カイヴァーン「ヴァイオリンだ! 姉ちゃん、そいつらに姉ちゃんのヴァイオリンを聞かせてやれ!」
―― ギギィー! ヴギャギャギャギャアアー! ヴギィグワギヤァァーン!
ライオン「ひええっ、こいつはたまらん」
ゾウ「これはかなわないぞう」
―― ドドドッ、ドドドド……
カイヴァーン「やったぜ姉ちゃん、見事ヴァイオリンで野獣共を追い払ったぞ!」
マリー「何なのこれ! 納得行かないんですけど!?」
雑然とした町に再び飛び出したジュリアンは、あの男達と、恐らくハリシャという名前の少女の姿を探す。しかし人種と文化の坩堝であるタルカシュコーンの市街は、ほんの30秒前にあの店を出た男達と少女の姿を完全に覆い隠してしまっていた。
ジュリアンはやみくもに走った。ともかくほんの少し前まであの三人はこの店の中に居たのだ、まだそこまで遠くへは行っていないはずである。
自分は一体、何をしているのだろうか? そう思う気持ちが無いでもない。
遠い遠い異国でたまたま目にした、異文化の少女。少しだけ大好きな姉に似た少女。自分が最後の仕事を台無しにしてしまった少女。
彼女の名前は本当にハリシャなのか、それすらも解らないまま、ジュリアンは少女の姿を探す。
しかしジュリアンは二人の男に連れ去られる少女を見つける事が出来なかった。
「……」
ジュリアンは無力感に苛まれる。生まれてから今まで、自分はずっとこうだった。母も父も救う事が出来なかったし、姉にも迷惑を掛けるばかりだ。
自分はいつまで、無力な少年で居なくてはならないのだろう。早く大人になりたい。大人の男になって、思い通りに生きたい。誰かに守られるのではなく、大切な人を守れる大人の男になりたい。少年はそう、強く思い願う。
「小僧! さっさとこっちに来い!」
近くで誰かが、ジュリアンにも解る言葉で叫んだ。三週間を越える見習い生活の中で、すっかりそんな風に無造作に大人に呼び止められる事に慣れてしまったジュリアンは、思わず身を固くして振り返る。
しかしその罵声を上げたのは知らない大人で、呼ばれたのもジュリアンではなかった。ジュリアンよりも小柄な、黒い瞳の少年が一人。ぼんやりしていた所を大人に見咎められ、慌ててそちらに駆け寄って行く。
「そうだ、それでいい。中にお前の夕飯があるからな……厨房に行って元気に言うんだ、飯をくれ、ってな」
罵声を上げた大人は一転、駆け寄って来た少年に猫撫で声でそう言った。ジュリアンの目には、二人には血縁関係があるようには見えなかった。
ではあの少年は何だろう。自分と同じような孤児だろうか? ではあの大人の男は? 孤児に食事や寝床を提供してくれる親切な修道士なのだろうか?
大人の男は少年の肩に手を置いて、間口の小さな建物に入って行く……ジュリアンは何となく、その入り口の方へ近づいて行き、中を覗こうとした。
―― ガシッ
その途端。ジュリアンは誰かに後ろからがっしりと腕を掴まれ、飛び上がる程に驚く。
「ヒッ……」
「そんな所に近づくんじゃないよ!」
恐怖に震えながら振り向いたジュリアンが見たのは、タルカシュコーンの地元の民族と思われる、鮮やかな色彩の服を着た逞しい壮年女性だった。
「そこはあんたみたいな子供を専門に買い集める、恐ろしい人買いの家だよ!」
女性は有無を言わさずジュリアンの腕を引っ張り、その建物から遠ざける。彼女はジュリアンを見て北大陸の人間だと判断し、コルジアやアイビスの言葉のつもりでジュリアンに話したのだが、その内容は彼女の訛りと少年の知識不足のせいで、ジュリアンにはすぐには理解出来なかった。
「どこから来たんだいあんたは? 大人は一緒じゃないのかい?」
女性は自分の話が少年に通じてないのを悟り、ゆっくりと簡単な言葉でそう尋ねた。
「お……俺は今日入港した船の水夫です、船長と一緒に上陸して、宿に泊まっています」
ジュリアンもどうにかそう、ゆっくりと簡単な言葉で答える。
「そうかい……孤児ではないんだね? それなら早くここを離れて、あんたの船長の所に戻るんだ……この町はいい町だけどね、残念ながら悪い奴も居るんだ」
そう言って、壮年女性は離れて行った。
ジュリアンは言われた通りにその建物から一度離れるが、何かが気に掛かり、少し離れた物陰に隠れて、恐ろしい人買いの家だというその建物を見つめていた。
果たして。二人の男と少女は、別の道を通ってそこにやって来た。そして物陰から見つめるジュリアンの前で、その建物に入って行く。
ジュリアンは息を呑む。何故あの少女が、人買いの家に入って行くのか? 彼女はモーラ人の宿屋で働いていたのに。ジュリアンには結局の所、あの夫婦と少女の関係が解っていなかった。あの夫婦は本当に少女の両親ではないのか?
今、建物の入り口には誰も居ない。行って中を覗いてみようか? しかし……そこは怖い大人の居る所だ。
ジュリアンは幼いが、それなりに苦労して来た少年だった。とくにこの一年は。
人買いなどというものは、大きな町ならどこにでも居るのだと思う。アイビスの町でも、自分と姉が孤児である事を知り、人買いが近づいて来た事がある。
『可哀想に、食べる物も住む所も無いのだろう? 私の所に来なさい、王宮のような所に住まわせてあげるから』
ジュリアンは、そんな大人達の狙いは美人の姉だと考えていた。
『あの人、ジュリアンを学校に行かせてあげるって言ってたわ、お話ぐらいは聞いてみても……』
『しっかりしてくれよ姉ちゃん、あんな奴の話なんか聞いちゃ駄目だ!』
姉の手を引き、路地から路地へ逃げ回った日々が脳裏に蘇る。
風紀兵団にも、よく追い掛けられた。
『外の世界は危険なのです、人買いは貴方達のような罪の無い子供を狙っています、王立養育院に行きましょう! そこは安全で平和な場所なのです!』
『あの人達は国王陛下の家臣なのよ、どうして信じてはいけないの!?』
『あいつらも人買いと同じさ、姉ちゃんの自由を奪う事しか考えてないんだ!』
ジュリアンは姉の事を思い出していた。訳もなく涙が溢れる……自分は姉を危険な大人達から守っていたつもりだったが、一方で、自分が我侭を言って風紀兵団の助けの手を拒んでいたのだという自覚もある。
本当は、姉は王立養育院に行っても良かったのではないか。まさか国王陛下が姉を騙し、清廉な修道院に送る代わりに大人が酒を飲んで乱痴気騒ぎをするような店に、接待係として放り込むような事はあるまい。
だけどジュリアンは姉と別れるのが嫌だった。それは純粋に、ジュリアン自身の我侭だ。
男女別の養育院に入ったら、卒院まで姉に会えなくなる。しかも二歳年上の姉は自分より先に卒院する、18歳になってやっと自分が卒院したら、20歳の姉はもう結婚して別の男と暮らしていた、そんな事になったらどうする?
そんな我侭を通してまで、姉を連れ回し、祖国を離れ……長い旅をしてロングストーンに流れ着いて、臭くて汚い溝浚い小屋に住みついてまで、二人暮らしを守って来た姉なのに。
自分は、姉の仕事に対する嫉妬と言うしかない、非常にくだらない理由で姉の元を離れてしまった。
自己嫌悪と無力感が少年を苛む。
もう、こんな後悔はしたくない。
ジュリアンは再び、今日出会ったばかりの少女に想いを寄せる。自分より背の高い、少し姉に似た、異国の少女。
彼女は明らかに自分の思惑に反してあの店から引き離され、この、人買いの家だという建物に連れて来られたのだと思う。
まだ母が生きていた頃。ジュリアンは教会で、神父が嘆くように聴衆に語るのを聞いた。教王が新たに人々を奴隷にする事を禁じてから既に百年が経つのに、奴隷は居なくならない。こんなのはおかしいと。既に奴隷になった者の売り買いは禁じられていないのだが、人を新たに奴隷にする事が禁じられているのに何故100年経っても奴隷が居なくならないのかと。
ジュリアンの心が激しく揺れ動く。
もしもあの少女に他に味方が居ないのなら、自分が助け出してやりたい。
だけどここはただでさえ見知らぬ異国で、この先は恐ろしい人買いの巣窟だ……自分のような無力な存在に、自分の姉の役にすら立てなかった男に、何が出来るというのか。
ジュリアンは、低く、小さな溜息をついた。
結局の所自分はただ無力なだけでなく、密航しようとして海賊船に乗ってしまった間抜けで罪深い愚かな子供に過ぎない。
自分には、大人達が動かしているこの世界にどんな影響も与える事は出来ない……そう考えたジュリアンは、ただ振り返り、マカーティ船長に頼まれた荷物番に戻ろうとした。
―― ドンッ……
しかし後ろを向いて立ち去ろうとしたジュリアンはたちまち誰かにぶつかり、跳ね返されて尻餅をついてしまう。
「あの、ごめんなさい……!」
とにかくぶつかった相手に謝ろうとジュリアンが顔を上げた先に居たのは、仏頂面のマカーティ船長だった。
「ごめんなさいじゃねーよクソが! おめー、あの激辛料理の店の女の子に一目惚れしたんじゃねーのか? それで何黙って帰ろうとしてんだ、ああ?」







