アレク「剣を提げた女の子が物陰にコソコソ隠れながらどこかのお爺さんを尾行して行くのを見たって」不精ひげ「ロイ爺も気の毒に」
悪知恵に負けそうになったマリーと、そこに現れたロイ爺。
そしてイサークさんの懺悔に、ロイ爺の出した答えは?
私は優しいロイ爺が本気で怒り、マヌエラさんやイサークさんを怒鳴りつける所を見たくなかった。しかし。
「それは、マヌエラがイサークの出生届けをすぐには出せなかったからじゃろう」
イサークさんの告白を聞いたロイ爺は、あっさりとそう答えた。
「えっ……」「ええっ?」
「父親が船乗りという事で、家族とは喧嘩をしていたと言うしの……イサークの首が据わるようになって、背負って歩けるようになってから、ようやく町の役所へ届け出に行けたのだとしても不思議はない。その上で、誕生日としてその日の日付を届けてしまったのではないのかね」
そんな事があるのだろうか? しかし、それなら確かに辻褄は合う。私とイサークさんは顔を見合わせる。
私達三人は街道脇の切り株にそれぞれ腰掛けていた。六人連れの小さな荷駄を担いだ旅商人が、目の前の街道を通り過ぎて行く。
「こんにちは。今日は暖かいのう」
「やあ。道が乾くともっといいんだが」
隊商が通り過ぎてから、イサークさんが口を開く。
「はっきりさせよう。俺がちゃんと、お袋に聞いてみる」
「いやあ、それはどうかやめてくれ」
「何故だよ親父! いや……あの……今はあんたの事を、何て呼んだらいいのか解らないんだが……」
ロイ爺が空を見上げるので、つられて私も空を見上げる。イヌワシが一羽、高い所を飛んでいる。この辺りは結構海から離れているような気もするのだが。
「マヌエラもすっかり気難しくなってしまって、イサーク、お前も苦労しているのではないのかね。わしが水夫を辞めてここで暮らしていれば良かったのかもしれんが……わしには水夫以外の仕事は務まりそうにないし、結局の所、どう転んでもわしはお前達の足手まといになっていたのだと思う」
ロイ爺は穏やかに、しかし寂しそうに微笑んでそう言った。
「のうイサーク。わしはお前が自分の息子ではないと思った事は無いし、これからも思うつもりはない。お前がわしをどう思うかは別としての」
「真実が……気にならないのか?」
「真実は、ここにあるさ。お前にとってのわしは、お前が生まれた事に二年も気づかず、気づいた後も時々しか戻って来れず、親父らしい事はほとんど出来なかった駄目親父かもしれん」
「待ってくれ、俺はそんな……!」
イサークさんがそう言って立ち上がりかけるのを、ロイ爺は手を振って制する。
「しかしわしにとってのお前達は違う。お前達はわしの帰る所になってくれた。嵐の時も、海賊に追われた時も、わしはマヌエラやイサークの顔を思い出す事で、諦めずに頑張る事が出来た。それがわしの真実じゃ」
「そ……そんなので本当にいいのかよ、親父は……」
そう言って、イサークさんは鼻をすする。私も目頭を袖で拭う。
「ホッホッ、イサークも小さい頃はそれは可愛らしくてのう、たまに帰ればうんと遠くからでもわしの顔を見つけて、一生懸命この道を走って駆け寄って来てくれたんじゃ」
「おいおい、いつの話をしてるんだよ親父」
「土産はいつもキャラメルじゃったの。イサークはいつも喜んでくれたが、十五を過ぎた頃じゃったか、いつまでも子供じゃないぞと言い出して」
「よく覚えてるなそんなの! よしてくれ恥ずかしい」
「そう言えば、何故土産がキャラメルじゃったのかの。ああ、マヌエラが生ものはやめろと言うからじゃ、小さい頃のイサークはよく腹を壊す子で」
「そ、そんな話聞いた事もないぞ! 誰かと間違えてるんじゃないのか。ははは」
堪えきれなくなったのか、イサークさんは何度も手の甲で目頭を拭う。
「ホッホ……もう随分昔の話になってしまったからの。わしも耄碌して、記憶が曖昧になっているのかもしれん」
私も思わず、口を挟む。
「そんな事言わないでよ。ロイ爺にはまだまだ頑張って貰わないと困るんだから」
イサークさんは私が船長だという話にも驚いていた。そりゃそうだ。山育ちの15歳の小娘の船長なんて普通は居ない。だけど居るんだから大変だ。副船長のロイは最低でもあと10年はしっかりしていないといけない。
「ともかく、このお金を受け取ってはくれんかの。マヌエラには内緒で構わんから……そうしたらわしは船長と一緒に港へ戻るから。今からならゆっくり歩いても、明るいうちに帰れるじゃろ」
「待ってくれ、親父」
イサークさんが、今度は完全に立ち上がる。
「やっぱり、このままだなんて駄目だ。何が真実かとかじゃなく、お袋とちゃんと話をしないと! 頼むよ親父、もう少しこの村に、いや、俺達の家に居てくれ、俺はお袋を探して来る! あんな風に肥やしをぶちまけて、それで今生のサヨナラだなんて事になったらどうするんだ! 今度の航海からは生きて帰って来れるか解らないんだろう!? 年齢的に」
「いや、わし、そこまでは言ってないような気がするんじゃが……言ったかの?」
私も立ち上がる。
「そうだよロイ爺! マヌエラさんもロイ爺も、しっかりしてるうちにちゃんと仲直りするべきだよ! 次に会う時までにお互い相手の顔も忘れてしまったらどうするの!」
「マリーちゃんも、何気に酷い事を言ってはおらんかね……」
私とイサークさんは頷き合う。私にとってロイ爺は実の祖父と同じような大事な人なのだから、私とイサークさんは叔父と姪も同然と言える。
「行こうロイ爺、イサークさんの家がロイ爺の家族の家なんでしょ、だったら堂々とそこに居ればいいじゃない!」
「いやしかし、マヌエラにとってはそうじゃないんじゃ、わしが勝手にあの家の敷居を跨いだら、マヌエラはどんなに怒るか……」
「息子の俺がいいと言ってるんだ! マリーさん、万が一お袋が、俺が居ない時に一人で戻って来たら、その時は……えーと、その、何とかしてくれ!」
私は一瞬、左手に肥え桶を、右手に柄杓を装備し、激怒しているマヌエラさんの鬼神のような構えと表情を思い出す。
「解りました、何とかします! でもなるべくなら二人で帰って来て下さい!」
◇◇◇
水汲み用の桶を頭に被り、鍋の蓋を左手に持って、私は玄関の外を見回す。マヌエラさんはまだ戻って来ない。
私とロイ爺は、イサークさんの家で留守番をしていた。
「すまんのう船長、おかしな事に巻き込んでしもうて」
ロイ爺は少し家の中を見回してから、玄関の土間の方に戻って来た。
「ううん! 私がついて来て本当に良かった。そうでしょロイ爺」
私は得意げに胸を張る。私が居なかったら、ロイ爺はイサークさんとちゃんと話をする事が出来なかったのではないだろうか。ふふん。私は普段は怠け者だが、いざという時はちゃんと役に立つ船長なのだ。
「ま、まあそうじゃな。ありがとう船長」
私は土間の中を見回す。ここは私のヴィタリスの家に似ている。玄関近くに竃と竈があって、煮炊きが出来るようになっている。
土間の真ん中には四角いテーブルと椅子がある。ロイ爺、いや水夫のロイは年に二、三度はここに帰って来て、幼いイサークさんとマヌエラさん、三人で食卓を囲んだのだろうか……いや、その頃にはマヌエラさんの両親も居たのかな?
船乗りというものは、船に乗って遠くに行かないといけない。
普段はほとんど家に居る事が出来ないし、約束した時期に戻って来れない事だって多い。
例えばその船の船長が、思いつきで行動する人間だったら?
グラストを出て南に戻ると言っていたのに、港を出るなり気が変わったから北東へ向かうと言い出す、そんな身勝手な奴だったら?
私は肩をすぼめ、溜息をつく。
もしですよ。ロイ爺がもっと早くにカンパイーニャ港の近郊に家族が住んでいる事を打ち明けてくれていたら、私はもっと気にしていましたよ。そうなっていたら、どうなっていたのか。
ヤシュムの収穫を積んだ私はサフィーラに寄らず、カンパイーニャに寄港していたかもしれない。その場合、ホドリゴ船長はエステルに捕まって投獄されていたかもしれないが(※第三作)。
あるいはその後グラストを出港した時だって、南に戻っていたかもしれない。その場合は……私がスヴァーヌ人の幼い兄弟を拾う事はなく、オーロラの下で凍死し掛けてたルードルフを救う事も、その後アナニエフの大艦隊と戦う事も無かっただろう(※第四作)。
国王陛下の観艦式だって私がもう少し早くにレブナンに行ってちゃんと海軍に挨拶してたら、ジゼルさんが偽マリーになる事もなく、私が国王陛下にビンタをかます事もなかったのだ(※第五作)。
まあ、もしも、なんて話は考えても仕方ないや。
「どうしたんじゃ、胸を張ったり溜息をついたり」
「いいえ、何でもないっス……ちょっと待って、誰か来ますよ」
それはマヌエラさんでもイサークさんでもない、先程の牛乗り競争の時に喝采を上げてくれた生意気そうな少年だった。
「あれ、さっきの姉ちゃん。イサークは居ないの?」
「ああちょっと出掛けてるんで、私が留守番をしてるんですよ」
「うちの母ちゃんが、さっきマヌエラさんが一人で隣村を越えて峠の方に歩いて行くのを見掛けたって。それで一人で大丈夫かって聞いたら、年寄り扱いするなって言われたんだとさ。その事を一応、イサークさんに知らせてやれって」