マカーティ「コンドルの娘? んなもん親父そっくりの三つ編みしたゴリラに決まってるだろ」
パン屋は襲撃犯では無かった模様。マリーの早とちりでした……だけどこのパン屋さん、どうやら全くの無関係という事は無さそうです。
今回は一見三人称風ですが、マリーの一人称の話です。
レイヴンの首都ブレイビス。そこは世界中の海から集めた富で大いに栄え、文化芸術も花開き、様々な娯楽に溢れる花の大都会だ。
リンデン伯爵の娘で四姉妹の長女、イルミナ・リンデン嬢は才色兼備、先々代の王の妹の曾孫にも当たる血統書付きの伯爵令嬢だった。
その美貌はブレイビスの社交界でもたいそう評判になり、その噂は次期国王と目されるウォーレン王子の耳にも入った。二人は周囲の手引きにより、歌劇場の客席で偶然出会い、それからも時々一緒に歌劇を見に行く仲となった。
それが気に入らなかったのが悪役令嬢、クローバー侯爵の娘エリザベスである。エリザベスは以前から同じ学問所に通っていたイルミナに嫌がらせをしていたのだ。そんなイルミナが万が一王子の恋人、そしてうっかり皇太子妃に、あろう事か王妃になどなってしまったら、自分もクローバー家も仕返しを受けるに違いない。
クローバー家はノーラ近郊の大地主で大きな私設艦隊を持つ大資産家で有力貴族である。そしてクローバー侯爵は一人娘のエリザベスにはとことん甘い父親だった。
エリザベスはクローバー家の人脈と資産を駆使しイルミナの体のいい追放先、いや縁談を探した。集まった縁談の中にはアイビス国王の第二夫人にという玉の輿もあったのだが、そういうものはエリザベスが排除した。
そうして悪役令嬢エリザベスが選んだのが、とある高等外務官が持ち込んだ話、タルカシュコーンの王子との縁談だった。
イルミナはこの話を大層嫌がった。そんな所に行くぐらいなら死ぬとまで言い出した。
タルカシュコーンは遠く離れた異国で、王室が信仰する宗教も違う。話す言葉も、生活習慣も、服装も、全てが違うのだ。
レイヴンのウォーレン王子はなかなかの美男子で年もイルミナと同じだというが、タルカシュコーンの王子は中年で肥満していると聞く。肌の色も、顔立ちも、レイヴン人とは全く違う。
そもそも、レイヴンで何不自由なく育った伯爵令嬢のイルミナが、そんな何もかもが違う場所で今まで通りに暮らして行ける訳がない。
イルミナの父リンデン伯爵は優しいが気の弱い人物で、クローバー家の調略に対し有効な手立てを打つ事が出来ずに居た。その間にイルミナの外堀はどんどん埋められて行った。
パン屋のお兄さん、ヘリックさんはパンを焼くのが趣味のリンデン家の従者だった。ヘリックさんは自分には密かなイルミナ嬢への恋心があったという。
「自分にはクローバー家と戦う力は無いと思いましたから……私はリンデン家に暇を請い、先乗りしてタルカシュコーンにやって来ました。郊外の村に住みついたのは、レイヴン公使に睨まれたくなかったからです」
イルミナ嬢が抵抗虚しくタルカシュコーンへ送られてしまった時の為に。ヘリックさんはここでパン屋を営みながら様々な情報を集めた。彼女がどうしてもここで暮らさなくてはならなくなったなら、陰から彼女を支えられるように。
そして一昨年12月。伯爵令嬢イルミナ・リンデンはレイヴン海軍艦ブラックバード号でタルカシュコーンへとやって来た。
表向きの名目は輿入れでも婚約でもない。しかしそれは世間とイルミナ嬢の為のまやかしに過ぎず、レイヴン外交部とタルカシュコーン王宮の間ではこの結婚は既に内定事項だった。
レイヴン使節団を迎えた王宮でのパーティで、自然とイルミナ嬢とアミール王子は言葉を交わし、恋に落ち、夫婦の約束をする。レイヴン側ではそういう台本が出来ていた。しかし。
「アミール王子の方が、話が急過ぎると仰せられて。王宮の連中は皆お見合いの事を知ってたのですが、王子だけは知らなかったとか」
王子はすぐ結婚ではなく婚約という事にして、イルミナ嬢にしばらく王宮で暮らしてもらう事を提案した。元々結婚を嫌がっていたイルミナは同意した。イルミナはしばらく、タルカシュコーンの王宮の離れで暮らす事になった。
「私はどうにか離れを訪れ、イルミナ様に面会しました。イルミナ様は……可哀想に、今すぐ、一秒でも早くここから連れ出して欲しいと……だけど私にはその力はありませんでしたから、その時は泣いてすがるイルミナ様を置き去りにして、一人で帰るしかありませんでした」
それからヘリックさんは、王宮に出入りするパン屋になれるよう努力した。イルミナ嬢も王宮のお付きの者にレイヴン風のパンが食べたいと言ってくれたので、それはわりとすぐ上手く行った。
「私は一日おきにパンを届けました……イルミナ様は私とレイヴン風のパンが来るのをいつもとても楽しみにしていて下さいました。思えばあれが、私にとって一生に一度の薔薇色の日々だったのかもしれません……」
しかし月日は残酷に過ぎて行く。レイヴン公使は早くこの婚姻を成立させようと焦っていた。そうなればレイヴンはこの南大陸西部の要衝、タルカシュコーン港から気に入らない国の船を好き勝手に締め出せるようになるのだと。
しかしヘリックさんにはイルミナ嬢の気持ちを踏みにじる母国の公使へ忠誠は無かった。母国そのものが憎い訳ではないが、公使とレイヴン外交部は憎い。
公使と外交部の圧力がかかったのか。ある日を境に、イルミナはヘリックさんがパンを配達に来ても、会ってくれなくなった。
私はパン屋の作業場の裏で、阿呆のように目を真ん丸に見開き口をポカーンと開けて、その話を聞いていた。
「そこに現れたのが、貴女のお父様……フォルコン船長でした」
フラフラとやって来たフォルコン・パスファインダーは、ちょうどこの場所、作業場の裏の物陰で膝を抱えて泣いていたヘリックさんを見つけ、近づいて来た。
「なあ、この村でレイヴンのスコーンが食べられるって聞いたんだけど……知らない? あれは俺の親父の大好物でさ」
フォルコン船長は酔っ払っているように見えた。ヘリックさんはその時、冷めたスコーンの在庫を抱えていた。ヘリックさんはそれをイルミナ嬢の為に焼いたのに、その日はとうとう受け取りさえ拒まれてしまった。
「このスコーンは売り物ではないので売れません……でも食べて下さると言うのなら無料で差し上げます」
「なんだって! ヒャッホー! 今日の俺、めちゃめちゃツイてるゥ!」
フォルコン船長は喜び、特別製のバナナチョコレートスコーンを24個、ぺろりと平らげてしまった。
船長はスコーンを貪り食う間も、ずっとヘリックさんに自慢のホラ話を次から次へと聞かせていたが。
「それにしてもこんな美味いスコーンをただでたらふく食えるとはね! だけどお兄さん、あんた何故こんな所で泣いていたんだい? なあ! 俺はこう見えても立派な船の船長なんだ、リトルマリー号は世界一のバルシャ船さ! あんた俺に仕入れて来てもらいたい物とか、運んでもらいたい物とかないか?」
少し気持ちが弱っていた所を、能天気なフォルコン船長の明るさに絆され、ヘリックさんは話してしまった。リンデン家の伯爵令嬢イルミナに降りかかった災いと、その過酷な運命を。
「なるほど……よーし解った! バナナチョコレートスコーンのお礼に、そのお姫様、この俺が助けてやるよ!」
フォルコン船長はヘリックさんの涙ながらの訴えを聞き終えると、そう言って拳でドンと自分の胸を叩いた。
◇◇◇
「恥ずかしながら……それを聞いた私は声を上げて泣いてしまい……えっ、ど、どうしましたお嬢さん!?」
私の脆い涙腺は、完全に決壊していた。
父がレイヴン海軍の船を強奪したと初めて聞いた時は、それがどういう事なのかほとんど実感出来ていなかった。正直、きっと何かの間違いだと思っていた。
アイビス海軍の重鎮共から同じ話を聞かされた時は、とにかくもうその話には関わりたくないと思った。父がパンツ一丁のフォルコンと呼ばれるのは嫌だが、私がパンツ一丁のフォルコンの娘と呼ばれるのはもっと嫌だ。その程度の認識である。
そしていざ本物の父に再会してみると、父は事あるごとにその話を私に自慢げに聞かせようとする。
私はそれを聞くのが怖かった。どうせ酷く下らない話なのだろうと思った。そんな事の為に父は死亡扱いになり、私は風紀兵団に追われ、ロイ爺達はリトルマリー号を売る決意をする事になった、その話を聞きたくなかった。
だけどその話は今、こうしてパン屋のヘリックさんの口を通して私の耳に入ってしまった。
ほら見ろ。やっぱり若い女の子の為じゃないか。父はそんな事の為に私を孤児にしたんだ。どうせそんな事だろうと思っていたのだ。
そう思いながらも、私の涙と震えは止まらない。
お父さんがした事は、人助けだったんだ。
悪役令嬢の奸計にはめられ、見知らぬ土地に一人で放り込まれ、望まぬ結婚を強いられる女の子を、その女の子の事が大好きだけど気が弱くてパンを焼く事くらいしか出来ないお兄さんを救う為、リトルマリー号の皆が共犯者と思われないよう、堂々と一人で……困っているレイヴン人の女の子を助けようともしないレイヴン海軍の船を、強奪したのだ。
本当の事を言えば、私はアミール王子の話を聞いた時からほんのちょっとだけ期待していた。だけど期待していて裏切られたらまたショックで泣く事になるから、期待してないふりをしていた。
◇◇◇
星明りだけが照らす、新月の航路を行くリトルマリー号……バウスプリットの先端に立っているあれは……お父さんだ。キャプテン・フォルコンだ。
「お父さん」
私は呼び掛け、父に近づこうとする。しかし旅立ちの普段着を着た私は、新月の夜のバウスプリットになど恐ろしくて一歩も登れない。
「お父さん……」
だけど父はそんな暗闇の海に浮かぶリトルマリー号のバウスプリットの先に、事も無げに立ちはだかっている……これが私と父の、船乗りとしての力の差だ、私はあまりにも弱く幼く、父はあまりにも強い……経験、体力、技術、精神、知識、そして愛と勇気……船乗りに必要な全ての要素で、父は私の遥か上を行っている。
私はそんな偉大な父を疑っていたのだ。何故レイヴン海軍の船を強奪したのか? そんなものどうせ、どこかの女の人の気を引く為じゃないのかと……まあそれはだいたい合ってた事になるけど、そうじゃないんだ。
「マリー。ヒーローである父さんには、例え誰にも理解して貰えなくてもやらなくてはならない事があるんだ」
父は振り向いてそう、寂しげに笑う……違う! 私はパパの娘だよ、私だけは! どんな事があってもパパを信じてるから! 私だけは、たとえ世界中が敵になってもパパの味方だから……!
私はそう叫ぼうとした。だけどいくら頑張っても、私の口からその言葉が音として生み出される事はなかった。何故ならそれは嘘だから。私は父を信じられなかったのだ。父を信じず、父の言い分すら聞こうとしなかったのだ。
どうして。私が一番、パパの事を理解してあげなきゃならなかったのに。
父は身を翻し、広い背中を向け、バウスプリットの上から、サメがウヨウヨいる漆黒の海へと飛んで行く……!
「お父さぁぁん!」
◇◇◇
「本当に申し訳ありません、そうなんです、フォルコン船長は私やイルミナ様の為にあんな無茶をされたんです! ああ、どうしましょう、そんなに泣かないで下さい、申し訳ありません、本当に」
おろおろとしたヘリックさんの声で、私は妄想から現実に引き戻される。







