マリー「ばあちゃん見て! 今夜は御馳走だよ!」コンスタンス「まあ美味しそう! 蕪と葱で煮込もうかねえ」
猪は基本的に人間を恐れていますし、人間を襲って食べたりはしないはずなんですが、不用意に近づくと執拗に攻撃して来る事があるそうです。
彼等の武器は時速45kmの突進と鋭い牙、そして噛み付きです。走って逃げるのは無理そうですね。
泳ぎも得意で、離れ磯で釣りをしていた人に、泳いで海を越えて襲い掛かって来た例もあるとか。
貴方が木登りが得意なら高い所に逃げて下さい、ただし猪は150cmくらいジャンプする事も出来るので、それ以上の高さまで登って下さい。
「ブフッ……! バッフバフ!! バァッフ!!」
私はまだ崖の天辺に手を掛けただけだった。猪の顔はおよそ1m前方にある。
「静まりたまえ。さぞかし名のある山の主と見受けたが、何故そのように荒ぶるのか」
私は試しにそう呼び掛けてみた。しかし。
―― ガブッ!!
ぎゃああああ噛まれたああああ!! 正確には噛まれそうになった、猪は瞬きの間に距離を詰め私の手に噛み付こうとした! そして私の体は、
―― ズザザザザザザザザ!!
急傾斜を滑り落ちる! いくら船酔い知らずでも万能ではない!
私はどうにか3m程滑落した所で崖の突起を掴んで止まる、痛い、痛いぃぃ! 猪に噛まれるよりはマシだったのかもしれないが、急に手を離したせいで崖を滑り落ちた私は、またどこかに怪我をした。
「バフフッ!! バフッ、ブハアア!」
猪は崖から顔を出してこちらを見下ろしている……誰だよ! あいつらが臆病で大人しい生き物だって言った奴は! どうすんのこの状態!
「ひいいっ!? まだ居たのかい!」
5mほど下でマヌエラさんも震えている……駄目だ、私が何とかしないと。だけどどうするの!? 短銃は持って来なかったし、剣は竹光だ。
あ……猪が崖から離れる……そうだ。あいつもこの崖は怖いんだ。
私は崖の突起を慎重に見極め、横へと移動する。あの猪はだいぶ年齢を重ねた古猪のようだが、この崖をこの速さで横這い出来る人間が居るとは知るまい。先ほどの場所から十分離れてから……再び崖を登って……
猪はもうどこかへ行ってしまったと思うか? 私はそうは考えない。そっと崖の縁から顔を出した私が見たのは、案の定先程の篭の近くでキョロキョロと辺りを見回している奴の姿だった。うわもう見つかったああ!?
私は崖に駆け上がり! 木の枝に飛びつく! 御願い届いて、ぎゃああ猪が突進して来た、でも間に合った、私は枝の上に飛び乗った、どうだ猪め、お前はこんな高みには登る事は出来まい、
「ブモワァッ!!」
跳んだあああ!? 凄まじいジャンプ力で猪は跳んで来た、嘘でしょその巨体でぎゃああ足元から吹っ飛ばされた私は宙を舞い枝から叩き落される!
―― ドサァッ、ゴロゴロゴロ!
何とか受け身を取った私の目の前には木の幹が、私は立ち上がり必死に飛びつく! 猪はもう反転して向かって来てるたぶん!!
「ぎゃあああああ!!」
―― ズドーン!!
間一髪!? 私はサルのように木の幹を駆け上がり、一歩遅れて突進して来た猪は木の幹に激突、この木倒れないわよね!? 今度こそ高い所に登らなきゃ、キャーッキャッキャッキャッ!!
「ブフッ……ブハッ! ブハーッ!」
……
私は3m程の高さの枝の上から、奴を見下ろしていた。猪め、もはや私には触れる事も出来まい。
だけど、痛い……手は擦り傷だらけだし足も痛い……先程のジャンプで、奴の牙が足に当たらなかったのは幸いだった。
「ブフーッ! ブモッ! ブフッ!」
「何がそんなに気に食わないのよ。アタシあんたに何かした? いい加減にしなさいよ!」
猪は私をじっと怒りの目で見上げている。いつでも飛び掛かれるように構えながら……どうすりゃいいのよ、こんなの。本当に、私何もしてないじゃん。
ヴィタリスには専業の猟師は居ないが、農園主のジャコブさんや衛兵隊長のオドランさんは、時々訓練を兼ねてと言って、猟銃を担いで趣味で山へ行く。そして運が良ければ逃げ遅れた哀れな狸などをぶら下げて帰って来る。そしてもっと運がいいと、良型の猪を仕留めたと言って大喜びで村に触れに来る。
そういう時は私も仕事を放り出し、猪を村に担いで帰る手伝いをしに行くのだ。私なんぞが行ってもほとんど力仕事の役には立たないのだが、手伝いに行きさえすれば猪肉のお裾分けに預かれるのだ。
コンスタンス婆ちゃんも猪肉は好きだった。猪肉を貰った時は野菜と一緒に煮込んで、良かったね、美味しいねと言い合いながら食べたっけ。
もしかしたら私は猪を食材を見る目で見ていて、その気持ちが猪に伝わってしまっているのだろうか。
「知らないよ! 私は猟師じゃないしアンタと戦うつもりは無いんだよ! とっととあっちへ行けー! あっち行けー!」
私は興奮したサルのように枝の上で飛び跳ね、甲高い声で威嚇する。ムキー!
「ブファー!!」
―― ドーン!!
ヒエッ!? 猪は突進して来て、私が登っている木の幹にまた体当たりして来た! いや、いくらなんでも木をまるごと切り倒すのは無理でしょ……?
私が登っているのは若い楢の木だった。大丈夫だよね? 幹の直径も15cmくらいあるし……
「ブファー!!」
―― ドーン!!
楢の木材は造船にも好んで用いられる高価な木材だ。例えばアイビス海軍が気合いを入れて作ったスループ型戦闘艦のフォルコン号には、オーク材が惜しみなく使われている。一方、昔私が乗っていたバルシャ型商船リトルマリー号などはもっと安い木材で作られていた。
「ブファー!!」
―― ドーン! ギシギシ……ガサガサガサガサ!
あっ……木が倒れる……倒れるゥゥ!?
―― バリバリバリバリ! ズシーン!
「ぎゃああ倒れたあああああー!」
「ブモォォ!」
倒れた木から落ちた私に突進して来る猪、大概にしやがれ! 私は抜刀しながら飛び退り、目の前を通過した猪の背中に……飛びつく!
「わぎゃっ、わぎゃっ、ぎゃあああ」
「ブモッ、ブモッ、ブモモォ!!」
猪が暴れる、私はしがみつく、天地が巡り、大地が迫る、ぎゃあああ猪が私を岩に押し付ける、畜生離すかこの野郎!
「ブモモォォ!!」
「きゃっ! きゃっ! キャーッ!!」
激しく首を振り回す猪、私もそれに振り回される、あああ、世界が巡る、周りが見えるけれど見えない。猪に乗るというのはこういう事なのか。船酔い知らずのおかげで揺れは感じないのだが……いやいくら船酔い知らずでもこの回転は無い、ぐえっ……だんだん気持ち悪くなって来た……
「回るなッ、回るなこんにゃろー!」
頭に来た私は猪の首に後ろから抱きつき、目隠しをしてやる。
「ブフー!!」
猪は暴れ回るのをやめて真っ直ぐ走り出す……待て。待てそっちは崖、崖、崖ェェーッ!!
猪は私に抱きつかれたまま、真っ直ぐ崖へと突進して行く。
アホのマリーはますます力を込めて猪の首に抱きついていた。
「ぎゃあああああああ!?」
「バフッ! ブハッ……ブハーッ!?」