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15話 七年目の別れ






「え、今何て……」


私と友人の関口は声を揃えてそう言った気がする。


「いや、だからよ、俺も本読みたいからよ、ちょっと古本屋付いて来てや……」


友人Fは間違いなくそう言った。

私と関口はお互いの顔をじっと見て、


「俺、熱あるんやろうか……」


と関口は自分の額に手を当てた。

それ程にFが本を読むなどと口にするのは驚きだった。


「俺だって本くらい読むわい」


Fは関口の尻に蹴りを入れている。

私は二人のやり取りを見ながら少し笑った。


「わかったわかった。じゃあ古本屋行こう」


私は二人を宥めて背中を押した。

蝉の声は止んだモノの、まだ残暑厳しく空も低かった。


「どんな本、読みたいの……」


私はFに訊く。


「うーん。読書の秋って言うやん。F君何読んでるんって女に訊かれる様な本がええな」


その答えに関口がまた騒ぎ出す。


「やっぱ女にモテるためやんけ」


「うるさいわい。切っ掛けなんて何でもえーんじゃ」


とまたFは関口の尻を蹴った。


私はそんな二人を後ろから見ながら笑っていた。


路地を入ったところにある古本屋に私たち三人は入った。

どうにも場違いな三人だっただろう。

店主の老人は老眼鏡をずらして私たちを見ていた。


「これってさ、全部百円なん……」


Fは店主に大声で訊いていた。


「全部じゃないで、その棚だけが百円や」


と店主は言うと、また座り直した。


「おい、何を読めばええんや。俺にはさっぱりわからんが……」


Fは普段から本を読んでいる私に訊く。


「これはどうやろ……」


私は赤川次郎の小説を勧めた。


「読みやすいし、面白い」


すると関口が横から顔を出して、


「ああ、これ知ってるわ。ドラマにもなってたやろ」


と言う。


「ドラマになってたんやったらドラマ見るわ」


とF。

確かにそれはそうかもしれない。


「お前、ホンマに本なんて読む気あんのか」


関口はまたそう言って笑った。


その時、古本屋の入口が開き、ピロピロと機械音が鳴った。


「いらっしゃい、ハル子さん」


と店主の老人が立ち上がる。


「ああ、本を取りに来たんよ」


と日傘を手に入って来た老婆が言う。


「ああ、取ってあるよ」


と店主は自分の後ろの棚から一冊の本を取り出して、レジの横に置いた。


「おばちゃんはどんな本読むん」


とFがその老婆に話しかけた。

老婆はニッコリと微笑むと、


「俳句の本よ。そんな事くらいしか楽しみも無くてね……」


そう言い、財布を出して店主にお金を払った。


「ハル子さん、頼まれてたもう一冊も入って来たら電話するから」


老婆は店主に礼を言うと本をバッグに入れて店を出て行った。


しかし、Fの様子がおかしい。

出て行った老婆をじっと目で追っていた。


何かあるんだろうか……。


私もFの視線を追う。

Fは手に持った本を私に渡して店の外に出て行った。


「おい……」


私はFに声を掛けたが、Fは手を挙げて合図をしただけで老婆を追って行く。

私はFに渡された本を棚に戻して、Fを追う様に店を出た。

関口もそれに気付いて古本屋を出て来た。


周囲を見渡すが、Fの姿は無く、路地を出て大きな通りに出ると、Fは老婆の肩に手を当てて視線の高さを合わせ話をしている様だった。


私に追い付いた関口は、


「何やってんのアイツ」


と言ってじっとFを見ていた。


「また何か怖い事ちゃうやろうな……」


関口は嫌そうに顔を顰めていた。






私たちはいつも喫茶店に入り、美味くも不味くもないアイスコーヒーを飲んでいた。


「で、何やったん……」


怖い癖に気になる関口はFに訊く。


「ん……。ああ、あの婆さんか」


関口は無言で頷く。

私はアイスコーヒーを飲みながら、そのやり取りを聞いていた。


「何か憑いてるんよな。あの婆さん。しかも強い奴」


Fはタバコを咥えてそう言う。


「おいおい、勘弁してくれよ……。まあ、もう逢う事は無いかもしれんけど……」


Fはニヤリと笑って、メモをポケットから取り出した。


「それが連絡先聞いたんよな……」


関口は眉を寄せて、


「婆さんに連絡先聞くんやったら、その辺の女子高生の連絡先聞けよ。お前婆さん好きか」


と言い、自分もタバコを咥えて火をつけた。


Fは関口のライターを取ると自分も火をつけた。


Fが言うにはあの老婆には何か強い霊が憑いていて、その霊が老婆の体調をおかしくしていると言う。


「まあ、そんな遠くないし、今度行ってみようや……。あ、セキんちの近くやな」


「知るか……。勝手に行って来い」


関口は私たちに背を向けてタバコを吸っていた。






翌週に私たちはその老婆の家を訪ねる事にした。

それもFがすべて連絡を取って約束していた。

関口はブツブツ文句を言いながらも、やって来て渋々だが付いて来た。


「此処やな……」


とFが立ち止まった家は想像と違い、意外に新しい家で、周囲の家と違って平屋建ての家だった。


「ちょっと待て……」


インターホンのボタンを押そうとするFの手を関口が止める。


「この家か……。間違いないか……」


必死に言う関口を不思議に思い、私たちは一旦その家の前を離れ、近くにある小さな公園のベンチに座った。


「どないしたんや……」


Fは関口に訊く。


「あの家、俺が小学生の時に火事になったんや」


「それがどないしてん」


とFはタバコを咥えて火をつける。


「家族何人か死んでるねん……」


関口はそう言った。

それは聞くまでも無く、私は老婆の家の前でそれを感じていた。


「生き残ったん、あの婆さんだけちゃうかな……」


と関口は言う。


「じゃあ、その家族が憑いてる可能性高いな……」


とFは言うと煙を吐いた。


「詳しく教えろや」


関口は頷いて話を始める。

関口より少し下の子供が居たらしく、一緒にソフトボールのチームに入ってたらしい。

ある日火事になって、古い家が全焼したらしく、寝ていた家族全員が焼死。

家族の誰かが旅行か何かで家に居なかったそうで、その一人が生き残ったと言う。


「その生き残りがあの婆さんって事か」


Fの言葉に関口が頷く。


「何年か後に家を建て直して綺麗になったんやけどな」


私とFは関口の話に頷き、ベンチから立ち上がった。


「まあ、とにかく話聞いてみようや……」


私たちは再び、老婆の家へと向かった。






老婆の家を訪ねて来る人も少なく、久しぶりの来客だったのかもしれない。

お菓子なども用意してくれていた。


「ごめんね。わざわざ来てもらって」


と老婆は楽しそうに笑っていた。


「もう身寄りも無くてな……。誰もこんな家には来んから」


と私たちに冷たい麦茶を出してくれた。


Fはキョロキョロと部屋の中を見渡しているが、私にはやはり焼けた臭いがしていて、部屋の隅で人が折り重なる様にして亡くなったのを感じていた。


隣の部屋に仏壇があるのをFが見つけた。

関口が言っていた様に若い夫婦と小さな子供の遺影が壁に掛けてあった。

それを見ているFに気付き、老婆は座りながら言う。


「息子夫婦と孫……。爺さんは早くに死んだから」


と小さな声で言った。


「火事でね……。此処に家はあったんやけど」


私はじっとその老婆を見つめて頷いた。


「線香あげさせてもらっても良いかな……」


Fは立ち上がって、隣の仏間に入る。

Fはポケットから数珠を出すと手に持って、蝋燭に火をつけた。

そして読経を静かに始めた。


「あら……。お経も読めるの……」


と老婆は立ち上がって、Fの後ろに座った。

いつもながら見事な読経で、私も老婆の後ろに座ると、関口も私の横に座った。

私もFにもらった数珠を出して握った。


短めの読経だったが、お鈴を鳴らすとFはその読経を終えた。


「息子さんとお孫さん、此処に居ます」


Fは老婆の方を向きながら言う。

老婆はニッコリと微笑むと頷いた。


「はい。毎晩、私の所に来てくれるから」


私はその言葉に老婆を見た。

その老婆の後ろにぼんやりと立つ息子と孫の姿が見えた気がした。


「夜中にね、声がするんよ。「母さん」とか「おばあちゃん」とかってね。最初は夢かと思ったんやけど、孫の小さな手でね、「背中痛くない」「腰、痛くない」って摩ってくれるんよね。冷たい手で……」


Fはじっとその老婆を見つめる。

そしてFはまた読経を始め、仏壇の方を向いた。

すると部屋の空気が一気に変わった気がした。

そして老婆の傍に居た筈の息子と孫がFの両脇に立っている気配がした。


「やめて……」


そう言ったのは老婆だった。

私は老婆の顔を見た。

その両目から大粒の涙が流れていた。


「あの子たちを苦しめないで……」


老婆はFに縋る様にしてそう言い続ける。

するとFは途中でその読経を止めた。

その瞬間、暑い筈の部屋が一気に冷えた気がした。

私の腕にも関口の腕にも鳥肌が立っていた。


「F……」


私は堪らずFに声を掛けた。

Fは背中を向けたまま頷くと、頭を下げてじっと目を閉じた様だった。


「此処に居るんじゃない……。ちゃんと成仏している筈や」


Fは振り返ってそう言った。

しかしFの両脇に二人が立っているのが私にもわかる。


「すみませんでした……」


Fはそう言うと老婆に深く頭を下げた。


「勝手な事をして……」


そして項垂れる様にじっとしている。


気が付くと雨の音がしている。

外は大雨で、屋根を打つ雨音が激しくなって行った。


「あら、雨ね……」


老婆は立ち上がって、窓の外を見た。


「お茶を淹れ直すから、こっちで飲んで」


と仏間を出て行った。


夕方雨が止み、私たちは老婆の家を出た。

Fは何度も何度も老婆に頭を下げ謝っていた。


私たちは近くの関口の家に寄り、彼の部屋で話をした。


「成仏してるのに、出て来るって何でや……」


関口も腑に落ちない様子で、椅子に座って訊いた。


「あの婆さんの念って言うのかな……。婆さんが息子に会いたい、孫に会いたいって思う力が二人を呼んでるんやと思う。想念っていうんかな……」


関口も私も無言で頷く。


「そんな婆さんの大事な絆を壊す訳にはいかん気がしてな。今日は途中でやめた」


私もそれには賛成だった。


「そうやなぁ……。婆さんが会いたがってるんじゃなぁ……」


関口は途中で買って来た缶コーヒーを飲んだ。


「けどな……。想念が生み出したモンに関しては、生んだ人のエネルギーを使って現れるって事が多いんよ」


「どう言う事」


関口は身を乗り出す。


「要は婆さんの命削って二人を呼んでるって事になるんよな」


Fの説明に私も関口も眉を寄せた。


「このままやとあの婆さんの体調がどんどん悪くなる気がする」


Fは溜息を吐いた。


「爺さんに聞いてみるわ……。こんな時どうしたらええんか……」


Fはそう言って缶コーヒーを飲み干した。






それからしばらく経って、Fたちに会いに行くと、また古本屋に行きたいとFが言う。


「お前、女の気を引くための本とか無いぞ」


と関口は言うが、Fは「うるさい」と繰り返し、古本屋に入った。

そしてFは何冊かの文庫本を手に取ると、店主の前に差し出す。


「おっちゃん、あのハル子さんって人来てる」


とFが店主に訊いた。


「ああ、ハル子さんな。何回か電話したんやけど、どうも体調悪いらしくてな、本の取り置きしてるんやけどな……」


Fは店主に金を払い、本を受け取った。


「その本、俺が届けるわ……」


と言うと店主は棚から本を取り出す。

そして金を払って受け取った。


「家知ってんのか」


「この間、訪ねたからわかる」


Fはそう言って店を出た。


私たちは老婆の家を再び訪ねる事にした。


「体調悪いっていつからやろう……」


Fの足取りが早い。

自然に私も関口も足取りは早くなった。






老婆の家の前に立ち、インターホンを鳴らした。

しかし返事も無く、静まり返っていた。


「留守かもしれんな……」


関口はそう言って周囲を見渡した。

すると、家の前に一台のタクシーが入って来た。

そのタクシーを避ける様に私たちは脇に立つ。

すると老婆がそのタクシーから下りて来た。


「あら、あんたたち……」


老婆はハアハアと息を切らしながら玄関の前に立った。


「ごめんね。病院行っててね」


と言い玄関のカギを開けた。


「どうぞ入って」


と老婆は言い、しんどそうに家の中に入って行った。


前回同様にテーブルに座り、お茶を淹れてくれた。

部屋の灯りの下で見ると、先日よりも老婆は痩せた気がした。


「何処か悪いんですか……」


Fは老婆に訊いた。老婆は笑って、


「このトシやからね。悪い所はいっぱいあるわ。けど、このところしんどくてね。疲れが取れんのよ」


そう言うとへたり込む様に向かいに座った。


「あの子たちが守ってくれてるんやろうけどね……」


老婆は仏間の遺影を見ている様だった。


Fは私の顔をじっと見た。

私はそれに頷く。


「聞いてもらっても良いですか」


とFは座り直し、ちゃんと正座をした。


「何……」


老婆もそれを見て、座り直した。

Fは老婆の顔をじっと見つめると話し始めた。


「亡くなった方は実は結構忙しくて、生きている人を守る時間なんて無いと言われています」


その言葉に老婆は目を見開き驚いた様な顔をした。

Fは続ける。


「それに、息子さんもお孫さんも成仏していて、此処には居ません」


老婆は身体をピクリと動かした。


「じゃあ、私に会いに来てくれるのは何故、あの世からわざわざ来てくれてるって事」


Fは首を横に振った。


「ハル子さんが、息子さんに会いたい、お孫さんに会いたいって思う力がそうさせてるんです。一緒に居たい、死んでも離れたくないって強く思い続けたその想いが、形になって現れてるんです……。言うなればハル子さんの想念です」


Fは普段絶対に使わない敬語で必死に話をしていた。

彼が老婆をせっとくしようとしている事が痛い程わかった。


「私が、あの子たちを呼んでしまったの……」


老婆が呟く様に言う。それにFは頷いた。


「それは決して悪い事じゃないんです。少しその想いが強すぎただけです。その結果、愛情が未練になった……」


そういうFの声は何処か優しく、老婆にも染み入る様に聞こえたのかもしれない。

老婆は両目に涙を溜めて何度も何度も頷いていた。

そしてその涙は自然に老婆の頬を伝った。


「彼らを自分の近くに置いておく事に、ハル子さんの力を使います。昔から死者に関わると命を縮めると言われているのはそのせいです。このままだと、ハル子さんは本当に命に係わる事になってしまう……。出来れば俺は、そんな事にはなって欲しくない」


Fも目を伏せて言う。

そしてFは私の肩を叩く。


「信じてもらえないかもしれませんが、俺やコイツには不思議な力があって、時に死者が見えたり、話せたりします。俺は爺さんがそんな力があってその隔世遺伝なのかもしれません。コイツはそう言った類のモンでもないみたいで……。そう言う力を俺は、困っている人のために使いたい。コイツとそう決めたんです」


Fは私を見て微笑む。

老婆はFと私を交互に見ながら頬を緩めていた。


「会えなくなる事は寂しい事なのかもしれません。だけど、ハル子さんがこのまま死んでしまう事を息子さんやお孫さんは望んでいないと思います」


Fは言葉を詰まらせながらそう言った。

その言葉を言い終える前に老婆は声を上げて泣き始めた。

私たちは老婆の涙が枯れるのを待った。

どれくらい待ったかはわからなかったが、老婆は顔を上げて震える声で言った。


「除霊……って言うのかしら……、それは出来るの……」


Fはその言葉に首を横に振った。


「これは霊を祓ってしまうのではなく、ハル子さんの中の想いを解く事になります」


「解く……」


Fは強く頷いた。


「私の想いであの子たちにも無理をさせていたのね……」


老婆は目を閉じて天を仰ぐ。


「ごめんね……」


ふと、暖かな風の様なモノが部屋の中に舞う様に下りて来た。


Fは立ち上がり、仏壇の前に座る。


「こちらへ来てください」


その声に老婆が仏間に移り、私も一緒に移動した。

関口は仏間の入口に立ち、首を横に振っていた。


「最後に一度、お会いできるか……、やってみます」


Fはそう言うと数珠を出して手を合わせる。

そして読経を始めた。

窓も開いていないのに何故か風が動く。

Fがつけた蝋燭の炎も激しく揺れている。

長い読経だった。

私も数珠を手に掛けて目を閉じた。

首筋に温かい風を感じて目を開けると老婆の傍に息子さんとお孫さんが立っているのが見えた。

老婆も目を閉じていたが、明らかに二人を感じている表情だった。


「うん……、うん……。そう。そうやね、うん、わかった。また会えるのね……」


老婆はFの読経に重なり、そんな言葉を発していた。


「わかったわ……」


私は老婆が笑っているのに気付き、微笑んだ。


「ありがとう……。ありがとう……」


老婆はそう言うと手を合わせて頭を下げた。


Fの読経が止まり、振り返って老婆を見た。

そして私に視線をやると頷いた。


「それでは想念を解いて行きますね……。名残惜しいとは思いますが……」


静かな声でFは言った。


「よろしくお願いします……」


老婆はそう言うとFに頭を下げた。


Fは一度頷き、また仏壇の方を向いた。

そしてさっきとは違う読経を始めた。

また私の首筋に暖かな風が吹き、その風は老婆の家の中を回っている様な気がした。


どれくらい経ったのかわからなかったが、仏間の入口を見ると関口がへたり込む様に座っていた。

それ程長い時間だったのかもしれない。


そして静かにFの読経が終わった。

Fは振り返り、老婆に深く頭を下げた。


老婆も読経が終わった事に気付くと目を開けて、Fと私に深く頭を下げていた。


「ありがとう。ありがとう……」


と何度も繰り返していた。

そして目尻に滲む涙を指先で何度も拭っていた。






その後、老婆が食事を作るから一緒に食べてと言うので、私たちは老婆の作った食事を戴く事にした。


「あ、そうだ。古本屋からハル子さんに本を預かってます」


Fはそう言ってバッグから本を取り出してテーブルの上に置いた。


老婆はその本を手に取って微笑む。


「俳句もね……。あの子たちを思う歌ばかりを書いていたのよ。もっと前向きな歌だったら良かったのかもね……」


そう言うと本をパラパラと捲り、テレビが置かれた台の棚に立てた。


「しばらくは俳句も控えようかしらね。前向きな歌が書けるまで」


そう言って老婆は笑った。

それは今まで見た事の無い様な笑顔だった。






私たちはすっかり暗くなった空を見上げながら歩く。


「悲しそうなのに、何処と無く晴れやかな感じだったな、あの婆さん」


関口がタバコを吹かしながらそう言う。


「ハル子さんの心を縛っていたモノが解けたんだよ……。自分は幸せに生きちゃいけないって思ってたんだと思う」


私は関口の背中を叩いて言った。


「その通りやな……。子供も孫も亡くして、自分だけが生きているって事に引け目を感じてたんやろうな……」


Fも暮れた空に向かってタバコの煙を吐いた。


「ハル子さんの身体を子供と孫の霊が蝕む事なんて本当はあり得ないんだと思う。そんな事を望む子供や孫なんて居る筈無いしな。ハル子さん自身が自分だけ生きている事に引け目を感じてる事こそが、あの人の体調を悪くしていた原因なんだと俺は思う」


Fは空を見上げたままそう言った。

私も同感だった。


「でも、そう簡単でも無いだろうな……」


私は二人を見ながら呟く。


「ああ、生きてた人を忘れるって難しいんよ。だから、ハル子さんは絶対に忘れる事は出来ないやろうな。だけど、少しでもあの人の心が軽くなれば、それだけで良いんとちがうかな……」


Fはそう言うと私に微笑んだ。


「そうかもしれんな……」


関口は珍しく神妙に言った。


「七年目の別れか……」


私は何となく老婆の家の方を振り返った。

そこにあの息子さんとお孫さんが立っていて、私たちに礼を言っている様な気配を感じたのだった。

二人は私たちに頭を下げている様だった。






数日後、いつもの喫茶店でFが『罪と罰』を開いているのに気付く。


「ドストエフスキー……」


私は彼の持つ本の背表紙を見て呟く。


「おう、ええところに来た。この話の内容教えてくれ」


Fはタバコを消しながら言う。


「一行も理解出来んのよ……。頼む教えてくれ」


Fは私に手を合わせる。


私も何度か挑戦したが、当時の私ではFと同じ様に理解出来なかった。


「知るか……。女にモテるための本としてはハードル高すぎるわ」


私はFの頭を何度も何度も叩いて笑った。








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