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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

大学生百合シリーズ

愛して眠ってアムネシア

作者: 乙糸旬

書きたいことを1万字に詰め込みました。

短いお話ですので、気楽に読んでいただければ幸いです。

※暗めな物語や百合要素が苦手な方はご注意ください。

「――おはよう。そんでたぶん、はじめまして」


 彼女は、毎日ウチのことを忘れる。毎日きっちり、毎朝さっぱり。

 さて。

 今日も今日とて、しがない女子大生の片想いが始ま――。


「ッ!?」

「あぶぁ……!?」


 ぱぁん。

 右側だけを伸ばしたうざったい前髪の下、こいつの魅力の大半を受け持つ切れ長の双眸(そうぼう)が見開かれて、(わず)か一秒足らず。細い腕による全身全霊の平手打ちが飛んできた。


「いっ…………なんですぐに手が出るんだお前は!」

「あ、あなた誰よ……!?」

「まず謝れ! 毎朝毎朝ぶん殴りやがって!」

「はぁ……!?」


 あまりの衝撃にちらつく視界の真ん中で、彼女――百森(もももり)詩雫(しずく)による出力最大の(しか)めっ(つら)がこちらを睨みつけてくる。寝起きで少し乱れた髪から覗く美貌を、遠慮の欠片もなく怪訝(けげん)そうに(ゆが)めて。

 持ち上げて留めるのに馴染んだウチからすれば、大学入学時から変わらないその前髪は何度見ても鬱陶(うっとう)しい。


 叩かれた左頬がじんじんと熱をもってくる頃で、じわ、と涙が(にじ)んだ。


「ったく……。知らねぇ奴に起こされて怖いのは(もっと)もだからなぁ、責めるに責めらんねぇのがもどかしい!」

「なんの話よ……?」

「いいか? 今お前が叩き飛ばしたのは、()()()()()()()()()()()()()()お前を献身的に支えてやってる恩人なんだぞ」

「え、」


 (すが)められていた目が驚嘆に開く。


「……私の病気のこと、知ってるのね」

「おん。謝る気になったか」

「……ごめん」


 まだ動揺の色が濃い面持ちのまま、口を動かしただけのような謝罪だ。

 毎朝全力ビンタをくらって鬱憤も相当溜まっているが、まぁ、ただでさえ大変な思いをしているこいつにこれ以上負担をかけてもしょうがない。


 ――それにしても。


()()()か……」


 落胆だの寂しさだのを吐き出すつもりで(つぶや)いて、ズボンのポケットからメモ帳を取り出した。クリップで留めた小さなペンを外しつつ、最新のページを開く。


「何書いてるの、それ。何が今日もなの」

「気にすんな」

「えぇ……?」


 不満そうに(うな)る詩雫を尻目に、小さなメモ帳の上でペンを走らせた。


 昨日以前に書いた箇所と同様、今日の日付を書いて、その下に箇条書きの中黒をいくつか並べる。ひとつめの項目に【合川(あいかわ)晴莉(はるり)】と――ウチの名前を(つづ)った。

 続く項目は、もう少し話さないと分からないな。


「……病気、どれくらい知ってるの?」


 病気――一ヶ月半ほど前に突として発症した、先例のない記憶障害。

 医者を(もっ)てしても、仕組みも治療法も迷宮入りした難病だ。ウチが詳細を知るわけはない。


「見て分かる範囲だけだ。……毎朝記憶の一部を失った状態で目を()ます。生活に支障が出るレベルから始まって、時間経過で徐々に緩和、夕暮れ時には九割(がた)快復。失う記憶は日によって若干変わる。それくらいしか知らねぇ」

「そう……本当に、よく知ってるのね」


 疑念か、安心か、好奇か――そのどれとも測りかねる詩雫の面差しから視線を()らし、メモ帳を仕舞った。


 あぁ――苦手だ。

 この、記憶のページが破れた状態の詩雫と話す時間が。

 もう何度も経験して慣れてきた今でも、一歩間違うだけで心を閉ざされてしまうことへの恐怖がとにかく不快で。何より不安で。


 喉の奥を、それこそ不快な苦味のようなものが駆けた。


「まぁな。……だからまぁ、遠慮なく頼ってくれ」

「えぇ、……じゃあ、」


 怯えて身を引いたままの体勢だった詩雫が、のそのそとベッドの上で座り直した。さすがに頭に(のぼ)っていた血も()けてきたらしく、彼女の表情から棘が消え始めている。


「まず、あなたの名前と、私との関係を()いてもいい?」

「合川晴莉。関係は、……大学の同級生だな」

「はるり? 変わった名前ね」


 何度目か分からないセリフを、相変わらず淡々とした声音(こわね)で言う。


「そーだろ? 呼びたくなければ合川って呼んでくれ」

「変わってると言っただけで、変だとは言ってないわよ。私は好き、その名前」

「……どーも」


 ……これこそ、口を動かしただけの相槌だ。


 もう、その言葉では照れない。寂しさが勝ってしまうようになったから。

 毎朝自己紹介のやり直しで、毎朝そうやって名前を褒めてくれる。変わっているけれど好きだ、と。それを言うときだけは、怯えも警戒も取っ払った淡い笑顔で。


 じゅ、と胸の奥を焦がした何かは、だから最高に心地が悪い。


「……さて、」


 思わず寄せてしまった眉根に気づかれないよう、ぱん、と手を叩いて改まった。


「まずは着替えだ」

「……え?」

「き、が、え」

「……私の?」

「そ」


 詩雫の目元に怪訝(けげん)さが復活。


「冗談やめてよ、こっちはあなたと初対面のつもりなのに」

「じゃあ着替えがどこにあるか覚えてるか?」

「は、それくらい………………」


 言葉と裏腹、不安げな彼女の眼差しが、こっそりと部屋を一周見回した。

 ウチの口角もこっそり上がる。ざんねぇん、この部屋にはないんだな。


「どんな服持ってるか、覚えてるか?」

「…………いいえ、」

「よし脱げ」

「にしてもよ! ……って、うわっ!?」


 ムササビさながらに飛びついたウチに、詩雫の体がびくりと跳ねた。


 ここでこいつが殻を割らないのは、もう何日も見てきたから嫌というほど分かっている。知らない人に裸を見せるのは……とか、女同士だとしても距離というものが……とか。そんな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を言い(つら)ねて。

 過去に“話の通じないチンピラ”なんて愛称をつけて喧嘩を売ったのは、他でもない詩雫だ。公認のならず者として、遠慮なく引っ()がさせてもらう!


「待ちなさ……ちょっ、ま、待って!」

「早くも気取った口調が崩れてきたな。いつまで“冷血お嬢様”でいられるかな」

「どうして高校時代の蔑称を……!」

「ばーか、今もその蔑称じゃい」

「な、あ……っ!」


 記憶障害に都合よく消してもらっているらしいコンプレックスを突きつけて、生まれた一瞬の硬直で上のパジャマを盛大に(はだ)けさせた。

 途端に詩雫の頬が赤みを帯びる。普段は冷然とした雰囲気を(まと)っておいて、案外こういう展開に流されることは知っているのだ。


「お前、またこの下着か」

「なに、駄目なの……?」

「扇情的すぎるからやめろっつったろ」

「覚えてないわよそんなこ、と……っ!?」


 冷静さを失って隙だらけの詩雫をごろんとひっくり返し、(はだ)けたトップスを完全に脱がせる。それに気を取られた瞬間にズボンをすぽんと引っこ抜いた。

 上下セットの、彼女が一番のお気に入りだと言っていた下着が露わになる。無駄に洒落こんだ白と黒の意匠(いしょう)


 下着に際立てられた玉の肌――その面積の大半を一呼吸のうちに網膜に()きつけた、そのとき。


「っ……」


 突然、頭痛に襲われた。

 頭蓋骨を内側から叩くような疼痛(とうつう)に不意を突かれて、思わず喉が詰まる。


「え……なに、どうしたの」


 あられもない姿のままの詩雫が、心配そうに(うかが)ってきた。

 余計な心配をかけてしまったことは不本意だが、痛み自体は一瞬のことで、すでにほとんど治まっていた。


 ……この痛みには、思い当たる節がある。

 やっぱり、か。


「なんでもない」

「記憶障害だからって、そんな嘘が通ると思う?」

「……気にすんな」

「また、それなのね」


 悲しげに――寂しげにそう(こぼ)す詩雫を前にしてどこか居たたまれなくなり、ベッドから降りて乱暴に掛け布団を被せた。

 巻き込んだ空気が布団の隙間からゆっくりと抜け、しぼんで詩雫の身体を覆う。その微妙な間は、微妙な沈黙だけを連れて流れた。


 不自然なまでに静まった部屋に背を向けてドアを開き、すぐそこに用意していた衣服一式をベッドの上へと放り投げてやる。ぼす、という音の向こうで、詩雫の細い(うめ)き声が聞こえた気がした。


「自分の心配だけしてろ、ばか。……朝メシできてるから、着替えたら出てこい」


 少し困惑した表情の詩雫が、窓から()す朝日に照らし出されていた。






 ――昼下がり。


「はい」


 こん。

 (くだん)の手帳を開いて眺めていたウチの前に、コーヒーの入ったマグカップが差し出された。薄霞(うすがすみ)のように、ほんのりと立つ湯気が空気中へ溶け出している。


 特に何を考えるでもなくその水面を眺め、次に視線を移した先は、ダイニングテーブルの向かいに同じマグカップを手にして座った詩雫だ。

 両手で包むように持って口元に当て、ふー、と細い一息を吹きかけている。


「……ねぇ、そろそろ教えてくれないかしら。それは何を書き留める手帳なの」

「…………」


 上唇を当てただけにすら見える小さなひとくちのあと、もの言いたげな薄目でそう切り出してきた。


 再び手元のメモ帳に目を落とし、そこに(つづ)られた自分の文字を目で追った。

 いくつか縦に並んだ箇条は、一番上の【合川晴莉】に始まり、【服】【ブラ】【料理】【掃除】などの言葉が整然と続いている。すっかり書き慣れたそれらは、やけに勢いのある筆跡だ。


 はぁ――と溜息が漏れた。

 見せないつもりだったが、さすがに()()()()()そうもいかないか。


「ん」


 今日のページが開いたままの手帳を、押し付けるように手渡した。即座に釘付けになる好奇の目。


「備忘録ならぬ忘録だ。その日その日で、詩雫が何を忘れてるかメモしてんだよ」

「え、」


 透き通った双眸(そうぼう)から、一瞬で好奇の色が消えた。代わって――驚嘆といったところか。

 その拍子に落とすように置いた詩雫のカップの中で、まるで彼女の胸中を投影したかのように水面がゆらゆらと揺れている。


「どうして、そこまで」

「……ノーコメント」

「えぇ……?」


 想定どおり不満そうに(うな)ったが、再びコーヒーを口にした詩雫は手帳へと目を落とした。すぐに見入って、無言のままページを(さかのぼ)っている。

 (しばら)く、紙の()れる音だけが鳴る静寂が流れた。


「ま、それはゆっくり見てくれていいが、」


 そこまで言って。

 また――前触れもなく、頭痛が走った。不快な疼痛(とうつう)


 ただ、今回はほんの一瞬のことで、強度も朝よりいくらかマシだった。

 おかげで言葉が止まったのも少しのことで、加えて詩雫も手帳の達筆を読み込んでいたから、次に言葉を続けるまでに怪しまれる隙はなかった。


 にしても……やっぱり今日なのか。()()なんて一秒も信じたことなかったが。


「なんか、してほしいことあるか?」

「え?」

「ウチは詩雫をサポートするためにここにいんの。だから、してほしいこと」


 これは、一応毎日()くようにしている。症状は本人にしか分からないし、だから苦労や疲労も本人にしか分かりようがない。たいてい「結構よ」なんて返しやがるが。


 きょとんとした詩雫は、果たして手帳を閉じて言った。


「――キス」

「………………は?」


 今度は、ウチが手にするマグカップが危うく滑り落ちかけた。


 まるで、時が止まったようだった。

 キス――って、言ったのか? 詩雫が?


「なに言って――もしかして薬が効いたのか!?」

「え?」

「だって、まだこんな時間だ。記憶が戻るには早すぎる」


 記憶が戻って、ウチのことを――ウチとの関係を思い出すのは、およそ夕暮れ時だ。まだ数時間先のことのはずである。


「記憶は戻ってない。私にとって晴莉は、まだ今日会ったばかりの人よ」

「じゃあ、なんで――」

「晴莉、あなた私の恋人でしょう」


 え。

 不意と図星を同時に突かれて、その一文字すら言葉にならなかった。


 対する詩雫は、どこか(たの)しそうな笑みを(たた)えている。


「大学の同級生、なんて(にご)したみたいだけど」

「……なんで、」

「晴莉が、私のタイプのど真ん中だから。過去の私が、あなたをただの友達で済ませるわけがないって、思ったから」


 言って、やはり(たの)しげに笑う。

 そうやって崩れても美しい容貌でありながら、同時に子どものように。無邪気に。


「……当たり?」

「…………あぁ」

「やっぱり」


 したり顔の詩雫を、ウチは直視できなかった。


 あり得ない。

 記憶を取り戻して、ウチとの関係性を思い出した詩雫ならまだしも。白紙の状態の彼女が、そんな積極的な言動をするはずがない。知り合って半日程度で、心どころか唇を許すような――そんなに脇の甘い奴ではないのだ。


 だって、今でも覚えている。

 詩雫の記憶障害が発覚した日、ウチのことが分からないと言われて。そのショックは言い得るものではなく、柄にもなく泣き崩れて。

 さしもの冷血お嬢様もそんなウチを見放すことはせず、不安を押し殺して受け入れようとしてくれたけれど、その無自覚な言葉の刃は毎朝新鮮なつもりをして振るわれた。

 ウチが気を()いて前のめりになるほど、詩雫は心を閉ざす日々だった。


 それが当たり前になって、ようやく慣れてきた頃に。

 急にそんな希望のようなものを見せられたところで、受け取り方が分からない。


「……ねぇ、こっち来て」

「…………」


 その誘いに、ウチの体は勝手に従っていた。

 腰を上げて、詩雫の隣まで歩み寄る。座ったままの彼女を、複雑な想いとともに見下ろした。


 どうしても今日は――嫌な予感が(ぬぐ)えない。

 日に日に頻度と強度を増し、ついに今日明らかな悪化を見せた頭痛が、運命というものをありありと語っている。信じるか(いな)かの問題ではない。


 キスをすると、何かが起こる。

 根拠のない確信が、ウチの胸に確かに居座っていた。


 ――刹那。


「っ……」


 心の準備もできないまま、ぐい、と詩雫の唇が迫った。


 薄いくせに柔らかくて、温かくて、甘美なそのリップ。

 一瞬触れたように感じて――けれど、ふっ、と。


 ()()()()()



       ***



「っ……!?」


 まるで、煙のように。

 まるで、そこにははじめから何もなかったかのように。

 重なったはずの晴莉(はるり)の唇が、すり抜けた――?


 ほとんど反射的に身を引いていたが、私はなぜか、遅きに(しっ)した感覚を覚えた。取り返しのつかない何かが、起こってしまった。


「あ――……!?」


 突如、凄まじい速度で脳内に映像が流れる。

 これは、記憶……!?


 濁流が流れ込むように、あるいは何かが湧き出るように。

 とにかく、忘れていた記憶が、どういうわけか一気に蘇り始めた。


「おい詩雫(しずく)、大丈夫か……!?」

「い、嫌、待って……!」

「詩雫!」


 大挙(たいきょ)して襲い来る記憶の大波は、意思ではどうしようもない。視界ごとぐるぐると(ゆが)んで回る脳裏に、本能的に頭を抱えて(おのの)くことしかできなかった。


 走馬灯のように、次から次へと再生される映像。記憶。

 記憶障害になる前の、晴莉と過ごしていた日常の断片。恋人として愛し合っていた幸せな時間。

 ――そして。

 耳を(つんざ)く救急車のサイレン。


「しっかりしろ、詩雫……!」


 (なか)ばパニック状態のようになった私に、晴莉が必死に声をかける。


 頭の中を渦巻いていた記憶は、やがて静かに収束して、脳へ溶け込んでいく。手元に戻ってきて、自分の過去として形を得る感覚。

 それから数秒もすれば、私は、きちんと過去を持つ百森(もももり)詩雫に戻っていた。


 自分の息がひどく荒れていることに気がついて、固唾を()み込んで深呼吸をする。(かす)んで震えていた視界も次第に安定し、ただ疲労だけが残った。


「詩雫……?」


 心配そうな晴莉の声音(こわね)

 意識的に、ひとつ大きく呼吸をする。


「……思い、出した」

「………………そうか、」


 思い出した。全部。

 目の前の少女が、どのような存在なのかも。


「じゃあ、……ウチのことも、思い出したんだな」

「えぇ……そうね」


 記憶障害前の記憶が戻って、記憶障害になってからの記憶も戻って、だから目の前に存在している事実も理解してしまって。

 記憶に代わって押し寄せる(あふ)れんばかりの感情は、小さな溜息となって漏れ出した。


 うっすらと浮かぶ晴莉の笑みは、寂しそうだ。(かな)しそうだ。



「晴莉、あなたは――()()()()()()()()()



「……そーだな」


 言って、さらに深めた笑みは、やはり哀愁の色で。明朗快活な合川(あいかわ)晴莉は、もはやそこにはいない。


 ――大学の講義に出て、その帰りに晴莉の家に寄る。日によってはそのまま泊まる。

 それが、記憶障害になる前の私の生活だった。(ひとえ)に、病に伏せた恋人を支えるため。


 晴莉は体が弱かった。軽い風邪なら毎月(かか)るくらいに。

 私が看病で晴莉の家に通い詰めるようになったのは、彼女がとうとう大きく体調を崩して寝たきり寸前になったときだ。診断は、ただの風邪。もちろん風邪にも軽重(けいちょう)はあって当然だから、体の弱さをふたりして笑っていた。

 だけど。


「免疫不全並みに病弱だったあなたは、風邪が肺炎に悪化して、それに気づく猶予すらないまま、」

「……案外苦しくないもんだったぜ、死ぬってのは」


 一瞬言葉に詰まった私から会話のバトンを取り上げて、晴莉はあっさりと結論を口にした。


 あの夜。

 夕食を食べられて、会話もできたくらい、快調だった。

 それなのに、翌朝語りかけたとき、晴莉の体はぴくりとも動かなくなっていた。すぐに救急車を呼んだ。当時の詳細な記憶は脳が(にご)してしまっているけれど、のちに重度の肺炎だった可能性が高いと医者に言われたことだけは覚えている。

 一緒に記憶されている救急車のサイレンは、その一件でトラウマとなってしまった。


 記憶障害が始まったのは、それからだ。


「……毎日忘れてしまって、ごめんなさい」

「謝んな。詩雫は悪くねぇ」

「明日また、同じやり取りをするんでしょうけど」

「…………そのことなんだけどよ、」


 何やらとても言いにくそうな声色(こわいろ)と素振りで、晴莉の目が左右に泳ぐ。

 次の言葉を聞くより早く、言い得ぬ不安を覚えた。


「もう、これで終わりだ」

「え……どういう、こと」

「あのな、……今日で、死んで()()()()なんだよ」

「ぇ――……」


 …………。


 しじゅう、くにち……?


 私は、これまでに誰かの葬式に出る機会がなかったから、法事についてはあまり詳しくない。

 それでも、四十九日の概念くらい知っている。


 つまり。晴莉は、()()――……。


「……今のウチは、霊体と、詩雫の幻覚の狭間(はざま)みたいな存在なんだよ。だから、詩雫が夕方に記憶を取り戻して幻覚から解放されるタイミングで、毎日消えてた。そんでまた、朝に記憶障害が始まれば幻覚として干渉できるようになる。……そういう、存在だ」

「…………」


 霊体。幻覚。その、狭間(はざま)

 何を言っているのか分からない。分からないはずなのに――私の頭は、苦もなくその事実を()み込んでしまった。納得の二文字が浮かんだ。


「いっそ、完全な幻覚ならいいのになって思ってたんだけどな。やっぱり本質は霊らしい」


 耳で受け取った晴莉の声が、脳に届く前に(かす)れて消えていくように感じた。あまりにも突然牙をむいた現実への、脳のなけなしの拒絶。


 晴莉は、笑っている。いつもなら、私も笑っている。

 笑い合って、記憶障害のせいで日中にできなかったまともな雑談をするのだ。その時点で晴莉は幻覚という依代(よりしろ)を失っているから、話せるのはほんの少しだけだけれど。

 それでも、また明日会えるからと。少しだけでもまた話せるからと。

 ……今日も、そのつもりだったのに。


 心構えなんてできているわけがない。

 こんなことなら、いっそ記憶なんて戻らなければよかった。


「いや――」

「ん?」

「いやだ、晴莉。いかないで」


 声に混ざってしまった弱々しい震えを聞いて、自分が泣きそうになっていることに気がついた。


 毎日のことだから、分かっている。

 あとどれだけの時間、晴莉とこうして話していられるか。

 永遠の別れが、どれほど近くまで迫っているか。


 早くも、じわ、と目元が熱くなって(うる)み始めた。


「なんだよ。冷血お嬢様が泣くなよ、ばーか……」


 笑顔と泣き顔は、ときに境界がひどく曖昧で。

 同じくゆらぎを帯びた晴莉の声。彼女もまた、目元を赤らめていた。

 気を抜けばすぐに目つきが悪くなってしまう彼女の双眸(そうぼう)は、しかし今や、いたいけな少女のそれに他ならなかった。愛らしく――どこまでも(かな)しい。


 言いたいことが頭の中で無尽蔵に湧き出る。感情だけが、ひとりでに加速していく。


「晴莉とまだ一緒にいたい……」

「そりゃ、ウチもだよ」

「私だって手帳があるの――晴莉と行きたい場所とか食べたいものとか、たくさん書き留めてあるの。どれだけ記憶を失ったって、これからの晴莉との思い出まで失いたくなかったから……!」

「は……」

「だから、おねがい、晴莉……!」


 (りき)んで上手く動かない腕を、それでも必死に晴莉の手へと伸ばす。


 両手で思い切り掴んだのは、もちろん、空気だ。


 何度掴み直そうとしても、目からの情報を無視して手は(くう)を切る。

 ふわ、ふわ――そうやって無を掴むたびに、心が端から崩れていく感覚。壊れてはいけない何かが、砂山の一角が次々と剥がれていくように。


 頬を、温かい雫がなぞって落ちた。


「詩雫――もう、やめろ」

「どうして、どうして触れられないの……っ!? 晴莉はまだ――!」

「もういいんだ、詩雫」


 少し低めな晴莉の声は、いつもは少なからず圧をはらんでいて――けれど、今のそれには温もりしかなくて。

 一歩踏み出して私に優しく腕を回した晴莉に、思わず動きが止まった。


 相変わらず、触れられた感触はない。見えているのに、そこにかたちはない。

 だから、今感じている彼女の体温だって――きっと気のせいだ。


「ありがとな」


 (なだ)められて、かえって(たが)が外れる。そっちこそそんなに涙を(こら)えた声音(こわね)で、どう落ち着けと言うのか。


「ごめんなさい……! 私が晴莉のことを忘れなければ、もっと話せたのに――もっと一緒にいられたのに……! ごめん、なさい……っ」

「詩雫……」


 もはや、自分でもきちんと話せているか分からない。とにかく胸の奥が潰されたように苦しくて、息が上手にできない。


 そのせいか、晴莉の体が()らいで見えた。


「あのさ、詩雫。これが最後になるから、聞いてくれ。……忘れるってな、そんなに悪いことじゃないんだよ」


 そう、(ささや)くように。

 最後という言葉が、氷刃に化けて私の胸を刺した。ひゅっ、と喉が鳴る。


 彼女は、それでも静かに続けた。


「人生は――この世界は、楽しんだ奴が一番強いようにできてる。生き方が上手いってのは、だから不幸すら楽しむ奴を指す言葉だ。でも凡人にはそんなことはできない。……だから、不幸なことは、忘れりゃいいんだよ」


 涙の膜の向こう。

 晴莉の存在感そのものが、薄れているように感じる。


「不幸を意識さえしなければ、人生なんて幸せに満ち(あふ)れてる。何が起きたって負け組にはならねぇの。……だって、ウチがそうだったんだからよ」


 なぜか、顔を持ち上げられた気がして、晴莉の瞳を見上げた。

 ()んで細まったその双眸(そうぼう)は、どこまでも綺麗で、どこまでも深くて。


 だけど――やはり、幻視も、幻聴も、皮肉なことに治まろうとしているようだった。

 運命は、どうやら待つ気がない。覚悟が、できていない。


「死んだのは不幸だ。詩雫と離れちまうんだからな。……だけど、たとえ幽霊で幻覚で――そんな状態でも、詩雫と話している間は不幸の記憶なんて頭の(すみ)にもなかった。目の前の詩雫のことしか見えてなかった。それが、幸せだった」

「ぁ――……」


 それこそ、煙のように。はじめから何もなかったかのように。

 晴莉の存在が、風に乗って消えていく。


 待って――お願いだから。


「だから、気にすんな。記憶障害なんて、悲観しなきゃむしろ超能力なんだから――」

「は、はるり……っ!」


 今さら焦って手を伸ばしたところで、何かが起きるはずもない。


 あまりにも突然訪れた最期は、笑顔もなく、声もなく。

 合川晴莉は、思念としての一言だけを残していった。


「死ぬほど幸せになれ、ばーか」


 窓の外は、朝の快晴とは打って変わって――しとしとと降る雨雫(あめしずく)の世界だった。






 ぷち。ぷち……。


 ブリスターパックから、錠剤を押し出していく。ちくちくと心を刺すような音とともに。

 夜の薬の時間だ。

 抗うつ剤、精神安定剤――いわゆるPTSDの治療薬。


 先例も仕組みも治療法もない記憶障害とはいえ、晴莉の死をきっかけとして発症したのだから、つまるところ私の病気はPTSDの一種にあたる。処方された薬は、なるほど記憶障害を抑えるようで、一、二時間ほど記憶の回復が早くなった。


 それに、これがPTSDだと分かれば、失う記憶の種類にも納得がいく。

 晴莉の手帳には、私が私のことを忘れた記述はひとつとしてなかった。着替えや料理というのは――彼女の看病をしていた頃に私がやっていたことだ。彼女のことはもちろん、彼女の死を思い出す可能性のある記憶まで、睡眠をトリガーとして消えていたのである。


「忘れるって、そんなに悪いことじゃない……?」


 ――不幸なことは、忘れりゃいい。


 晴莉の言葉が、もう数えきれないほど脳内で復唱されている。


 私は、薬を飲むことで記憶を早く取り戻そうとしていた。毎日忘れるのが、晴莉に申し訳なくて。

 けれど彼女は、忘れることを肯定した。……忘れる対象が、自分だというのに。


 自分の存在自体が不幸だと。

 不幸を忘れれば幸せだと。


 それは、つまり。


「私が幸せになるには、晴莉を、」


 晴莉にとって、彼女自身は不幸そのもので。

 晴莉にとって、不幸を忘れることが幸せで。


 ――死ぬほど幸せになれ、ばーか。


「…………そうね、」


 錠剤を、握りしめた手。


「晴莉が、そう言ってくれるなら」


 私に、恩知らずでいていいと言ってくれるなら。


 がさりと、ごみ箱が音を立てた。

 その底には、私を救うフリをして、幸せを縮める錠剤たち。



 明日も、(まぶ)しい朝日が()す。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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