女であるという、その証を手に入れたということである。
関白の寵幸篤く、子を産むことがあれば、ある種の権力を手に入れることも可能。
また将来、大奥を辞することになっても、采女の経歴があれば、それなりの地位にある男性に嫁ぐことも可能である。
が、ただひとつ、自分の人生での初めての相手が、老という形容詞を付けてもおかしくはない、あの五十歳を越えた中年男となる、
それだけは受け入れられなかった。
大奥に入ることになる日の数日前の夜、恭子は、広雅の私室に行った。
そして己の気持ちを打ち明け、抱いてほしいと訴えた。
広雅は、恭子に対する広之の気持ちは知っていたし、まだ十七歳ではあっても大人の女性を好む広雅にとって十四歳の少女というのは、本来であれば範疇外のはずであった。
が、恭子のずば抜けた美貌を直視すると、この申し入れを拒絶するのは難しかった。
その夜、広雅は着衣を全て脱ぎ捨てた恭子を抱いた。
が、初めて関白に寵されたとき、処女の徴が無くなってしまうことを慮って、その最終行為だけは行わなかった。
恭子は大奥に入った。
数多の采女の中でも、恭子のその美は抜きん出ていた。
豊臣秀斉は恭子に魅せられ、毎夜のように恭子を寵した。
その寵幸は、数ヶ月続いたのであった。
その翌年、広雅は、関白豊臣秀斉の息女、貴子を妻に迎えた。
摂津職である多治比家は、本来であれば、関白の息女が嫁ぐような家格ではない。
が、秀斉には三十人を超える息女がいた。
多治比家嫡男が、関白の息女を妻として迎えることになったのは、広雅が頭脳明晰で優秀、なおかつ美少年との評判が高かったこと。
そして、貴子が決して美少女とは言えない地味な容姿であり、母の身分も低かったことに拠った。
しかし貴子は、読書好きで博覧強記の少女であった。
広雅は、学問の面で充分に語るに足る知識を持っていたこの二歳年下の妻を愛したのであった。
交易、そして芸能、技競べによって、豊臣秀吉と天海(明智光秀)が中心となって進めた「明るく楽しい世界征服」は実現した。
以降、日の本は世界の中心、盟主と言える国家となったのであった(作者注 その経緯についてご興味のある方は、投稿済の拙作「太閤秀吉」をご参照ください)。
世界の盟主となった日の本(日本)。
が、世界征服といっても、世界の全てをその領土としたわけではない。
経済と文化により、世界を圧倒する力を持ったのである。
その国民性は進取の気性を持ち続け、時を経て、蒸気機関の発明によって始まった産業革命の発生地ともなり、最先端の技術を持つ国ともなった。
西洋人には、アメリカ大陸と呼ばれる土地、
オセアニアと呼ばれるオーストラリア、ニュージーランドを含めた太平洋諸島、さらにはアフリカは、日本の植民地となった。
世界の盟主である日本の第一人者であっても豊臣は、関白の称号を変えることはしなかった。
ただ日本国内では関白であっても、海外にあってはその訳は皇帝であり、本来は殿下である関白の
敬称は陛下とされた。
なお、日の本の歴史において、古来より続く天皇家は京都御所にそのまま居住し、その伝統と格式は守られた。が、天皇という称号は廃され、その称号は大君となった。
関白は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次家の世襲となった。
次席である左大臣は、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長家の世襲となった。
尚、右大臣は、豊臣宗家に血筋が近く、その時代、時代で見識豊かな人物が務めるということが慣例となった。
関白豊臣家、左府(左大臣)豊臣家、右府(右大臣)豊臣がトップスリーであるが、それに続くのは、
内府(内大臣)徳川家
大納言前田家
中納言宇喜多家
中納言毛利家
中納言上杉家
であり、この五家は五大老と呼ばれた。
五大老は対外的には公爵であった。
それに続いては戦国の有力大名や、有力公卿を祖とする家々が、その家格によって、侯爵あるいは伯爵となった。
また日本において最高位を占める有力家は、海外の各地域の総督ともなったが、植民地以外の地域においては名目だけの総督号であり、現地に赴任するわけではない。植民地を除いては各地域の自治は保たれていたのである。
が、植民地においては、総督家が現地の有力者の協力を得て直接統治した。
各地域の総督、及び現状は以下の通りである。
・中国
総督は豊臣家。
大華帝国(皇帝、黄蔡丕。宰相、遼周庶)による自治。
・朝鮮
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
朝鮮王国(国王、李氏)による自治。
・満洲
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命。
満洲帝国(皇帝、愛新覚羅家)による自治。
ただし満洲総督の権限大
・台湾
総督は島津家(参議、侯爵)。
・琉球
総督は島津家(参議、侯爵)。
琉球王国(国王、尚氏)による自治。
ただし琉球総督の権限大
・東南亜細亜
総督は小早川家(参議、侯爵)。
歴史的経緯による各領邦による自治。
それをまとめる者として東南亜細亜総督の権限大。
・南亜細亜(印度)
印度総督は宇喜多家(中納言、公爵)。
多くの藩王による分割自治。
それをまとめる者として印度総督の権限大。
・西南亜細亜
総督は毛利家(中納言、公爵)。
スルタン=カリフ制を敷くイスラム帝国による自治。
総督は名目上のみの存在。
・露西亜
総督は上杉家(中納言、公爵)。
人民の平等を唱える社会主義の活動が盛ん。
豊臣体制からの離脱、総督追放の動きあり。
・欧洲
総督は豊臣家。
日本に次いで経済力を持つ地域。
歴史的経緯による各国家の自治。
総督は名目だけの存在。
・阿弗利加
総督は前田家(大納言、公爵)。
植民地。
欧洲諸国家の影響力が大きい。
・大洋洲(オーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島)
総督は豊臣家親藩あるいは譜代大名家から任命
植民地。
・北米
総督は豊臣家
植民地。
欧洲地域からの入植者が多く、日系人は少数派。
・中米
総督は伊達家(参議、 侯爵)
植民地
・南米
総督は徳川家(内大臣、公爵)
植民地
日本が盟主となる関白豊臣家体制。
その原動力となったのは、交易・経済及び芸能・文化そして技競べから発展したスポーツであった。
三百年近くの年月、時に地域的紛争は発生したが、世界はほぼ平和な時代を謳歌したのであった。
が、近年になり、大華帝国、イスラム帝国が明確な自治を獲得。
また露西亜の地には人民の平等を唱える新たな思想の発生があった。
関白豊臣家体制は大きくゆらぎ始めたのであった。
世界における関白豊臣家体制を崩壊させる。
そう志を立てたのは、大華帝国宰相、遼周庶であった。
遼周庶を見出し、帝国宰相としたのは皇帝、黄蔡丕である。
皇帝は、遼周庶の才能、そしてその人柄に惚れ込んだ。
「遼周庶なき黄蔡丕に意味はない。遼周庶あって黄蔡丕は初めてその存在の意味を見出した」
巷間に伝わる皇帝の言葉である。
三百年近く続き、概ね平和な世界を保った関白豊臣家体制を崩壊させることが可能なのか。
そう問い質した皇帝に、宰相は答えた。
「平和が保たれたがゆえに、世界は今の体制を受け入れてきました。
しかし今、世界の各地にその体制崩壊の兆しが胎動しております。
日本の意向に従うことなく、ほぼ完全な自治権を獲得した我が大華帝国。
そして、アラーという唯一絶対神をいただくイスラム帝国。
日系人が少数派であり、その支配をよしとしない北米。
日本に準じる経済力を持つに至った欧洲諸国。
その影響力が大きい阿弗利加。
そして人々の平等、人民主権を唱える社会主義が大きな勢力となっている露西亜。
これら諸地域が大同団結して、対日大同盟を結成すれば、日本に勝利することができます。世界に新たな秩序が生まれます」
「その対日大同盟をどうやって各地域に提議するのだ」
「我が国においても最優秀の外交官たちを各地域に派遣して説かせます。特に重要な地域、イスラム帝国、欧洲、露西亜には史家の三兄弟を派遣します」
「おお、史家の三兄弟か。彼らであれば」
皇帝、黄蔡丕は、宰相の提議を採可した。
現代の孔子。そう激賞される高潔かつ碩学の思想家、楊蒙材。
史家の三兄弟は、その楊門にあって、最優秀の高弟と評価されていた。
長男は史庸呉。
次男は史庸柱。
三男は史庸善。
三人は、三つ子なのでは、と疑われるに足るほど、その容貌は似ていた。
が、いかなる遺伝子のいたずらなのか。
その毛髪の量がまるで異なっていた。
長男の史庸呉は、ふさふさ。
次男の史庸柱は、薄禿げ。
三男の史庸善は、丸禿げ。
なのであった。
したがって、兄弟のその順番をまるで逆に思われることが多かったのであった。
イスラム帝国には長男の史庸呉が赴き、スルタン=カリフ、ムスタファ・メフメトに謁見した。
ムスタファ・メフメトはその前年、当地を訪れた大華帝国宰相、遼周庶と時間をかけた会談を実施済だった。
ともに壮年、四十歳代の二人は、その会談で意気投合し、お互いの人間的器量を認めあったのであった。
従ってムスタファ・メフメトと遼周庶の間では、対日大同盟結成については、既に合意済であった。
今回の史庸呉の訪問は、その実施方策の詳細を詰めるのがその主目的であった。
欧洲に派遣されたのは、史庸柱。
会ったのは欧洲地域にあって最有力であったドイツ帝国宰相、パウル・フォン・エーベルトであった。史庸柱は欧洲にとどまり、エーベルトの欧洲内のその他の有力国家に対日大同盟への参画を求める外交活動に参与した。
露西亜に派遣されたのは、史庸善。
社会主義が胎動している露西亜にあっても、その勢力は、徹底的な人民革命を唱える純理派と、社会改革を漸進的に進めていこうとする穏健派に二分されていた。
史庸善が面談を求めたのは、穏健派の領袖、まだ三十歳を過ぎたばかりの女性活動家、スベトラーナ・ザギトワだった。
大華帝国の潤沢な資金が、穏健派に流れ、露西亜社会主義の主流となっていった。
対日大同盟は結成され、同盟側が企図した地域的紛争を契機として対日戦は開始され、短期間で対日大同盟側の勝利となった。
対日大同盟連合軍が日本に駐留し、日本は三百年弱継続した世界の盟主の座から転落し、一地方的小国家となった。
関白豊臣家、左府豊臣家、五大老家を始めとする日本を支配する上層階級の人々は処刑されることはなかったが、その特権と財産を剥奪された。
日本の国から、貴族はその存在をなくした。
一地方小国家となった日本の、せめてもの伝統保持のため、大君がその統合の象徴的存在として復活した。
かつての天皇の称号の復活も図られたが、帝国をイメージするその称号の復活は、日本に駐留する対日大同盟連合軍の承認は得られなかった。
そのとき十九歳になっていた高須恭子は、もちろん関白豊臣秀斉の元から放逐された。
その恭子を妻として迎えたのは、やはり一庶民となった多治比広之だった。
そのとき広之は、京都の第三高等学校の三年生となっていた。
四歳年上の兄、広雅は京都大学を卒業していたが、摂津職であった多治比家は、公務員となって政府機関で職を得ることは適わず、また希望していた歴史学者となることも認められず、民間企業に就職した。
そしてその傍らには、変わることなく妻の貴子が
居たのである。